1.はじめに
日本の歴史の中で、最も小競り合いや戦いが行われた時代は、応仁の乱以降の戦国時代だと言われているが、それは最も「いくさ」というものが組織化され、上意下達の体系がより緊密になり、いわば大将という司令官のもとでシステム化された時代であったといえよう。
そのような時代では、黒田官兵衛や竹中半兵衛のような軍師が登場し、作戦(計りごと)を立て、大将に進言するといったことが一般化していった時代でもある。
本稿ではその戦国時代の合戦で用いられた基本的な「陣形」について取り上げたい。
陣形と言っても、基本的には中国の兵書から輸入したものであり、それを基本にしたと考えられる。
戦国時代の合戦の陣形として、三方ヶ原の戦いを例にとって見れば、徳川方の鶴翼の陣、武田側の魚鱗の陣などが有名であるが、戦国時代の読み物に出てくる陣形は一体どのようなものであったのか、多種多様で、TPOにより様々に変化した代表的な陣形を紹介する。
2-1 鶴翼の陣
その名の通り、鶴が翼を広げるように、本陣を中心として左右に広がった陣形である。
敵軍を中央に突撃させて、左右の羽(部隊)で相手を包囲するための陣形である。
野戦における基本的な陣形の一つで、中国においては三国志の時代から用いられた陣形である。
また、敵よりも数が優っている時には本陣後ろに適宜、戦力を投入できるように予備兵力(後詰)を置く。
これは敵が背後から攻撃してくる備えとしての役割もある。
2-2 魚鱗の陣
防御よりも攻撃に徹した陣形であり、その配置が魚のウロコに似ていることから魚鱗の陣と名付けられた。
この陣形は、敵陣の中央部分に突入して本陣まで一気に突き崩す意図を持った時によく用いられた。
後述するが、場合によっては鋒矢(ほうし)の陣の一種としても考えて良い。
ただ、先鋒から第2陣、第3陣、後詰(予備兵力)と並んでいる部隊のうち第3陣、第2陣を先鋒より前に出すことによって、相手を包囲する陣形にも変えられることから、鋒矢の陣よりも柔軟性に富んだ陣形といえよう。
2-3 車懸りの陣
川中島の戦いで上杉謙信がキツツキ戦法を取って挟み撃ちにしようと、本隊よりも多い別働隊を動かした時に、武田軍本陣を一気に殲滅しようと上杉軍が用いた陣形である(謙信はこの攻撃主体の陣形を愛用したと言われる)。
陣形の概要としては、自分の部隊を円形に配置し、車輪が回転するように先鋒、第2陣、第3陣・・・と次々に最外縁の部隊が敵軍を攻撃する。
つまり、先鋒が攻撃した後、第2陣が攻撃、その後第3陣が攻撃と常に新手の部隊が車輪のように敵に攻撃することによって敵軍の疲弊を誘い、攻撃力を発揮しやすい陣形である。
上杉謙信のような統率力があり、士気が高く練度のある戦慣れした軍でなければなかなか取れない陣形の一つであろう。
2-4 鋒矢の陣
2-2でも述べたが、魚鱗の陣を発展、強化させた突撃隊形である。
その形はその名の通り、「矢」の形をしており、魚鱗の陣よりもさらにその矛先が長くなって、体形全体が縦長になる。
その分、敵軍に突入するときの矛先は鋭くなり、敵陣の中央部分(本陣)に攻撃しやすくなる。
魚鱗の陣よりも部隊の密集度が高いため、本陣も一体になって突撃する陣形となっている。
これは攻撃時だけでなく、包囲態勢に置かれた軍が、敵の包囲網を一点突破する際にも用いられる。
2-5 方円の陣
その名の通り、部隊を円状に配置し、その中央に大将のいる本陣を配置する、防御主体の陣形である。
周囲を敵に取り囲まれた際に取る典型的な陣形であり、また、四方どこから攻撃されても対応できる陣形である。
特に、敵軍の領地内に入り、野営する場合などはこの陣形が取られる。
それは夜襲や奇襲を受けた場合でも迅速に対応できるからである。
また、援軍が期待できる状況で、大将を守備する場合にも用いられた。
