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間に合わなかった航空母艦たち

2014年11月20日 黄昏入 ミリタリーの歴史

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1945年4月、沖縄にアメリカ軍が上陸し、ついに日本本土にまで戦火が拡大した。

ここまできてもなお敗北を認めず、一撃講和なる戦略をとっていた大本営は、沖縄防衛のために陸海空に及ぶ壮大な「特攻作戦」を展開した。

いわゆる「菊水作戦」の開始である。

菊水作戦の主となるのは、零戦から練習機「白菊」までをも投入した航空特攻。

既に有力な航空兵力はなく、ようやく離着陸が可能となった志願航空兵を特攻作戦に投入し、飛行機の損耗も激しかったが、それ以上に若者の命が無用に失われていった。

さらに、菊水作戦には戦艦「大和」を主とした第二艦隊も用いられた。

航空特攻に呼応して大和以下第二艦隊が出撃し、アメリカ軍の空母をひきつけている間に、航空特攻が成功するように「おとり」になるという作戦も同時に展開される。

大和は沈没し、生き残った駆逐艦四隻もようやく日本に帰投するのが精いっぱいで、肝心の航空特攻もアメリカ軍のレーダー網で事前感知され、思ったような成果は出なかった。

そもそも、なぜ戦艦大和が、日本海軍の誇りともいえる大和が海上特攻に駆り出されることになったのか。

それは、菊水作戦を天皇に上奏したときの、天皇(昭和天皇)の言葉があったからだと言われている。

「海軍にはもう船はないのか」・・・航空特攻で戦局の打破を図ると言いつつも、大和はまだ健在、連合艦隊は名前ばかりなのか・・・この天皇の言葉に、海軍首脳はあわてて作戦を立案し、大和率いる第二艦隊の海上特攻を急遽決めたのであった。

もう船はないのか。いや、実は船は「あった」。しかし、あったけれども、使い道がなかったのである。

ここで、敗戦直前に竣工した三隻の空母についてご紹介したいと思う。

ミッドウェー海戦以後、航空兵力の劣勢を挽回すべく、さまざまな方策が講じられたが、その方策が実を結ぶことはなかったということを。

ミッドウェー海戦で虎の子の空母四隻を一気に失った日本海軍は、アメリカ軍の空母増強策に対抗すべく、様々な方法で失った空母分の戦力補充を行うこととした。

潜水母艦等の改造による空母、商船等を改造して捻出した小型空母、挙句の果てには砲塔の事故で艦の後部が破損した戦艦「伊勢」や「日向」を改装して航空戦艦に仕立てるなど、ありとあらゆる手で航空兵力の補充を図ったのだ。

もちろん、空母の新造も同時に実施され、既存の空母の図面等を最小限手直しした形で設計がなされ、昭和17年12月から二艦の建造が発注された。

そして、昭和16年度より建造が進められていた一艦と合わせ、ようやく第三艦隊第一航空戦隊に配属されたのは、昭和19年10月末の事だった。

昭和16年度に追加で発注された空母「雲龍」と、昭和17年10月に発注された空母「天城」だ。

雲龍は昭和16年にアメリカ軍の空母建造計画を察知した日本海軍が、大型空母「大鳳」とともに使いやすい中型空母「飛龍」をベースにした「雲龍」を発注したのだ。

そして「天城」は、ミッドウェー海戦直後の空母不足を補うために「雲龍」と同型の空母を発注したのだ。

 それら二艦がようやく竣工し、戦列に加わった昭和19年10月は、マリアナ海戦の直後で、雲龍と同期の「大鳳」は既に沈没し、残されたのは幸運艦の誉れが高い「瑞鶴」と小空母「瑞鳳」「千歳」「千代田」「龍鳳」、そして商船改造空母「隼鷹」、練習用空母として使われていた日本最初の空母「鳳翔」、これだけだった。

そして、空母に載せるべき航空隊はマリアナ沖海戦で壊滅し、ようやく瀬戸内海において補充用航空隊の訓練が始まったころだった。この空母戦隊の中で「雲龍」「天城」は第一航空戦隊を編成し、残された空母とともに戦局の挽回をはかろうと必死の努力を始めたところだった。

