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日本で活躍した戦闘機 その1

2015年6月30日 マサ22 ミリタリー雑学

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日本で活躍した戦闘機たち

戦時中日本では、数々の戦闘機が開発・運営されました。
今回はその中からいくつかご紹介しましょう。

※文中の試作機の名称はキ○○で統一しています。キは陸軍の試作機の通し番号で、機体のキを意味します。また、製造メーカーの区別はありません。

※エンジンの名称もハ○○で統一してあります。ちなみにハは発動機のハを意味します。

中島4式戦闘機「疾風(はやて)」(キ84)

太平洋戦争開始後間もない1941年12月29日、陸軍は時期主力戦闘機となるキ84の開発を命じました。

主な要求使用は最大速度680km/h以上、上昇力5,000mまで4分30秒以内、武装は20㎜、12.7㎜各2というもので、中島は自社開発の小直径2,000馬力級エンジンのハ45を搭載し、左右一体構造で前縁が一直線の平面形とNN系断面型を持つ主翼、空戦フラップやエンジン後方から徐々に細く絞りこんだ胴体など、中島系戦闘機技術の集大成として本機を完成させます。

1943年3月に試作1号機が進空し、テスト中に624km/hの快速を示し、引き続き発注された増試型125機を使って実用化テストが行われ、1944年4月、4式戦「疾風」として制式採用が決まったのです。

キ84の生産は当初中島太田工場で始められ、間もなく新設の宇都宮工場、1944年5月からは太田原町分工場でも生産がスタートしました。

全生産数は諸説ありますが、零戦、「隼」に次ぐ数字といわれており、期間生産率からいえばトップです。

増試/生産型とも武装の違いによりいくつかのバリエーションがあり、キ84甲は12.7㎜機関砲×2、20mm機関砲×2、同乙は対爆撃機迎撃を主目的として20mm機関砲×4を装備、同丙は30mm機関砲×2、
20mm機関砲×2の重武装型で試作のみ、丁は20mm機関砲×4に加えてコクピット後部に斜め上向砲20mm機関砲×2を追加したモデルでやはり試作のみで終わりました。

なおキ84乙の後期型は胴体後部、水平尾翼、翼端などを木製に代え、4式戦2型、キ84-IIなどと呼ばれましたがいずれも制式名ではありません。

4式戦は高速機にもかかわらず運動性も良好、日本機としては武装、装甲とも強力であり、陸軍が「大東亜決戦機」と称したのに恥じないバランスの取れた優秀戦闘機です。

1944年8月にはP-51ムスタングの出現に対応するため中国戦に派遣されて初陣を飾り、同機にも十分に対抗できる事を実証しました。

しかしこれ以降ハ45(エンジン)の粗製乱造と良質燃料の欠乏による性能低下とトラブル多発、熟練搭乗員の不足などにより、実力を発揮しないまま敗戦を迎えます。

川崎2式複座戦闘機「屠龍(とりゅう)」

1930年代中頃、各国で双発多座重戦闘機が一種の流行のように開発されました。

敵爆撃機迎撃にも、味方爆撃機の長距離護衛にも、双発大型戦闘機の方が有利と考えられたからです。

日本陸軍も例外ではなく、1937年12月、川崎に対しキ45双発複座戦闘機の試作を命じます。

キ45試作1号機は1939年1月に完成しましたが、装備エンジンのハ20乙が不調、脚の不具合などのトラブルを発生、同年4月にはハ25双発とした性能向上第1案型が作られ、11号機まで様々な改良が加えられてテストされました。

この結果、1940年10月、陸軍は性能向上第2案型として、それまでの欠点を根本的に取り除いたキ45改(屠龍)の試作を指示することになります。

これに対し川崎は土井武夫技師を主務者として、楕円から直線テーパーに主翼平面の形状を変更することで面積を拡大、エンジンナセル取り付け位置を低くし、胴体、風防、尾翼形状も変更するなど、
ほぼ全面的に設計変更を行った試作1号機を、1941年9月に完成させました。

このキ45改は性能、操縦/安定性ともキ45よりはるかに優秀で、1942年2月、陸軍初の双発重戦、2式複座戦闘機として制式に採用され、岐阜、明石両工場で終戦直前までに1,690機が生産。

