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空挺部隊用の小銃、旧日本軍の二式小銃(二式テラ銃)

二式小銃は大日本帝国軍(旧日本軍)が採用していた小銃のひとつで、二式テラ銃の別名でもよく知られている。

テラ銃のテラとは、挺身落下傘(「テ」イシン「ラ」ッカサン)の略であり、その略称が示すとおり、空挺部隊専用の小銃として開発されたものである。

第一次世界大戦末期に、本格的な落下傘(パラシュート)が開発されると、輸送機にパラシュートを背負った歩兵部隊を乗せ、敵地のど真ん中に空中から降下させる戦術が盛んに研究されるようになった。

いわゆる空挺作戦である。

空挺作戦を行うには、降下する歩兵部隊には専用の訓練が必要とされたのはもちろんだが、輸送機から降下する際には空気抵抗や態勢のバランスがとても重要である。

下手に空気抵抗が大きいと落下軌道が逸れるなど弊害も大きく、最悪の場合だと空中でバランスを崩してパラシュートを開く姿勢が取れないこともあった。

そのため、降下時には拳銃や手榴弾といった比較的小型で軽量の武装は携行できたが、重装備やかさばる武装を携行ことは不可能で、とりわけ歩兵にとって最も重要な装備といえる歩兵用小銃はとくに空気抵抗が大きく、また重量もそれなりにあるため重心が偏り態勢のバランスを崩しやすい。

平時の市街地であるならば、強力な武器と呼ぶに値する軍用大型拳銃とはいえ、戦時の戦場ではさすがに護身用武器の域は出ず、拳銃と手榴弾のみを装備した歩兵では、攻撃戦力としてはほとんど期待できるものではなかった。

黎明期の空挺作戦においては、人間は降下できるが武装を携行することができない、という致命的な問題が存在したのである。

空挺部隊の研究が進んでいたアメリカ・イギリス・ソ連は小銃の代替品として、空挺降下時に兵士が携行していても降下への影響が少ないほど小型で、かつ一定の攻撃力を期待できる武器を携行させる方針を選び、塹壕戦の近接戦闘用に開発されていた短機関銃(サブマシンガン)を携行させた。

短機関銃は拳銃弾を使用するため、単発の威力は小銃よりもかなり劣ったが、連射武器であったため使い勝手に優れ、45.ACP弾や9mmパラベラム弾など当時において新型の拳銃弾が採用されたことで、威力も軍用に足るレベルまで改善された。

日本軍では空挺部隊を陸海軍別々で創設し、陸軍と海軍でそれぞれ研究が進められた。

当初は英米ソに対抗して短機関銃の装備を検討したようで、各国の短機関銃を研究して実際に一〇〇式短機関銃の開発も進められていたが、慢性的な弾薬不足から短機関銃の持ち味を生かすのは難しいと考えられており、陸軍はできれば小銃を装備したいとこだわっていたようである。

そこで、ドイツが空挺部隊用にKar98kの折りたたみタイプを開発していたのを参考にして、日本でも短銃身の三八式騎兵銃をベースにした折りたたみタイプの小銃を試作した。

蝶番方式で折りたたむこの小銃は、蝶番の工作精度の未熟なため折りたたみ部分の固定を安定されることができず、強度に問題を抱えていたが、これが二式小銃へと繋がることになる日本で最初のテラ銃となった。

しかし陸軍は銃剣突撃時に剛性が不足していることを問題視した上、結局ドイツ空挺部隊式の小銃や機関銃など重火器を積んだコンテナを用意し、兵士とは別でパラシュートをつけて落下させる方法が採用されることになった。

そのため、少数が量産されていた三八式騎兵銃ベースのテラ銃の採用は見送られることになったが、海軍空挺部隊はコンテナ方式を採用しなかったため、一〇〇式短機関銃とともに三八式騎兵銃ベースのテラ銃も、一式小銃として仮採用して配備することになった。

