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零戦と知られざる技術

2014年11月23日 黄昏入 ミリタリーの歴史

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 日本海軍の誇る傑作戦闘機と言えば「零戦」だが、一概に「零戦」と言えども、太平洋戦争の全期間で用いられていく中で、様々な改良が施されていった。「零戦」の歴史は、太平洋戦争の歴史ともいえる。今回はそんな「零戦」の変遷をクローズアップしてご紹介したい。

零戦の誕生

 そもそも零戦がなぜ「零」と言われるかと言えば、採用された年度によるものである。

昭和15年度に正式採用されたのだが、これは日本が誕生し、皇室が誕生してからちょうど2,600年を迎えていた時であり、当時の兵器採用基準ではこの皇室誕生基準である「皇紀」の下2桁を採用番号としていたこともあり、「零戦」と名付けられたのです。

実戦デビューはこの年の中国戦線においてでした。当時は日中戦争が次第に戦線膠着に陥っており、南京から武漢、そして重慶へと本拠地を移動する国民政府に対し、沿岸部を制圧した日本陸軍との間で戦闘が継続していました。

しかし、次第に内陸に移動する国民政府軍は、地の利を生かし、かつアメリカなどの援助を得て勢力を回復し、日本陸軍は手をこまねいていたのも事実です。

そこで登場したのが零戦だった。零戦は今までの日本軍機に比べて抜群の戦闘能力と航続距離を持っており、国民政府軍にしてみれば、まさかこんな奥地まで日本軍機がやってくるとは思っていなかったと考えていた。

しかし冷戦は抜群の航続距離を活かして武漢や重慶の上空に至るまで進出し、国民政府軍やアメリカ軍中心の航空義勇隊「フライング・タイガース」と戦った。この時、フライング・タイガースからもたらされた会敵情報はアメリカ軍にももたらされたが、この段階ではまだまだ零戦を「脅威」とするだけの情報はもたらされていなかったのだ。

零戦と空母機動部隊

昭和16年12月8日に開戦した太平洋戦争。日本海軍の空母機動部隊が零戦の航続距離を活かしてアウトレンジ戦法を行い、アメリカ海軍の本拠地であるハワイ真珠湾を空襲し、基幹となっていたアメリカ海軍戦艦部隊を壊滅させたのだ。

この時もアメリカ軍は「日本軍機がここまでの能力を持っているとは」理解せず、自分たちの戦闘機で考えた周辺を索敵し、日本海軍の空母機動部隊の行方を追い求めたのだが、実際にはそのような場所ではなく、はるか洋上にいた空母機動部隊は、零戦他を収容し終わると、悠々と日本本土に帰還していたのだった。

アメリカ軍をも欺いた航続距離こそ、零戦の長所の1つだった。当時運用されていたのは零戦二十一型で、超ジュラルミンを用いるなど、当時の軍用機としては世界最高峰の性能を持っていたのも事実だった。

実際、アメリカ軍は零戦の性能を理解することにやっきになっていたが、開戦して半年間は零戦と日本空母機動部隊に太平洋を蹂躙され、一方的にやられる一方だった。

南太平洋の死闘

 1942年になり、日本海軍の快進撃はミッドウェー海戦において日本空母機動部隊のうち空母四隻が撃沈されたことで完全に止まった。

さらに、1942年7月にはアリューシャン列島のアクタン島に不時着した零戦がアメリカ軍に捕獲され、実際に稼働する零戦を手に入れたアメリカ軍は、零戦のあらゆる性能を暴くことに成功したのだった。

零戦の画期的な性能を支えているのは、極端な軽量化と当時としては大口径の機関砲を搭載していることであることが判明すると、アメリカ軍は最新鋭戦闘機「ヘルキャット」等の性能に対零戦のために必要な能力を付加した。

零戦の大口径機関銃に対応する防弾装備はもちろんのこと、零戦の薄い防弾装備を活かし、複数機で零戦一機に対応する戦法を生み出し、物量戦略による零戦の撃破を行うようになった。

 そして、1942年中ごろから始まったガダルカナルの戦いにおいては、ラバウルから飛び立った零戦が航続距離を活かして航空戦が発起したが、ガダルカナル島からとび立ち迎撃に専念できるアメリカ軍機に対し、長距離を飛行してきて、燃料の都合で10分程度しか戦闘ができない零戦とでは分が悪く、また前述した戦術への対応も可能となってきたアメリカ軍機は、飛行機の性能においても徐々に零戦を圧倒し始めたのだ。

