兵器は質より量という考えは、確かに一面の真理です。
いくらドイツのティーガーが1対1の戦いに強くても、Ⅰ型が1300両あまり、Ⅱ型が500両弱では、第2次世界大戦時のソ連軍の主力のT-34戦車が57000両もあると聞けば、個別の戦闘ではたとえ勝てても、戦争に負けてしまうのは想像に難くありません。
このような思想から、量を増やせば、質が多少悪くてもカバーできるだろう、との考えから色々なモノを、沢山つけてしまった兵器を紹介します。
ただ、ここに挙げるのは成功例がありません。
まずは陸上兵器編からです。
M50オントス自走無反動砲 (アメリカ)
普通は自走砲は大砲の数が、せいぜいあって2門程度なのです、しかしアメリカのM50オントス自走無反動砲は106ミリ無反動砲を左右に3門ずつ、ずらりと6門も並べています。
同じ方向に大砲が6門もニョキニョキと伸びている様は、鋼の錬金術師に出てくる「鉄血」の錬金術師、バスク・グランが錬成した兵器みたいです。
対戦車ミサイルがまだなかった頃、(ベトナム戦争に投入されました。)対戦車車両として期待されたのですが、実際には子弾をばらまく「フレシェット弾」を使って対人戦闘に活躍したそうです。
小銃弾を防ぐくらいの装甲を備え、射撃は車内から行えたのですが、砲弾を6発撃ってしまうと、なんと砲弾の再装填は乗員が危険を顧みず、いそいそと車外に出て行わなければなりませんでした。
これが大きな欠点となり、退役後は後継となる兵器は作られることはありませんでした。
多砲塔戦車 T-35 (ソ連)
オントスが大砲の数一番なら、砲塔の数一位はソ連の多砲塔戦車、T-35です。
「多いことはいいことだ」とばかり、76.2ミリの主砲塔を、45ミリ砲搭載のものが2つ、7.62ミリのものが2つ、と4つの砲塔が取り囲んでいるのです。
これで強けりゃ文句はありませんが、多くの砲塔と11名もの乗組員を載せているため、重量がかさんでエンジンに大きな負担がかかってしまうことになります。
そのため機動性が悪く、全62両の9割が戦闘に参加する前に行動不能になって遺棄されたり、自爆させられたり(鹵獲してもドイツ軍も困ると思いますが)してしまいました。
モスクワの戦いに参加した2両も戦闘で失われたらしいです。
前面は装甲50ミリでしたが、あとの装甲が20ミリ(しかもほとんど傾斜なし)でしたので、ドイツの3号戦車にもらくらく撃ち抜かれたのでした。
多砲塔戦車の進化の絶頂(?)であるT-35と、T-28が姿を消すことで、多砲塔戦車の歴史も閉じることになります。
V3 15センチ高圧ポンプ砲 (ドイツ)
ロンドンを震撼させたV2ロケットでしたが、ドイツでは次なるV兵器(報復兵器)が開発されていました。
長距離砲「V3 15センチ高圧ポンプ砲」です。
これは射程300キロ(を目指していた)の長距離砲で、砲身が150メートルもありました。
しかし、それだけでは目標の射程に届きません。
そこで、この砲身を魚の背骨とすると、それについている骨のように斜めに薬室(火薬の燃焼室)を28個取り付け、タイミングよく火薬に点火することによって砲弾を加速して射程を伸ばそうとしました。
しかしやはり薬室が多すぎて、点火のタイミングが難しいため、開発に手間取り、もう少しで実戦配備という矢先にイギリス軍の大型爆弾「トールボーイ」を落とされ、破壊されてしまいました。
シュド・ウェスト SO.4000 (フランス)
陸上ならともかく、空中に浮かぶ飛行機には、何かを沢山付け過ぎなど無いだろうと思いきや、探せばあるものです。
第二次世界大戦が終わり、フランス航空業界もジェット化の波に遅れまいとジェット爆撃機を作ることになります。
「シュド・ウェストSO4000」もその1つでした。
ところが、何を思ったのか、離発着に使う主脚を4本も作っちゃったのです。(試作機では、タイヤがタテに3列並んでいたので、それよりマシだと製作者は言い張るかもしれませんが。)
