太平洋戦争はその緒戦、真珠湾攻撃をはじめとして、航空機が主役となり、その主要な海戦のほとんどは展開された。
よく言われる、「大艦巨砲主義」の終焉である。
戦艦同士が遠距離からその主砲を打ち合い、駆逐艦や潜水艦が肉薄して魚雷を発射する、といった海戦は全時代的なものとなった。
大和型戦艦はその「大艦巨砲主義」の最たる例であり、大和型戦艦のネームシップである、大和と武蔵は実戦投入されたが、3番艦である信濃は航空母艦に途中から改造されることとなる。
大艦巨砲主義の終焉とともに、海戦の主役が航空機と航空母艦に移り変わった太平洋戦争においても、活躍した戦艦があった。
それは金剛型戦艦である。
金剛型戦艦
日本海軍は、金剛型戦艦を4隻保有していた。
その内訳は、ネームシップである1番艦「金剛」、2番艦「比叡」、3番艦「榛名」、4番艦「霧島」である。
これら金剛型戦艦は他国では巡洋戦艦と分類されることがある。
排水量では、戦艦と重巡洋艦の間に位置し、30ノット以上の速度を発揮できるものの、装甲は戦艦ほど厚くない。
日本海軍では30ノット以上の速度を出せる(巡洋)戦艦はこれら金剛型戦艦しかなく、その活躍の場は、空母機動艦隊の護衛から、太平洋戦争の帰趨を分け、かつ日本軍にとって消耗戦を強いられ、アメリカとの戦力差が広がったソロモン諸島付近の海戦でも少なからず活躍した。
その日本海軍で最も活躍した戦艦、金剛型戦艦の4隻について詳しく記したい。
1番艦「金剛」
金剛型戦艦の1番艦である「金剛」は竣工が1913年、太平洋戦争の時には建造されてから30年近くたった、いわば老兵である。
また、日本が外国製の戦艦を購入した最後の戦艦でもある(丁字戦法で名高い、日本海海戦では戦艦三笠をはじめほとんどの艦が外国製であった)。
金剛は、日本海軍が最先端の戦艦建造技術を得るため、当時、ドレッドノート級戦艦(主砲を艦中央部に配置するという画期的なアイデアで、それまでの列強各国の戦艦を一気に旧式化させた当時の最新鋭戦艦)を開発したイギリス製の戦艦である。
日本側はそのドレッドノート型を凌駕する高性能艦の建造を依頼し、完成したのが戦艦「金剛」である。
後の3隻はこれをひな形として建造され、その技術は日本の戦艦建造技術に貢献し、最終的には「大和型戦艦」として昇華することになる。
太平洋戦争時には幾多の近代化改装を経て、最終的には、排水量31720トン、全長、222.65メートル、全幅31.01メートル、最大速力30ノット、36センチ連装砲4基8門、15センチ単装砲8門(両舷に4門ずつ)、12.7センチ連装高角砲6基12門、25ミリ3連装機銃10基30挺(最終時には25ミリ3連装18基、同連装8基、同単装30挺(推定))の武装を持ち、水上偵察機3機の戦艦として改装された。
金剛は榛名とともに、開戦時は南方攻略の支援任務につき、その後、日本海軍空母機動艦隊に同型艦すべてが配属となる。
南雲機動部隊とも通称された機動部隊はインド洋へ進出、セイロン沖海戦、ミッドウェイ海戦に参加する。
ミッドウェイ海戦で随伴する空母が半減し、空母機動部隊の艦載機がラバウルに転出するとともに、他の同型艦とともにソロモン諸島の戦いに投入される。
その高速性を活かしてガダルカナル島のヘンダーソン飛行場砲撃を成功させ、一時的に基地機能を麻痺させることに成功する戦果をあげる。
空母機動艦隊を囮として、戦艦を中心とする水上打撃艦隊が、レイテ湾の輸送艦隊を撃滅するという起死回生の作戦、レイテ沖海戦では、その中心となる栗田艦隊の一翼を担ってレイテ湾突入を目指し、サマール島沖で遭遇したっ的護衛空母を砲撃により撃沈する戦果を上げたが、その海戦後の帰途の途中、台湾沖でアメリカ潜水艦の雷撃を受けて沈没する。
2番艦「比叡」
金剛をひな形として、横須賀海軍工廠で建造され、ロンドン軍縮会議後は、保有戦艦枠の問題から船舷装甲、砲塔等を撤去して練習戦艦として運用された。
また、大和型戦艦を開発するにあたり、新型射撃指揮装置を比叡に搭載して運用するという実験艦としても活用された。
