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行われなかった「決号作戦」

2014年12月1日 黄昏入 ミリタリーの歴史

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太平洋戦争も1945年に入ると、ほぼその趨勢は決定していた。

絶対国防圏と位置付けていた、マリアナ諸島は、1944年夏に陥落し、東シナ海の安全な護送船団の航行を、確保するためには欠かせない重要な地、フィリピンは1944年9月、アメリカ軍が逆上陸し、1945年1月には、フィリピンの中心地であるルソン島にアメリカ軍が上陸し、日本軍はマニラを放棄して、山岳でのゲリラ戦に移行しつつあった。

このことは東シナ海の安全な航行は不可能となり、戦争継続のために必要な物資である鉄、アルミニウム、石油などが日本本土に運ばれてくることは無くなった。

そしてマリアナ諸島から、B29爆撃機が日本の都市を爆撃するようになり、同時に重要な拠点である工業地帯や港湾なども攻撃を受けるようになり、戦争を続けていく能力を奪われるようになってきた。

この状態になっても、日本は戦争をやめようとはしなかった。

最後の最後まで、日本本土であってもアメリカ軍と決戦することを望み、一回でもいいからいい戦果を挙げて、講和条件を自国に有利となるようにすることを望んでいた。

一回でもいいからいい戦果を挙げようとすれば、今までのマリアナ諸島、フィリピン、それらはあくまでアウェーの場所であり、日本本土にアメリカ軍が上陸してくれば、本土に駐在している100万人の軍隊と、1万機の特攻機が戦力として見込める・・・

このような最後の希望を本土決戦と呼び、陸海軍は合同で日本本土決戦を「決号作戦」と定めて、機たるべき本土決戦の本格的な準備を行うことになったのだ。

 決号作戦では、各地方ごとに方面軍を設け、それぞれが大本営と連絡をとれない状況になったとしても、各方面軍が独立して行動することを認め、最期の一兵に至るまで戦闘にあたることを定めた「決号作戦準備要綱」により、それ以降の先頭においては部隊の後退はもちろん、戦力の意地や持久を認めないこととし、一人でも多くの敵兵を殺傷するためには、自らの命を賭すという「一億玉砕の思想」に軍民すべてが染まっていくことになっていったのだ。

 決号作戦が定められて、まず影響を受けたのは、沖縄や硫黄島の防衛だった。

沖縄はシーレーン防衛のための重要拠点として、硫黄島はマリアナ諸島から飛来する、B29の迎撃と早期警戒のために必要な拠点ではあったが、本土決戦を行うことになった1945年となっては、すでに必要性を失っていた。

そのため、この2カ所は「本土決戦の準備時間を稼ぐため」の戦場とされ、本来必要とすべき戦力も補充されず、実際にアメリカ軍が上陸をした後になっても、奪還や防衛のための必要なアクションは残されなかった、結局硫黄島は1945年2月、沖縄は1945年6月に完全に占領され、本土決戦準備のため、多くの人々が犠牲になる結果となった。

 この2カ所が占領されたことで、ついに日本本土への上陸が必至となった。

1944年1月ごろから進められていた大本営の移転のため松代大本営の工事が急ピッチで進められ、1945年5月の時点ではいつでも皇居や国会などの首都機能が移転できる状態となっていた。

また、主要な海岸の防衛のために定められた「本土沿岸築城実施要綱」に基づき、九十九里浜や鹿島灘、志布志湾などに陣地の設営が急がれ、特に沖縄が陥落した直後は、南九州の防衛が急ピッチで進められた。

南九州の防衛を急いだのは、大本営の予測によるものだった。

そもそも大本営では、米軍が本土に侵攻してくる時期を、1945年秋と予測していたのだ。

当時の敵情分析をした書類に記載されている内容では、「方面及び規模などはなお予断を許さないが、わが、空海武力の打倒、空海基地の推進、日満支の生産及び交通の徹底的に破壊などにより、戦争遂行能力を打倒し、大陸と本土との兵力機動を遮断し、そのうえ、十分な陸兵を集中指向を整えたのち、決行するのが至当な順序であろう。