 そこにやってきたのが台湾沖航空戦だった。アメリカ軍が沖縄侵攻の前に航空基地となり得る台湾の破壊をもくろんだこの攻撃に日本陸海軍は航空兵力をもとに反撃し、後に誤報と分かったが「航空母艦十隻以上撃沈」などの景気のいい戦果報告があり、さらなる戦火拡大を図った大本営は、ようやく半人前レベルになった空母艦隊の航空隊を引き抜いて追撃に投入してしまったのである。

誤報ということは、すでにアメリカ軍にはそうそうたる戦力が維持されているわけで、結局追加投入された航空隊は南シナ海の露に消え、残されたのは載せる飛行機も無くなった空母艦隊だけとなってしまった。

ここでもし、航空隊を維持していれば、直後に起きる捷一号作戦において、有力な空母機動部隊が存在し、アメリカ軍にある程度けん制できる戦力も持ち得ていたはずなのだが、そんなことを言ってももう遅かった。

載せる飛行機も無くなった航空艦隊に、さらに一隻が名前を連ねようとしていた。平成17年12月に発注された「天城」の兄弟艦、「葛城」がようやく竣工したのだ。

しかし「葛城」は、航空艦隊には組み込まれることがなかった。というのも、台湾沖航空戦の後、アメリカ軍はレイテ島に上陸し、日本海軍は捷一号作戦を発令し、日本海軍に残された残存艦艇の大半をフィリピンに向けたからだ。

この時、瀬戸内海で待機していた空母のうち「瑞鶴」以下小空母三隻は、大和等有力な戦艦隊をレイテ島に無傷で進撃させるため、わずかばかりの飛行機を搭載して、アメリカ機動部隊を北方に誘引する「おとり」となり、エンガノ沖海戦の結果、すべての空母が海中に没した。

奇しくもこの際「おとり」に助けられる形となった大和が、1年もたたないうちに航空特攻の「おとり」にされるとは、誰が想像しただろう。

また、大本営も「おとり」を安易に考えていたようで、航空隊は失っても、空母は失うことはないだろうと甘く見ていたところ、四隻の空母すべてが沈没してしまうという現実に声を失ったという。

逆を言えば、そこまで忠実に「おとり」を実行した、小沢治三郎長官率いる第三艦隊の敢闘精神はすごかったということともいえる。

レイテ沖海戦が終わり、日本海軍の組織的な戦闘能力が壊滅し、瀬戸内海に残された空母「雲龍」「天城」「葛城」は、空母機動部隊としての活躍の場を永遠に失うことになった。

本当であればここに大和型戦艦から改装された「信濃」が加わる予定だったが、未完のまま回航中にアメリカ軍の潜水艦に撃沈され、再び機動部隊を編成することは夢と消えた。

実際、これら三隻が健在で航空隊も搭載されていたとしたら、艦の規模からみても十分往年の機動部隊をほうふつとさせる陣容となるはずだった。実際は載せる飛行機もなく、自らが動くための燃料もない状態で、呉の湾外に秘匿して「決戦兵力」の名のもとにむなしく係留するしかなかったのだ。

ただし「雲龍」は、ガラガラの航空機格納庫に特攻ロケット「桜花」を搭載してフィリピンに輸送するという任務を与えられ、他の二艦とは違って、初めて外洋への出撃機会を与えられた。

しかし「雲龍」にとっては、それが最初で最後の出撃となってしまった。台湾沖を航行中にアメリカ軍潜水艦の魚雷を受け、積み荷であった桜花に誘爆するという悲劇が重なり、あっという間に轟沈してしまったのだ。

残された「天城」「葛城」は、昭和20年3月と7月のアメリカ軍呉軍港空襲で発見され、「天城」は横転沈没、「葛城」は航空甲板に被害を受けたが、航行は可能な状態で終戦を迎えた。「葛城」は後日最低限の修理を施され、復員船としての人生を歩むことになった。

初めて外洋に出たのが、ラバウルやニューギニアへの復員輸送であった。

多くの兵士を日本に送り届け、復員業務がほぼ終了したのを見計らって、「葛城」解体された。ほぼ同じ時期に「天城」も浮上させられたうえ、解体された。

歴史にifはないけれど、この三隻の空母が有用に活用されていれば、戦局は多少なりとも変わっていたのではないかと思われる。

局所的な戦果に踊らされることなく、消耗品のように航空隊を使っていなければ、これらの三隻はきっと侮れない航空戦力となっていただろうと思う。

戦力では圧倒的にアメリカ軍に分があるが、戦術ではせめて五分五分の戦いをしてほしかったとは、私だけが想うことだろうか。

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黄昏入

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