そのため、他の金剛型戦艦と比べて環境の形状などが多少異なっていた。
軍縮条約失効後は現役に復帰。
真珠湾攻撃に同型艦の霧島とともに南雲機動部隊の護衛のために随伴する。
真珠湾攻撃後も機動部隊の護衛としてその任にあたるが、ミッドウェイ海戦後は南方に留まって、霧島とともにガダルカナル島ヘンダーソン飛行場攻撃をする途中、アメリカ海軍の巡洋艦部隊に待ち伏せられ、敵重巡洋艦と壮絶な撃ち合いをするも(第三次ソロモン海戦)、夜間に探照灯照射したために艦橋に集中攻撃を受け、舵に被弾して航行不能に陥る。
戦線離脱を図ろうとするが、その翌日、敵航空機の空襲で再度被害を受け自沈処分をされる(僚艦であった霧島は生還)。
3番艦「榛名」
神戸川崎造船所で建造。
太平洋戦争では緒戦から、マレー半島侵攻作戦、インド洋侵攻作戦に参加する。
その後、ミッドウェイ海戦では他の同型艦とともに南雲機動部隊の護衛にあたり、対空戦闘に従事。
ミッドウェイ海戦後は、金剛とともにガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃を成功させる。
その後、レイテ沖海戦に参加。
金剛とともに敵護衛空母軍の砲撃、追撃をする。
レイテ沖海戦後は同型艦の金剛は敵潜水艦に雷撃攻撃を受け、撃沈されるも榛名は無事に呉軍港に帰還する。
しかし、燃料不足のため、また、敵航空機の空襲のために、いわば「浮き砲台」として呉軍港内で係留されたままに出撃を待つ日々が続いた。
1945年3月19日、敵機動部隊による呉空襲のため防空戦闘をするものの、損傷。
修理する暇も与えられず、3度の空襲を受けて軍港内に着底し、そのまま終戦を迎える。
この時の状況(着底している戦艦榛名)は終戦後の呉軍港内の映像として(しかもカラー映像)、天城型航空母艦とともに現在でもYoutubeなどで見ることができる。
4番艦「霧島」
三菱重工長崎造船工廠で竣工される。
開戦当初の真珠湾攻撃には比叡とともに機動部隊の護衛、防空を担当、その後のインド洋作戦、ミッドウェイ海戦にも参戦している。
1942年の第三次ソロモン海戦でも比叡とともに参加し、ペアを長く組んだ比叡を失う。
その後艦隊を再編成し、反撃を企図するも、アメリカ海軍の新鋭戦艦ワシントン、サウスダコタとの戦艦同士の決戦となる。
序盤は日本海軍の駆逐艦が前哨戦を行い、続いて、重巡愛宕、高雄とともに霧島も米戦艦ワシントン、サウスダコタと交戦、太平洋戦争では珍しい戦艦同士の戦いとなるも、レーダーを持つ米海軍に分があり、霧島にはワシントン主砲が命中し、火災を起こし艦内大破、浸水し、必死の復旧作業にも関わらず沈没する。
おわりに
四隻の金剛型戦艦について簡単に述べてきたが、比叡、霧島のソロモン海での作戦運用から、大本営や連合艦隊の作戦立案にある傾向が読み取れる。
つまり、戦力の逐次投入、決戦思想から抜け出せないことから、ガダルカナルをめぐるソロモン海戦で戦力がジリ貧になったということだ。
日本海軍の思想は、連合艦隊全艦での一大決戦を基本的には企図していた(ミッドウェイ海戦はその好例)。
しかし、アメリカ軍は戦力が整うまでゲリラ的反撃、戦略上必要な戦場への適切な戦力集中でなるべく、自軍の戦力が整うまで最小にして最大の効果が得られる作戦立案を旨としていた。
時間が経てば経つほど彼我の戦力差が開くがなかなかアメリカ軍との決戦ができない。
また、アメリカがそれに乗ってこない。
そんな焦りの中、2日間で比叡、霧島という二隻の戦艦の喪失はその後の積極的な作戦立案(戦艦の作戦投入)に影響を与え、戦艦を有効的に戦線へ投入できなかった。
もちろん、当時、連合艦隊は南方に進出しており、最新鋭艦である大和、武蔵も戦線に投入することも可能であった。
しかし、決戦思想から発想転換できていない、参謀たちは、その最新鋭艦は決戦に用いるべきという意見が多数派で、その戦力温存の日本海軍の指導部の姿勢は、新鋭戦艦を惜しみなく投入したアメリカ海軍と対照的である。
これが、「使い勝手の良い」金剛型戦艦が「もっとも活躍した日本海軍の戦艦」と後世から見られてしまうのである。