その時期は今後の情況により変化するが、本年秋以降は特に警戒を要するものと思考する」と、当時の記録には残されている。

 実際、この予測は正確であり、アメリカ軍では南九州への上陸作戦を1945年秋にコロネット作戦として、1945年冬には「オリンピック作戦」として、関東地方への上陸作戦を計画していたのだった。

南九州に地番を固め、その後日本の首都である東京を陥落させ、戦争の終結を図るというのがアメリカ軍のシナリオであった。日本全土の占領を行えば多くの出血が生じ、特攻による被害も多くなると見込んでいたことから、主要な地方のみの占領を行う予定であったのだ。

 これらのことをある程度予測していた日本であったが、圧倒的なアメリカ軍戦力に対抗する手段としては「特攻」しか残されていなかった。

特攻機を1万機用意し、上陸してくるアメリカ軍の艦艇に突っ込む事にしていた。合わせて爆雷を搭載したモーターボートによる海上特攻、真珠湾攻撃に用いた、特殊攻撃用の潜航艇による特攻など、さまざまな方法でアメリカ軍の戦力を削減しようとしていたが、あくまでメインは「特攻」であった。

連合艦隊は1945年4月に大和を中心とする第二艦隊が、海上特攻で壊滅して以来、決戦の名のもとに秘密裏に係留されていたが、実際には船を動かす燃料がなかった。海上戦力が見込めない以上、特攻しか組織的な抵抗はできなかったともいえるのだ。

 陸軍の準備はどうなっているかと言えば、100万人の兵力を準備できているとは言っても、実際に戦闘に使い得るだけの訓練が行き届いているわけではなく、ましてや本来支給されるべき小銃の数も不足している有様。

軍隊の定数を満たすために根こそぎ動員が行われ、本来の徴兵年齢ではなかった50代の男性や、現在でいう中学生や高校生の男性で組織した「国民義勇戦闘隊」の人員までも含めての事であり、それらの戦闘経験のない男性に対し、火縄銃やなた、竹やりを装備させて決戦兵力としていたのだった。

ここまでの有様で戦争に勝てると思っていた者は、必ずしもいなかったかもしれない。ただあの当時は、命を懸けても国体を守る、その一心で軍民が一体となって本土決戦に臨んでいたのだ。

 実際に本土決戦で想定されていた戦術は、単純明快だった。上陸船団に対しては、人間魚雷「回天」やモーターボート特攻艇「震洋」などを中心とした、特別攻撃隊による攻撃をかける。

そして同時に、上陸船団を支援するアメリカ軍機動部隊に対して、航空機による特攻と夜間攻撃を加えて船団護衛を妨害する。

上陸してきた敵上陸部隊には、海岸から内陸への攻撃が開始されると同時に、潜んでいた陸軍や国民義勇戦闘隊が反撃を開始し、混戦状態にもちこむことで、アメリカ軍が援護のための艦砲射撃や、空襲を実施できない混乱を作り出し、その中で勝利することを目指していた。

ある程度の混戦が落ち着く前に、内陸部に秘匿していた戦車等の機動部隊を戦場に投入し、アメリカ軍を駆逐するというのが一連の計画だった。

 つまり、この戦術ではさまざまな兵を「特攻」させ、アメリカ軍を完膚なきまでに1回でいいから勝利を収める。それが決号作戦の真の目的であったのだ。

実際、1945年8月に戦争が終わったことで、決号作戦が実施されることはなかったが、もし決号作戦が実際に行われていたら、今の日本の復興はなかっただろうと断言できる。

日本本土の産業や交通、農業に至るまであらゆるインフラは破壊され、それらのインフラが残っていたとしても、製造や運用に携わるだけの国民の人口がなく、結果的に日本は復興したとしても、2014年の日本に当たり前のように存在しているアイテムやサービスは、存在しえなかったのではないだろうか。

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