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日本で活躍した戦闘機 その2

日本で活躍した戦闘機たち、その2

戦時中日本では、数々の戦闘機が開発・運営されました。
前回に引き続き、その中からいくつかご紹介しましょう。

※文中の試作機の名称はキ○○で統一しています。キは陸軍の試作機の通し番号で、機体のキを意味します。また、製造メーカーの区別はありません。

※エンジンの名称もハ○○で統一してあります。ちなみにハは発動機のハを意味します。

中島97式戦闘機(キ27)

97式戦闘機は日本陸軍初の近代的低翼単葉戦闘機です。
1935年末、陸軍は複葉の95式戦闘機に代わる次期単発単座戦の競争試作を中島、川崎、三菱に指示しました。

By: Cliff

その要求は、低翼単葉、最大速度450kh/m以上、上昇力6,000mまで6分以内、格闘戦重視などで、中島はキ27、川崎は液冷ハ9装備のキ28、三菱は96艦戦の発展型であるキ33をそれぞれ試作。

キ27試作1号機は1936年10月15日に初飛行し、同年11月に始まった軍の審査で候補機中随一の格闘戦性能を示して、制式採用を勝ち取りました。
中島は本機に先だって、車内名PE型と呼ばれる低翼単葉の実験機を作って徹底的なテストを実施していて、このPE型を事実上の原型として作られたキ27は、極めて完成度の高い機体だったと行っても過言ではありません。

なお、キ27試作1号機はハ1甲装備で翼面積16.4㎡、同2号機は18.6㎡で約1度のねじり下げが付けられており、このタイプが採用されました。
1937年後半に増加試作型10機が作られて実用試験が行われ、同年12月、97式戦闘機として制式採用が決定します。

最初の量産型キ27甲はハ1乙、離昇710hp装備で、新設の中島大田工場において量産に入り、日華、ノモンハン両事変で活躍しました。また、後期生産型キ27乙は装備改良型で、キャノピー透明部が後部まで広げられた点が識別点です。

97戦は前記の両事変でソ連製イ15、16を相手にその軽快な運動性と乗員の高い技量により圧倒的勝利を収めました。しかしその成功に酔うあまり、世界の水準から見て明らかに不足していたスピード、武装、防弾などの欠点を見過ごしてしまい、陸軍航空隊内に格闘戦性能偏重という悪しき風潮を生み出したのもまた事実です。

ちなみに、対戦初期に第一線を退いたキ27の多くはスパッツを取り外し、97式戦闘練習機として使用されました。

中島1式戦闘機「隼(はやぶさ)」(キ43)

「隼」は陸軍初の引込脚戦闘機ですが、用兵側の頑迷さもあってその設計思想は古めかしいものです。しかし搭乗員の優秀さにも助けられて、緒戦(しょせん、戦争初期)に限ればよく働いたというべきだと思います。

陸軍の競争設計方法はキ27で終わり、その後継となる、新戦闘機の開発は、キ27の制式採用決定の直後、同じ中島に対し指示されたのです。

主な要求使用は、97戦を上まわる運動性と500kh/h以上の高速、行動半径800km以上、武装は97戦と同等、引込脚採用などで、これに対し中島は1,000馬力級ハ25を搭載し、キ27を一回り大型化したキ43を開発、1938年12月12日に初飛行させました。

テストの結果、キ43は速力がキ27にわずかに勝るぐらいで空戦性能は大幅に劣ったため、新規に開発したメリットはほとんどないと判定されてしまいます。このため、重量軽減や可変ピッチプロペラへの改修、翼面積変更などが行われましたが、結果はあまり良くなく、一時は不採用となるところでした。

しかし1940年蝶型空戦フラップの採用と陸軍航空審査部による垂直面空戦能力の再評価、および陸軍の南方進出作戦に長距離戦闘機が必要となった事などから、1941年4月ようやく1式戦闘機として制式採用が決定されます。
その後中島で3,187機、立川飛行機、航空廠製を合わせて5,751機が終戦近くまで作られ、零戦に次ぐ第2位の生産数を記録したのです。

「隼」のバリエーションは、試作型3機、増試型10機に続いて生産型キ43Ⅰ甲、キ43Ⅰ乙、キ43Ⅰ丙が作られ、以上はいずれもハ-25、2翅プロペラ装備、続いてキ43ーII試作型を経て1942年にはハ115、3翅ペラ、翼幅60cm短縮型のキ43-II甲が登場、更に推力式排気管としたII乙、単排気管改造型II改が作られ、1944年には馬力強化とスピードアップ、武装強化などをはかったIII甲、乙が少数試作されました。

