1945年になると、連合艦隊の艦船の大半は、活動に支障をきたすようになっていました。
それぞれの艦船に被害があったわけではなく、単純に「燃料」がなかったのが、その原因。
既に日本本土にあるタンクには、ほとんど艦船用の重油は残っておらず、出撃するにも支障をきたすありさま。
むしろ来たる本土決戦のために、航空機の燃料だけは必死に確保しなくてはならないと、陸海軍で数少ない燃料の在庫を巡って喧嘩をする始末。
それでいて、軍需物資の輸送にあたる民間の船舶は、すでに多くの船が沈められており、重要であった南方からの重油も、数少なくなったタンカーが沈められる一方では、日本本土に届くことはなく、すでに日本は戦争を継続する能力を失っている状態と言えたのです。
それでも大本営は、戦争を続けるためのさまざまな「あの手この手」を考え出し、ついに連合艦隊に対して「北号作戦」の実施を命じることとなったのです。
そもそも北号作戦は1945年2月10日から20日にかけて行われた日本軍の輸送作戦であり、日本海軍の歴史において、事実上最後の成功を収めた作戦と言えるのです。
「あの手この手」のはずが、最後に日本海軍の伝統を守るかのような成功を収めることになるとは、誰も考えていなかったこの作戦、その詳細はどのような内容だったのでしょう。
北号作戦は、日本本土に運ぶことができなかった軍需物資を、残された連合艦隊の軍艦を使って輸送するという作戦です。
軍艦が輸送船とは何とも情けない話ですが、民間の輸送船はこの時何をしていたかというと、護衛艦などの護衛を受けて日本に向けて航海をしていても、アメリカ軍の潜水艦や飛行機の攻撃を受け、沈められる一方だったのです。
護衛艦と言っても、旧式の巡洋艦や急造の駆逐艦、スピードのあまり出ない航空母艦であって、輸送船よりも先に沈められる有様だったのです。
つまり、日本本土に軍需物資を輸送したくても、どんどん沈められるのであれば、敵の攻撃に対して反撃ができる軍艦を使えば、安全に軍需物資が運べるだろうと考えたのが、この「北号作戦」のきっかけだったのです。
実際、北号作戦の半月前に、南シナ海経由で日本本土をめざしたヒ86船団は、アメリカの海軍機動部隊によって、幾度となく攻撃を受けた結果、ほぼ全滅してしまったのです。
そのため軍艦を使う「北号作戦」であったとしても、アメリカ軍からあらゆる手段で攻撃を受ける可能性があり、最悪の場合は部隊の全滅も覚悟されていたほどの作戦でした。
ちなみにこの時、民間船舶を使った半ば特攻的な資源輸送作戦が行われており、これらの作戦は「南号作戦」と呼ばれていました。
つまり「北号作戦」は、「南号作戦」と対になるように命名された作戦だったのです。
こうして、シンガポールに在泊していた艦船が北号作戦に選ばれ、いざ日本本土へ向かうこととなりました。
かつて第四航空戦隊に所属していた航空戦艦「日向」と「伊勢」、それに軽巡洋艦「大淀」、第二水雷戦隊の駆逐艦「朝霜」、「初霜」、「霞」が艦隊を編成し、旗艦は第四航空戦隊旗艦「日向」となりました。
第四航空戦隊の指揮官であった松田千秋少将が指揮をとり、松田少将はこの部隊を「完部隊」と命名しました。「任務を完遂する」という意味を込めて「完」と名付けたのです。
レイテ沖海戦での敗北の後、残された艦艇はシンガポールと日本本土にそれぞれ集約されました。
燃料の豊富なブルネイ泊地に停泊していればよかったのですが、既にブルネイ泊地も安全な場所ではなく、アメリカ軍機の空襲を受けるようになったことで、残された艦艇は分散して退避したのです。
日本本土には戦艦「大和」「長門」などが、シンガポールには「伊勢」「日向」「高雄」「大淀」などが待機することになりました。
また、移動中に戦艦「金剛」などが台湾海峡で沈められるなどした結果、分散してかつ数を減らした連合艦隊は、すでに組織的な作戦能力を失っていたのです。