太平洋戦争が勃発すると、陸海軍の空挺部隊は東南アジア方面の空挺作戦に投入されたが、そこで陸軍のコンテナ方式に重大な欠陥が露呈する。

バレンバン空挺作戦では湿地やジャングルに落下したコンテナは、多くが回収不能な場所に投下されてしまったため、無事に降下した空挺部隊は肝心の装備がない状態で戦闘状態に入ってしまったのである。

威力の低さが難点と指摘されている十四年式拳銃や九四式拳銃と、九七式手榴弾しか携行していない空挺部隊では小銃や機関銃を装備する蘭印軍の火力に対抗できず、大いに苦戦を強いられることになり、多くの損害を出してしまった。

一方でメナドに空挺作戦を行った海軍空挺部隊は、携行武器の三八式騎兵銃ベースのテラ銃や一〇〇式短機関銃が活躍し、大きなトラブルもなく作戦を遂行することができた。

そのため、テラ銃の効果を見直した陸軍は、不完全だった三八式騎兵銃ベースのテラ銃よりも完成度の高い、本格的な空挺部隊用の小銃を開発することになったのである。

二式小銃の開発に携わったのは、銅金義一中将と岩下賢蔵大佐を中心としたグループである。

ベースとする小銃は今回は旧式の三八式騎兵銃ではなく、太平洋戦争の開戦時には三八式歩兵銃からの更新が進められつつあった、陸軍の新鋭主力小銃こと九九式短小銃を空挺部隊用にすることになった。

九九式短小銃は口径が7.7mmと、口径6.5mmの三八式系統の小銃に比べて大威力であり、とりわけ工作精度がよかった初期型は性能が良く、世界基準の威力と世界基準を超える高い命中精度を持っていたのである。

蝶番の工作精度の限界から、開発スタッフは蝶番による折りたたみ方式には発展性が期待できないとして、分離式を採用することになった。

しかし最初に開発した分離式小銃の一〇〇式小銃は、はやり結合部の耐久性に問題があるとして不採用になっていたため、分離式も結合部の剛性という課題に悩ませられることになった。

そこで開発されたのが、銃身部にクサビ状の部品を設置し、銃床パーツにはクサビの固定用ボルトを装備、銃身パーツと銃床パーツを合体させたのちに、固定用ボルトのネジを回転させて締め上げクサビに噛みこませ、両方のパーツを固定させるという、世界でも類を見ない方式であった。

固定用ボルトには手締めしやすいようにリングがつけられており、およそ二回転半で締め上げ固定と緩めての分離が可能であった。

固定用ボルトは緩めすぎによる落下が起きないように落下防止機能がついており、少々乱暴に扱っても固定用ボルトを紛失する心配もなかった。

固定が簡単であったので、訓練して熟練すると約五秒での組み立てが可能であったという。

このクサビとボルトによる固定方式を採用した二式小銃は、基本性能と耐久性ともに通常型の九九式短小銃と比べても遜色ない水準を保持しているとされ、正式に採用されることになった。

二式小銃は1943年から量産が開始され、名古屋工廠で約19,000挺が生産されたとされており、陸海軍の空挺部隊に順次配備されていった。

しかし、二式小銃が配備され始めた頃には既に日本軍は守勢に回っており、基本的に攻撃部隊である空挺部隊は活躍の場を失っていた

大戦末期には沖縄へ義烈空挺隊による空挺作戦も実施されたが、正攻法の空挺作戦というよりは空挺特攻と呼べるもので、二式小銃の火力だけでは如何ともしがたい作戦であった。

戦後になり二式小銃は連合軍に接収され、米国にかなりの数が持ち出されたとされる。

米国ではそのうちに一般市場にも出回るようになったが、分離してコンパクトに持ち運べるが命中精度も高い小銃という独特の利点から、銃器コレクターの間で人気を博しただけでなく、映画用の小道具としても注目を集めた。

映画「ダーティーハリー」では、主人公キャラハンの44マグナムに対し、敵であるスコーピオが使う武器として登場した(ただし小改造されている)のが有名であり、現代の日本人が二式小銃の勇姿を見ることができる、数少ない場面といえるだろう。

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