2-6 臥龍(がりゅう)の陣
敵軍より高地に位置し(有利)、陣形としては密集度が薄くなるが、前衛部隊を☓のように配置することで、敵軍の動きに対して柔軟に対処できる陣形である。
また、本陣横に第2陣を配置することで前方だけでなく、左右からの攻撃にも対応でき、本陣の防御も厚くなるという利点もある陣形である。
2-7 雁行の陣
雁が群れを作って飛ぶように、三角形に配置された部隊が縦に並んでいる陣形である。
この陣形が取られた有名な合戦として、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の戦いである姉川の合戦で、織田軍がとった陣形として有名である。
この陣形は突撃にも有利であると同時に、敵軍に攻めこまれた場合でも、前方の部隊を後方へ下げることで、本陣の前に防御の部隊を置くことができる、柔軟な態勢を取ることができる陣形である。
2-8 輪違いの陣
輪違いの陣は、一言で言えば、本陣の動きを隠匿するための陣形である。
例えば林や森の中などに部隊を潜めて伏兵になっている場合などに用いられる陣形で、前方には飛び道具を持つ部隊(投石・弓矢・鉄砲)を配置し、それらの部隊は敵を広く攻撃できるよう、左右に大きく展開して配置されることが多かった。
また、それは本陣や後陣の目隠しの役割も果たしていた(部隊が左右に大きく広がることで密集しないため、敵に見つかりにくい)。
2-9 長蛇の陣
敵軍方向に向けて、自軍を大きく3段に分けて敵軍に対応する陣形である。
つまり、前軍、中軍、本陣に分けて、それぞれが独立した動きを予定している場合に用いられる陣形で、相互に連携して敵の攻撃や、自軍の行軍に対処できるよう考慮された陣形である。
合戦の際には、工芸にも防御にも適している陣形のため(それぞれの部隊が独立し、連携した動きをしやすいため)、複数の大名の連合して戦う連合軍の場合によく用いられた陣形である。
2-10 乱剣の陣
この陣形は特に敵軍に挟撃された場合によく用いられた陣形である。
すべての舞台が本陣に背を向けるような陣形で配置され、敵軍に挟み撃ちにされた場合など、本陣の左右に位置する旗本の部隊が状況に応じて、前方にも後方にも投入できるよう配置されている陣形である。
3.おわりに
本稿では戦国時代の野戦における代表的な陣形についておおまかに概観したが、戦国時代には兵種も今までの刀、槍、弓などの武器に加わって、ヨーロッパから伝来した、種子島銃(火縄銃)も加わり、それ専門の兵種が作られ、特にその火縄銃を使った鉄砲隊(鉄砲足軽)は部隊配置において重要な位置を占めるようになった。
例えば今までは前衛部隊に長槍部隊、その後ろに弓兵部隊、投石部隊のようになっていたものが、戦国時代後半になってくると、火縄銃の普及とともに部隊に占める鉄砲隊の比率が多くなり、弓兵や投石兵のように曲射ができないため、前衛に鉄砲隊が配され、鉄砲を撃ったと同時に、長槍隊と入れ替わったり、弓兵や投石兵が鉄砲隊が第2射をするまでの時間を稼ぐ等といった高度な部隊運用がなされるようになった。
また、火縄銃も様々なバリエーションが生まれ、ピストルのような馬上筒やバズーカ砲のような大鉄砲、国崩しと呼ばれる大砲も鋳造され、合戦での部隊運用や、陣形、攻城戦、築城法にも大きな影響を与えた。
だが、関ヶ原の戦いでもわかるように、集団戦では相手の陣形を崩すイコール勝利であり、欧州の戦列歩兵による18世紀半ばまでの戦いと同じく、陣形や高所に部隊を配置するなどの部隊運用、戦術は戦国時代でも大きなウェイトを占めていたことは説明の必要を待たないであろう。
鶴翼の陣のところの本文に誤字がありました。「中止」→「中心」ではないでしょうか?
ご指摘頂きありがとうございます。修正させていただきました。