太平洋戦争が末期を迎える頃、日本では「一億総特攻」の名のもと、戦争指導者たちが次々と特攻作戦を立案しました。彼らは、たとえ命を犠牲にしてでも、アメリカを中心とする連合国軍に一矢報いることを目指していたのです。
これらの作戦はいずれも、兵士一人ひとりの命が失われることを前提とし、その犠牲によってできるだけ多くの敵兵に打撃を与えることを求めるものでした。その是非については、戦後の現在に至るまで議論が続いています。
当時の大本営では、特攻兵器の研究開発が真剣に進められていました。連合艦隊の参謀として真珠湾攻撃にも関わった黒島亀人大佐らが中心となり、その開発を強力に推し進めた結果、常識では考えがたい数々の「特攻兵器」が生み出されていきます。
こうして誕生した特攻兵器は、「一人の命で多くの敵兵を殺傷する」ことを目的としたものでした。本稿では、それらの中でもあまり知られていない特攻兵器について紹介していきます。
潜水兵器「伏竜」
特攻兵器の多くは、日本本土へ上陸しようとする連合国の艦船を、上陸前に破壊することを目的としていました。
本来、上陸を阻止するための基本戦術は、まず航空戦力や艦船による砲撃で敵の戦力を削り、そのうえで弱体化した敵に対して陸上から砲撃を加える、という段階的な攻撃を行うことにあります。
1945年になると、日本の航空戦力は特攻が中心となり、通常の航空攻撃はむしろ避けられる傾向になっていました。さらに、水上戦力として期待されていた軍艦も、同年4月の「菊水作戦」において、戦艦大和を旗艦とする第二艦隊が海上特攻の末に壊滅します。加えて、艦船を動かすための燃料もほぼ枯渇しており、連合国軍が本土に上陸してきた際の抑止力としては、もはや期待できない状況でした。
つまりこの時点で、日本本土を守るために残された有効な手段は「特攻」しかなかったのです。
特に、上陸してくる連合国軍に大きな損害を与えるためには、秘匿された特攻戦力による不意打ちが不可欠と考えられました。そこで検討されたのが、潜水服を着用した兵士が上陸予想地点の海岸で待機し、水中から特殊な機雷を敵上陸艦の底部に突き刺して攻撃するという作戦です。
この構想から生まれたのが「伏竜」です。伏竜では、既存の潜水服を改良して水深20メートルまで耐えられるようにし、さらに機雷を棒状に加工することで、水中から艦艇の底へ突き刺せるように改良されました。
1945年6月には、伊勢湾や志布志湾など、連合国軍の上陸が予想される地域に部隊が配置され、実戦に備えた訓練が行われるようになります。しかし、潜水服の不具合による事故や機雷の暴発などが相次ぎ、実際には戦力として十分に機能するものではありませんでした。
また、実戦では、モーターボートの先端に魚雷などを装備し、敵艦に体当たりする特別攻撃艇「震洋」と連携した作戦が計画されていました。しかし、日本本土への本格的な上陸が行われる前に戦争が終結したため、これらの作戦が実施されることはありませんでした。
なお「震洋」は沖縄戦に一部投入されましたが、沖縄本島上陸前に、配備されていた慶良間諸島などが攻撃を受けたことで、その多くが実戦投入前に破壊されてしまい、十分な戦果を挙げることはできませんでした。
改良型「桜花」
ロケット弾に操縦者が乗り込み、敵艦船に体当たりする「桜花」は、特攻兵器の象徴として知られています。
実戦では、陸軍の「一式陸攻」に吊り下げられた状態で戦場へ向かい、目標付近で切り離された後、自力で約2000メートルを飛行。音速に近い速度で敵艦に突入するという運用が想定されていました。
しかし現実には、戦場へ到達する前に優勢な敵航空戦力に迎撃され、一式陸攻ごと撃墜されてしまうケースが多かったのです。
こうした戦場での厳しい状況を受け、より実用性の高い特攻兵器として桜花を改良する計画が進められたのは、1945年6月のことでした。
地上の航空基地から、助走装置を用いて離陸する「桜花」は、日本本土へ上陸してくる敵艦船への特攻を目的としていました。そのため、搭載燃料の増量などの改良も進められていました。
また、房総半島など連合国軍の上陸が想定される沿岸には、桜花専用のカタパルトが設置され、敵の上陸が迫った際には、これを使って迅速に発進できるよう準備が整えられていました。
なお、「桜花」は当初の性能を発揮できれば、連合国軍にとって大きな脅威となる兵器でした。通常の航空機の約2倍の速度で飛行し、小型であるためレーダーにも捉えにくい特徴を持っていたからです。
そのため、もし本格的に運用されていれば、航空戦力で優位に立っていた連合国軍であっても、一定の損害を受ける可能性があったと考えられています。
特攻専用機「剣」
本土決戦の主力として想定されていたのは、航空機による特攻作戦でした。
この作戦では、かつての名機「零戦」だけでなく、練習機である「白菊」まで投入される計画で、実際、日本本土には約1万機もの航空機が特攻用として温存され、来るべき決戦に備えられていました。
しかし、これだけの数を確保するには既存の航空機だけでは明らかに不足。そのため、特攻専用機の開発が進められることになったのです。
国内に余剰となっていた旧式の航空機用エンジンや部品を活用することで、この機体は製造されました。大規模な工場を必要とせず、地方の小規模工場や防空壕内でも生産が可能であった点が特徴です。また、木材やブリキといった比較的確保しやすい資源を用いた設計が採用されました。
その結果、1945年1月に設計が開始されてからわずか5か月後の同年6月には、テスト機による離着陸実験が行われるまでに至りました。
この機体は「剣(つるぎ)」と命名されました。離陸後には車輪を投棄し再利用する仕組みが採られるなど、まさに特攻専用に作られた一撃必殺の航空機です。「剣の一太刀で敵を倒す」という思いが、その名に込められているとされています。
しかしテストの結果、離着陸性能やエンジンのばらつきによる航続距離の問題など、さまざまな不備が明らかになります。それでも特攻専用機という性質上、これらの欠点は大きく問題視されず、生産体制の確立が急速に進められていきました。
終戦時には約50機分の部品が完成しており、青森県の三沢基地では専用部隊が編成されるなど、大きな戦力として期待されていたことがうかがえます。
一方で、こうした専用兵器とは別に、既存の航空機を用いた特攻作戦も計画されていました。たとえば、長距離航続能力を持つ陸上攻撃機「銀河」を使い、サイパンやグアムの飛行場に兵士を送り込み、胴体着陸によって運用を妨害する「義号作戦」です。
この作戦は、沖縄戦で一定の成果を上げた戦法を拡大したものでしたが、1945年7月末にアメリカ軍の空襲を受け、使用予定の航空機が破壊されたため、大規模な実施には至らないまま終戦を迎えました。
さらに、残された戦力と国民の命すべてを投入する極端な構想として、「一億総特攻」も掲げられていました。竹やりや包丁、なたなどを持たせ、上陸してきた敵兵に立ち向かわせるというものでしたが、これが実行されることはありませんでした。
こうして、特攻作戦のために生み出された多くの兵器は、終戦によって実戦で使われることなく終わり、その結果、無用な命が失われるというさらなる悲劇も、かろうじて回避されたといえます。
もし戦争があと1か月でも長引いていたならば、その結末がどうなっていたのか――そう考えると、強い恐ろしさを感じずにはいられません。