中島2式戦闘機「鍾馗(しょうき)」(キ44)

陸軍はキ43の試作発注後間もない1938年はじめ、高速重戦闘機思想にもとづくキ44の試作を中島に命じました。

これはノモンハンにおけるI-16やSB-2爆撃機の高速重装甲に驚かされる1年以上も前のことであり、当時の陸軍の中にも世界の戦闘機開発は高速重戦であると見抜いていた卓見の士が、少数ながらいた事を示しています。

中島2式戦闘機「鍾馗」(キ44)の主な要求使用は最大速度600km/h、上昇性能5,000mまで5分以内、7.7mm×2、12.7×2装備などで、これらをクリアするためエンジンは大直径ながら当時最強のハ41を採用し、主翼は極力小型化、離着陸/空戦特性改善のため蝶型ファウラーフラップを装備、850km/h程度の急降下速度にも耐えられる強固な機体構造などを取り入れて設計されました。

試作1号機は1940年春に完成し、10月から軍の審査が始まりましたが、速度、上昇力とも予定を下まわったため、カウルフラップ、気化器インレットなどの改修が行われ、これによってほぼ要求値に達します。

また着陸速度の過大や旋回性能不良も指摘されましたが、加速性の良さや対爆撃機迎撃が有効な点が評価され、1942年9月、2式戦闘機として制式採用されました。

試作型4機、増試型6機に続いてキ44-Ⅰが40機作られ、このうち5機はハ109装備のキ44ーII試作型に改修。

1942年12月にはⅡ型の制式採用が決まり、増試型3機がテストされた後にキ44II甲の量産がスタート、続いて固定武装を12.7mm×2のみとして、主翼内に40mmホ301砲装備可能としたⅡ乙、12.7mm×4としたⅡ丙が生産された他。1943年にはハ45に換装し、主翼を拡大したキ44ーIIIが試作され、合計生産数は1,225機にのぼります。

2式単戦は、軽戦になれたパイロットからは不評でしたが、緒戦の東南アジア派遣から末期の本土防空まで良く活躍し、出現当時は世界水準を超えた秀れた高速重戦でした。

川崎3式戦闘機「飛燕(ひえん)」

1940年2月、陸軍は川崎に対し、ドイツ製DB601及びその国産化エンジンであるハ40を搭載した重戦キ60と軽戦キ61の試作を命じます。川崎ではキ60の設計を先に完了、キ61の設計を同年12月に開始し、1年後の1941年12月に試作1号機が完成。

キ61のデザインの特徴は、運動性を確保するためにキ60より翼面積を25%近く増やすとともにアスペクト比を7.2と高く設定した事、胴体を極力細くし、ラジエーターをもっとも抵抗が少ない主翼付け根後縁部に設置するとともに、オイルクーラー一体型とするなど抗力減少をはかった事、強度計算を厳密に行って極力重量軽減を行った事などで、この結果、審査では重戦を目指したキ60やキ44をしのぐ高速591kmと良好な操縦/安定性と強度を持つ優秀機と判定されました。

陸軍は1942年6月に制式採用を決定し、ただちに量産が開始され、終戦までに各型合計3,159機生産されます。
最初の量産機キ61-Ⅰ甲はハ40装備、武装は7.7mm×2、12.7mm×2としたモデル、次のキ61-Ⅰ乙は翼内砲も12.7mmとし、途中防弾も強化され、続いて翼内砲をドイツ製マウザーMG151/20、20mm砲に換装したキ61-Ⅰ丙、陸軍側の要請により胴体にホ5、20mm砲×2に換装し、胴体を20cm延長したキ61-Ⅰ丁が生産されました。

Ⅰ丁型は重量増による性能低下をきたしたため、メタノール噴射付きハ140を搭載し、主翼、胴体とも大型化したキ61-II試作機が作られましたが、性能向上は十分ではなく、IIの胴体にⅠ丁の主翼を付けたキ61II改が1944年9月から生産。
しかしハ140の不調と生産遅延のため、II改として完成したのは増試型30機、生産型99機のみで、首無し機の257機がキ100として再生されたのです。

3式戦は速度、格闘戦能力のバランスが良い戦闘機として南方作戦から本土防空まで広く使われましたが、エンジンの不調、武装の劣弱と不調など弱点も多く、実力の全てを出し切れずに終わった戦闘機と言えます。

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