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芸術的包囲殲滅戦 カンナエの戦い

人間のそこそこ長い歴史を眺めてみますと、時々とんでもない天才というのが出現しているもので、軍事に関しても例外ではありません。

古代世界における屈指の天才軍略家であり、現在ですら参考にされる戦術指揮をやってのけた人間といえば、ハンニバル・バルカを措くわけには行かないでしょう。

このハンニバル・バルカという人は、カルタゴ(現在のチュニジア辺り)の将であり、当時急拡大しつつあったローマに危惧を抱き、手を付けられなくなる前に叩くことを決意します。

イベリア半島のカルタゴ植民領、カルタゴ・ノヴァを本拠地としていたハンニバルは、イベリア半島を制圧後、軍勢を連れてアルプス越えというこれだけで本が一冊書けるだろう前代未聞の作戦を実行して、イタリア半島に乗り込みます。

カルタゴ本国も、地中海の覇を闘う相手であったローマを警戒しては居たのですが、ハンニバルの危惧には到底及びません。

また、地中海の制海権を一応握っていたとはいえ海路にて遠隔地に兵站線を確保し続けるのは困難極まる話でした。

結果としてハンニバルは、満足な支援を得られないまま敵地にて暴れ回り、ローマと衛星諸国を崩壊させるという難行を遂行する羽目になります。

そんな難事を可能にするには、ただひたすらにローマ軍を撃破して、ローマの威信を失墜させるとともに周辺諸国を震え上がらせる必要がありました。

しかし、当時の共和制ローマの軍隊は市民兵制度の花開いていた頃。装備・練度・士気すべてが最高級の重装歩兵がいくらでも湧いてくるという悪夢のような軍隊でした。

加えて、共和制が上手く機能していた頃なので、指揮官になれる有能な人間がこれまた途切れずに出続けるという、悪夢の自乗のような軍事国家でした。

これに対し、ハンニバルが率いるのは、虎の子のヌビア騎兵と象兵、そしてある程度頼りになるカルタゴ歩兵のほかは、途中合流のガリア兵や周辺部族の寄せ集め兵ばかり。

全体の5割以上が寄せ集めという、凄まじいハンデキャップマッチでした。

しかし、ハンニバルはこの酷い混成軍を、一体どうやったのか完全に統率しきり、あまつさえ芸術的な戦術行動を実現させて、装備・練度・士気全てに勝るローマ重装歩兵を幾度も葬り去ります。

アルプス越えの直後、トレビアの戦いで緒戦を制したハンニバルは、その戦勝を以って周辺の反ローマ部族を次々糾合、逆らう相手は打ち倒しつつ軍勢を一気に膨らませます。

もちろん、内実はぐちゃぐちゃの混成軍であり、指揮系統の統一すら怪しいレベルだったはずなのですが、その状態で「トラシメヌス湖畔の戦い」では悪辣無比と言って良いまちぶせを成功させ、ローマの一個軍団を消滅させます。

そして、後の世にも芸術的な包囲殲滅戦として知られる「カンナエの戦い」が起きます。

先のトラシメヌス湖畔の戦いで大被害を出したローマは、「ハンニバル恐るべし」との見方を強め、ファビウス・マクシムスを独裁官として任命します。

このファビウス・マクシムスという人が取った戦略は「持久戦」。ハンニバルと戦場で競うのは分が悪すぎると考え、ローマの体力とハンニバルの補給状況の我慢比べに持ち込みます。

実のところ、この戦略はハンニバルにとってまさに泣き所と言って良い部分を突いており、ハンニバルはなんとしてもローマ軍を引きずり出して叩く必要が生じました。

これに対しハンニバルは、イタリア半島各地を襲って略奪を繰り返します。自軍の補給とローマ軍の誘引、周辺都市国家の離反誘発を兼ねた行動でしたが、効果はしっかり出ます。

イタリア半島を荒らしまわるハンニバルをこれ以上放置できないとしたローマでは、慎重派のファビウスに変わり、積極攻勢を訴えるガイウス・テレンティス・ウァロとルキウス・アエミリウス・パウルスが執政官に任命されます。

執政官となった二人は、8万の大軍団を率いてハンニバルの迎撃に向かいます。そして、両軍が対峙し、戦いの舞台となったのが南イタリアにある「カンナエ」という場所でした。

対峙時点での兵力は、ローマが約8万、カルタゴが約5万という数字。この時点でカルタゴのほうが明らかに負けている上に、質や装備、士気には更に開きがありました。普通に戦力評価するなら、倍以上の戦力差があったと見てよいでしょう。
兵種構成はどちらも重装歩兵を中心に、軽装歩兵、騎兵が配備されていました。ただし、カルタゴは騎兵の比率が比較的高く、ローマは重装歩兵が大半を占めていました。