そんなシンガポールに残されていた「完」部隊の艦艇は、これを機に日本本土での本土決戦に備えて、日本本土へ回航するタイミングを計っていたのです。
そのタイミングで「軍需物資を運んでくる」という作戦が命じられたわけなのです。
なんだか「ついで」のような作戦でもあり、おまけに軍艦としての目的ではなく「輸送船」としての役割を強いられたこれらの艦艇、それでも連合艦隊として誇りを持ったこれらの艦艇の乗務員は、急いで準備を整え、日本に向けて出発したのです。
北号作戦において、重要視された軍需物資。シンガポールで積み込まれたのは、航空燃料用のガソリン・生ゴム・錫など、当時としては稀少な物資を積み込んだのです。
航空戦艦に改造されていた状態であったものの、結局艦載機がなかった「日向」や「伊勢」は、その飛行機格納庫がちょうどいい軍需物資の倉庫となりました。
伊勢と日向は、ミッドウェー海戦の結果失われた空母部隊の補充を行うべく、その一環として後部の砲塔を撤去し、カタパルト式の航空甲板を設け、艦上爆撃機「彗星」を搭載することとされ、航空戦艦と呼ばれていました。
しかし、結局は搭載する艦載機が積み込まれることはなく、広大なスペースがただ残っている有様だったのです。もちろん、伊勢や日向以外の艦であっても、とにかく積み込めるスペースに軍需物資を積み込むこととされました。
甲板上にまで可燃性の高いガソリンが入っているドラム缶が搭載された、攻撃で被弾すればそれらが爆発する、極めて危険な状態となったのです。
結局日向と伊勢には航空揮発油ドラム缶5000個、航空機揮発油タンク内100トン、普通揮発油ドラム缶330個、ゴム520トン、錫820トン、タングステン50トン、水銀30トン、輸送人員約500名が積み込まれ、次に大きい軽巡洋艦「大淀」は、輸送人員159名、ゴム50トン、錫120トン、亜鉛40トン、タングステン20トン、水銀20トン、航空揮発油ドラム缶86個、航空機揮発油タンク内70トンの積み荷などが積み込まれました。
大淀も水上機用格納庫があり、その部分が軍需物資の倉庫として活用されたのです。
準備を整えた完部隊は、昭和20年2月10日にシンガポールを出航し、燃料を少しでも節約するために速力を16ノットに抑えながら、アメリカ軍の目を欺くかのような針路をとりつつ、日本に向けて進みました。
この頃、フィリピンでの戦闘はすでにルソン島にアメリカ軍が上陸し、フィリピンからはアメリカ軍の航空機が、南シナ海を縦横無尽に飛び回れる状態になっていました。
一方で日本軍には既に航空戦力はなく、完部隊に対して護衛戦闘機や哨戒機などの支援は望めない状況だったのです。
そんな中、完部隊はフィリピンのマニラ方面に突入すると見せかけたのち、北上して日本本土へ、向かう進路をとりました。アメリカ軍は作戦を暗号解読で察知して、艦隊に攻撃を仕掛けてきました。
フィリピンからアメリカ陸軍航空機による空襲を行い、また3隻の潜水艦による攻撃を繰り返し行いました。
空襲の際には、発生していたスコールに隠れて攻撃を回避するなど、あの手この手で攻撃を回避し、1945年2月20日にすべての艦艇が無傷で呉軍港に到着したのです。
連合艦隊司令部では「半数戻ってくれば上出来」と予測していたところへ、全艦無事に帰還したことを知り、狂喜乱舞したとの記録が残っています。
この作戦は、連合国軍にとっても意表を突かれたこともあり、この作戦の詳細を、戦後詳細まで調べようとしました。
指揮官だった松田少将が当時のアメリカ海軍関係者に尋ねた時には、「あれはすっかりやられた」という答えが返ってきたほどの、完璧な作戦だったのです。まさに「連合艦隊として最後に成功した作戦」となったのです。
ちなみに、この時に物資として運び込むことができた量は、中型貨物船1隻分に過ぎなかったとされています。
そしてこれが、外洋から運び込まれた最後の軍需物資となり、その後5カ月間、最後の一矢を報いようと日本軍は戦闘を継続していくこととなります。