たかが主脚と侮るなかれ。
多い上に長い主脚→主翼に燃料タンク作る余裕なし→胴体には爆弾倉があるので燃料タンク作れず→航続距離短くなる、という悪循環がトントン拍子に進み、戦闘行動半径が、何とたった600キロと少しになってしまいました。
最大速度が推定850キロだそうですから、作戦にたずさわれるのは往復含めて最大でも2時間ありません。
完成と同時に失敗作決定となってしまい、1回飛んでお蔵入りとなったそうです。
ちなみに、フランスは第二次大戦中は、爆撃機後進国で終わってしまいました。
フランスのアミオ社によって開発された爆撃機、アミオ143などは、オシャレなフランスのイメージを根底から叩き壊すデザインで、わざと作ってもこうはなるまいという不格好さでした。
しかも、この機体から爆弾倉を取り外し、あちこちに銃座を付けて「多座戦闘機」などと呼んでいましたが、俊敏な単座戦闘機に勝てるはずもありませんでした。
フランスが飛行機に何かを沢山つけようとすると、あまり良い結果にならないのかもしれません。
ちなみに、アミオ143はバトル・オブ・フランスで本業の爆撃に出かけたところ、1940年5月の出撃で、12機中11機が対空砲火のみに撃墜されるという大損害の記録を作ってしまいました。
SO4000は、何とかちゃんとした爆撃機を作りたい、と焦った結果だったのかもしれません。
ベル XFM-1 エアラクーダ (アメリカ)
多座戦闘機の失敗例をもう1つ。
こちらはアメリカですが、ベル XFM-1「エアラクーダ」は、B-17を護衛する目的で、1936年にベル社が開発した機体です。
アミオ143と違い、こちらは最初から戦闘機として設計されたのに乗組員が5人は多すぎです。
この飛行機を見た瞬間、多くの人は首をかしげるでしょう。
双発機の主翼に通常ついているエンジンナセルに変な窓がついていて、そこから機銃が突き出ているのです。
実は、エンジンは推進式でプロペラは後ろについていて、その前面に機銃をとりつけて銃手が乗っており、見た目には大小3つの操縦席があるみたいですが、一度乗り込んだら銃手は機体本体に行くことはできない構造です。
長距離飛行だと、さぞ孤独になったでしょうが、幸か不幸かこの機体、乗組員の数よりもはるかに多い欠点を抱えていたので、実戦に出ることはなかったのです。
護衛すべき爆撃機より、はるかに遅いのでは使い物にならなかったのです。
コンベア B-36 (アメリカ)
開発しているうちに、時代に置いて行かれる兵器はままあるものです。
「10,000マイルを飛び、10,000ポンドの爆弾を投下する」という「10×10ボマー」を、という要求に応えて1946年にコンベア社が完成させたB-36(ピースメーカーと呼ばれることもあります)は、そのような機体の1つでした。
開発当初は推進式の6発エンジンの予定でした、ところが時代はジェットへと移ろうとしていました。
同じ1946年には、中型のB-47が発注されていたのです。
しかも巨大な機体(B-52よりも一回り大きいのです。)に比べて、エンジンの非力さが指摘されていたこともあり、レシプロエンジンのパイロンの先に、吊り下げ式でジェットエンジンを4基追加したのです。
片方の翼だけで、3基のレシプロエンジンの先に2基のジェットエンジンがあるという、一種シュールな光景となりました。
このテコ入れにもかかわらず、最大速度は時速700キロに満たず、1959年には早くも退役となりました。
以上のように最初から沢山付けたくて、やってみたら失敗だった兵器や、改修などを加える中で、開発者も予想だにしなかった人外魔境に足を踏み入れたものなど様々です。
これからは、これらのような独創的な兵器が出ないと思われるかもしれませんが、戦闘教義(バトルドクトリン)の変化によって、「やっぱりあれもつけたい」ということが起きるかもしれません。
最近では、ロシアのBMP-T「ターミネーター」がこの例でしょうか。