キ45改は武装等の違いによりいくつかのタイプに分けられ、キ45改甲は機首に12.7mm機関砲×2、胴体下面に20mm機関砲×1、後席に可動7.7mm機関砲×1、同乙は機首20mm機関砲×1、胴体下面37mm機関砲×1、後席に可動7.7mm機関砲×1、同丙は前後席中間に20mm上向砲×2、機首20mm機関砲×1、胴体下面37mm×1、後席銃なし、同戌は機首にレーダー搭載、胴体下面37mm砲×1、などが作られた他、甲型に12.7mm上向砲×2を加えたモデルをキ45改甲夜戦と称しました。

2式複戦は1942年後半から実戦に投入され、ニューギニアから蘭印、ビルマに至る南方戦線で広く使用された他、末期にはB-29に対する迎撃戦に活躍したのです。

川崎5式戦闘機(キ100)

1944年、川崎では3式戦「飛燕」のエンジンをハ140に強化したキ61Ⅱ改の生産に入りましたが、ハ140の不調と生産遅延のため同社各務ヶ原工場には「首なし飛燕」が大量に並ぶ事態となったのです。

このため陸軍は1944年10月、川崎に対し同機のエンジンを三菱製ハ112-II空冷星型エンジンに換装するように指示しました。

キ61の胴体幅は84cmで、これに直径121.8cmのエンジンを取り付けたことから生じた段差部分には集合排気管を配し、重心位置も慎重に計算され、試作改修1号機は1945年2月1日に初飛行を行います。

テストの結果、最大速度はいくらか落ちたものの、重量が330kgも軽くなり、かつ重量配分が改善されたため、運動性、上昇力、離着陸性能は向上し、何よりも稼働率の高い扱いやすい戦闘機に変身したことが確認されました。

その結果キ61ーII改として作られた374機のうち、275機はキ100-Ⅰとして完成し、その後118機のキ100-Ⅰが新規生産されたのです。

ちなみに生産途中から後部胴体を細くして水滴風防としたタイプに切り替えられ、一部ではキ100-Ⅰ乙と呼ばれましたが軍制式名ではありません。

1945年5月には排気タービン過給機付きハ112-Ⅱルを装備した5式戦2型試作機が完成し、10,000mで565km/hを出したが、試作3機のみに終わりました。

5式戦はもともと優秀だった3式戦の空力特性が、信頼性の高い空冷エンジンとのコンビネーションにより本来の実力を存分に発揮し始めた機体ということができるでしょう。

その空戦能力は対爆撃機、対戦闘機を問わず、当時の日本機の中では優秀で、加えて大した手間をかけることなく常に出撃可能だった本機は、高性能にもかかわらず低稼働率に悩まされた4式戦とは対象的で、その登場がいささか遅かったことが本当に悔やまれる戦闘機と言えます。

川崎95式戦闘機

95式戦は陸軍最後の複葉戦闘機で、中島のキ11低翼単葉戦闘機とともに競争試作されました。

陸軍から最大速度400km/hを要求されましたが、川崎は前作キ5試作戦闘機に低翼単葉形式を採用して失敗したいきさつがあったため複葉形式に極限までの洗練を加えるという方針で設計を進めます。

この結果、キ10はキ11との審査で、速度はいくらか劣ったものの上昇力、格闘戦能力で格段に優れていたため、1935年に95式戦闘機として制式採用されました。

本機は同年12月から量産が始められ、304機作られましたが、1年半後の37年6月からは、主翼と胴体を延長した2型の生産に切り替えられ、281機が作られたのです。

95戦は日華事変、ノモンハン事変前半に実戦に投入され、ソ連製のイ15に対しては常に優位に戦いを進めましたが、イ16が出現するにおよんでそのスピードについていくことができず、退役を早めることになります。

なお太平洋戦争開始後もかなりの数の95戦が、練習戦闘機として使用されました。

三菱100式司令部偵察機3型乙防空戦闘機

100式司令部偵察機は優れた速度と高空性能を持っており、利用して迎撃用防空戦闘機に改造する案が生まれたのは当然の成り行きと言えます。

対爆撃機迎撃用の防空戦闘機としての研究・開発は1943年6月から始まりました。

当時審査中だった三型をもとに1944年5月に試作指示を得た三乙は段付き防風の機首に20mm機関砲2門を装備、推力式単排気方式でさらなるスピードアップも計ります。

そして1号機は1944年9月に完成し、この試作機に続いて74機の生産型が造られました。

さらに5機の三型乙が胴体背部に37mm砲を追加して生産され、これは三型乙10丙と呼ばれます。

しかし、活躍の期待された本機も敵B-29の昼間爆撃作戦化と護衛のP-51ムスタングにはばまれて大きな戦果をあげることなく終戦を迎えたのでした。

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