ローマの作戦指針は、騎兵と軽装歩兵で相手の撹乱を抑えた上で、質に優れる重装歩兵が中央を突破するという方針。ローマ重装歩兵の強みを活かした、スタンダードな作戦と言ってよいでしょう。

布陣もそれに応じたもので、中央に重装歩兵、その前面に軽装歩兵、右翼に騎兵、左翼を同盟国の騎兵が固めるという形。明らかに主力はローマ重装歩兵です。

一方、ハンニバルは少し変わった布陣をしていました。

まず中央最前列に、ガリア歩兵(雑兵)を配置。この時、少し弓なりに膨らませるような配置をしています。

そして少し間を置いて、中央後方には左右に別れてカルタゴ歩兵を配置。そして右翼にヌミディア騎兵、左翼にスペイン・ガリア騎兵を配置します。

率直に言って、この時のガリア歩兵は雑兵と言って良い戦闘力と練度であり、ローマ重装歩兵と真正面からぶつかれば、すぐに崩壊するだろうことが予想されました。

にも関わらず、もっとも重要な正面に最もあてに出来ないガリア歩兵を集中配備します。

さて、いざ戦端が開かれると、両軍が先ほどの布陣で衝突、ローマ重装歩兵の圧力の前に、ガリア歩兵はすぐ押されていきます。ここでさらに興味深い指示が出されます。「避けてもいいが下がるな」です。

通常、歩兵同士のぶつかり合いで「避けて良い」とは言いません。普通はそのまま隊形が崩壊して蹂躙されるからです。

しかし元々質に問題の有ったガリア歩兵ではどのみち支えられないので、指示通り左右に裂けるような形でローマの圧力に屈していきます。

崩壊も直ぐかと思われる中を、左右から熟練のカルタゴ歩兵がフォローし、なんとか歩兵は壊乱寸前でも持ちこたえます。

その一方で、左右両翼の騎兵同士も衝突します。騎兵に関してだけ言えば、カルタゴ騎兵10000に対して、ローマ騎兵6000でカルタゴが優勢でした。

しかしそれでも、足どめをするぐらいなら可能であるし、その間に本隊を粉砕できるというのがローマの目論見でした。

さて、実際どうなったかというと、ヌミディア騎兵と同盟国騎兵は拮抗します。

しかし、ガリア・スペイン騎兵はローマ騎兵を打破することに成功します。ローマ騎兵を川の向こうまで追いやった後は、なんとローマ軍の後背を迂回して、ヌミディア騎兵と戦うローマ同盟国騎兵に襲いかかります。

挟撃となったことでローマ同盟国騎兵は崩壊、カルタゴ騎兵を止められる存在がいなくなります。

そこからカルタゴ騎兵は、ローマ軍歩兵の後ろに回りこみます。この時点でローマ重装歩兵は、ガリア歩兵をほぼ突破していたのですが、同時にカルタゴ歩兵が左右に展開して抑えていたため、Vの字のような形になっていました。

その状態で、フタをするように騎兵が回りこんできたわけですから、ローマ歩兵は全周を包囲された状態になります。

人間というのは、同時に一方向にしか注意を向けられず、それが集まった軍隊は更に不器用になり、側面や背後を叩かれるとあっけなく崩壊します。まして、全周包囲をされたローマ軍はまともな戦闘行動が取れる状態ではありませんでした。

四方を完全に囲まれ、パニックに陥ったローマ軍は、突破もできないまま叩かれ完全に壊滅します。

最終的に、包囲を何とか脱出できたのは1万程度で、6万の軍勢が成すすべなく殲滅されました。ローマ軍団中央では圧死者まで出ていたといいますから、ローマ軍側の混乱が目に浮かぶようです。

当然指揮官にも甚大な被害が出ています。執政官の片方、パウルスは戦死、その他約80名の元老院議員が戦死するという大打撃を蒙ります。

これに加えて、野営地に残っていたローマ軍1万も降伏。総計で7万もの兵をわずか一戦でローマは失ったのでした。

5万が7万を野戦で完全包囲して殲滅。

文字にしても簡単には意味がわからないレベルの戦術を実現したカンナエの戦いと、ハンニバルの指揮は、現代ですら戦術の参考として用いられているそうです。つくづくとんでもない人が居たものですね。

2 COMMENTS

憲司 安田

ハンニバルの名声は、現在でも通用します。
素晴らしい軍人、日本の自衛隊にもこのような指揮官がいないのが寂しいです。

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へっぽこ

イタリアでは今でも子供を叱るときに「ハンニバルがお前を連れて行ってしまうぞ」みたいに言って聞かせるんだとか
ずっと恐怖の対象として恐れられてきたんだろうなぁ

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