 対する零戦は、後継機種「烈風」の開発が思うように進まず、現場の要望により航続距離を伸ばすために尾翼が改良された零戦三十二型が投入されたが、既に優秀な航空機があっても、優秀な搭乗員がいなくなった日本海軍には、戦力を挽回するまでの兵器とはなりえなかったのだった。

零戦の凋落

 ガダルカナル戦以降、日本陸海軍は守勢に回ることが多くなった。南太平洋海戦においてなんとかアメリカ軍機動部隊に一矢報いたものの、開戦以来活躍していた優秀な搭乗員を失い、離着陸がやっとの搭乗員だけが補充されるありさまとなった。これでは零戦の優秀な性能を発揮することはできるわけがなかった。

零戦の性能も完全にアメリカ軍機に劣り始め、「グラマン」「ヘルキャット」といった優秀機に圧倒され、零戦の性能そのものが劣化してしまった。

後続機の開発も遅延する中で、防弾装備などの安全装置と、空戦時の性能強化を目的とした改良型、零戦五十二型が登場し、現場の搭乗員には好んで利用された。また、古くなった零戦二十一型を爆撃機として再利用したタイプも開発され、1944年6月のマリアナ沖海戦では実際に空母に搭載して戦闘に参加したが、もともと運動能力や航続距離がよかった零戦に重たい爆弾を搭載することで、それらのメリットを相殺するような改良は実を結ぶことなく、多くの零戦がアメリカ軍の空母にたどり着くことなく、マリアナの海に落とされていった。
 そして、マリアナ沖海戦の敗北とともに、搭載されるべき日本空母機動部隊も実質的にその能力を喪失し、零戦の活躍する場所も失われてしまったのだ。

零戦と特攻

 1944年9月、アメリカ軍は圧倒的な戦力を整えてフィリピンのレイテ島に上陸してきた。上陸前に行われた大規模な空爆により、フィリピンに駐留していた日本軍航空隊は蹴散らされ、実際にレイテ島にアメリカ軍が上陸してきた際、対応できる航空兵力は100機にも満たなかった。

一方のアメリカ軍は1,000機以上が常時稼働可能な状態であり、日本軍としてはこれらのアメリカ軍機の母艦である空母をなんとかして撃破したいと考えていた。しかし、旧来の大規模攻撃で蹴散らされた結果、100機にも満たないまでに機数を減らすこととなり、熟練の搭乗員もいない状態で、かつ所要の成果を上げるには、特攻しかないという結論に至ったのだ。

かくして、戦争史上ありえなかった「特攻」という作戦が具体化され、零戦は特攻機としてフィリピンをとびだった。特攻により、アメリカ軍の空母を沈没させるか、甲板を破壊することで艦載機の離着陸を妨害することが目的であった。

かつてならば優秀な搭乗員が乗る零戦が魚雷や爆弾を命中させ、敵空母を撃破することもできたが、今では優秀な搭乗員が優先して指揮官となり、未熟な搭乗員を誘導し、一緒に特攻することで死地に赴いていったのだ。

こうして、かつて太平洋を縦横無尽に駆け回った零戦は、最後には特攻という作戦により、搭乗員の命とともにすりつぶされていった。

1945年4月には沖縄にアメリカ軍が上陸し、日本陸海軍は全力を挙げてアメリカ軍の進攻を阻止しようとしたが、その際も用いられたのは「特攻」だった。ここでも零戦は主力機となり、南九州の基地からとびだった零戦はアメリカ軍の空母機動部隊に特攻を仕掛けたが、レーダー技術と何重にもめぐらされ待ち構えているアメリカ軍空母航空隊に行く手を阻まれ、目的を果たすことはできなかった。もはやこの機になり、零戦は飛ぶ爆弾としての価値しか見出されていなかったのだ。

 なお、戦争末期になり、さらなる性能改良を施された零戦六十三型も登場したが、すでに搭載される航空母艦もなく、優秀な搭乗員もないこの状態では、むなしく特攻用の機体として保存されているしかなかった。

 かくして、日本の技術の粋を駆使して作られた傑作機「零戦」は、その歴史を終えた。零戦で培われた技術は、戦後の日本において技術者たちが継承し、零戦の部品を活用したオートバイを製造したのを皮切りに、いつしか自動車メーカーになったり、各種機械メーカーの礎となって、その魂は継承された。零戦は死すとも、技術は死なず。

後の国産旅客機YS-11の就航時に、開発に携わった技術者の大半が、零戦を知る技術者ばかりであったことは、知る人ぞ知る事実である。

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