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日本海軍特殊艦艇から見える、軍の後方支援軽視の思想

2015年2月19日 あたるじん ミリタリーの歴史

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太平洋戦争時の日本海軍の艦艇というと、戦艦大和や空母赤城などの大型艦艇や、ちょっとした知識がある人でも、重巡洋艦高雄、駆逐艦雪風や伊号潜水艦など、のいわゆる戦闘艦をイメージする人が多いだろう。

しかし、戦闘艦艇が「艦隊」として運用、あるいは作戦を完遂させるために使われた艦艇は、上記の戦闘艦艇だけではない。

本稿では、いわば「特殊艦艇」として、連合艦隊を裏から支えた艦艇について概説し、いかに後方支援を軽視していたかを、以下の3つの艦種からあぶり出したい。

動く食品工場、給糧艦「間宮」

給糧艦とは補給艦の一種であり、艦隊に付き添ったり、前線への補給のために、泊地や基地に食糧や、通常の戦闘艦艇では作れない加工食品などを供給するのを、主たる目的として建造された艦である。

当初、「間宮」は給油艦(艦隊に付き添い、燃料である石油を補給する)として計画されていたものの、中途艦種変更の要請によって給糧艦として完成した。

船体は川崎重工業が建造した大型高速商船の三島型を基本とする、商船構造(戦闘艦のように装甲化されていない、また、浸水した際の別区画に反対の区画に海水を注入し、艦の平行を保つ機能がない)で、設計も建造も日本海軍でなく、川崎重工業に委託された。

排水量約16000トン、全長130メートル、全幅約20メートル、速力14ノットで重巡並の大きさである。

また、14センチ単装砲2基2門、8センチ高角砲2基2門を装備していた(戦争後期には25ミリ機銃も増設)

加えて、食糧を他艦や港に移すための大型クレーンも前後に2基、備えられていた。

「間宮」の艦内は大型の冷蔵庫や冷凍庫があり、肉や魚介類、野菜といった生鮮食品を積載可能であり、その輸送量は約1000トン(計算上では18000人に3週間分の食糧を供給可能)できた。

また、艦内には冷蔵庫などの食料貯蔵庫だけでなく、こんにゃくや豆腐などの大豆加工食品、アイスクリーム、ようかん、もなか、まんじゅうといった菓子などの嗜好品も、製造可能な食品工場があり、専門の職人が軍属として配置されていた。

同型艦はないが、同じような給糧艦として、「伊良湖」、冷凍冷蔵庫だけを備えた「野埼」などがあった。

「間宮」は各地に食糧輸送を行い、前線の水平や、基地守備隊に喜ばれる存在であった。

もちろん、戦闘には直接参加していないが、1942年10月、1943年5月に潜水艦の魚雷攻撃を受け、損傷したものの沈没を免れたが、ついに制空権や護衛艦が少なくなった、1944年12月に海南島沖で潜水艦の雷撃により沈没した。

工作艦「明石」

工作艦とは前線や、本土から離れた泊地などに進出した、艦艇の整備や補修を行うことができる、いわば「動くドック」「動く工場」であり、各種工作機械と専門の作業員やエンジニアを配した特務艦である。

しかし、戦闘艦の充実を第一に考える日本海軍では、このような工作艦は他国よりも新鋭の工作艦の配備が遅れた。

アメリカを例に取ってみれば、米海軍は1920年に専用設計された工作艦メデューサを竣工させており、それに対抗できる工作艦の建造の予算も、戦闘艦に優先して配分されていたため、ようやく1939年7月(日米開戦の約1年半前)に竣工した。

排水量約10000トン、全長約147メートル、全幅約21メートル、速力約19ノット、兵装は12.7センチ連装高角砲2基4門、25ミリ3連装機銃2基6挺を装備し、約340名の乗員のほかに、工作部員が約430名乗船していた。

「明石」は艦内に最新式の工作機械(ドイツ製)が144台設置され、機械工場、仕上げ組み立て工場、焼き入れ工場、鋳造工場、鍛冶工場、銅工場、溶接工場、木工工場、兵器工場、電機工場、工具室等が設置されていた。

その能力は、わずか明石一艦で、連合艦隊の平時年間工数の約4割を賄える能力を備えていたという。

それだけ多くの工場設備を備えていたため、工作部員が操船を担当する乗員よりも、100名近く多かったのも当然であろう。

「明石」は当初、同型艦2隻の建造が計画されていたが、戦局の悪化と、戦闘艦への予算配分が重視されたことにより(ここに海軍の決戦思想、総力戦を想定していない致命的な欠点があるのだが)建造が中止された。

「明石」は太平洋戦争開戦と同時にパラオへ進出し、その後ダバオ、スターリング湾などを回って諸艦艇の修理に従事する。

しかし、1944年9月のトラック島大空襲により、アメリカ機動部隊の艦載機により沈没する。

この時は戦闘艦よりも、輸送艦や給油艦などの補助艦艇の被害が甚大であった。

ここにも、戦闘艦の退避を優先し、補助艦艇を後回しにするという、兵站軽視の日本海軍の戦略思想を見て取ることができよう。

敷設艦「津軽」「初鷹」

敷設艦とは、敵が湾港に接近したり、敵艦隊の進撃が予測される海峡に入って機雷を伏せるするのを主たる目的として作られた艦艇である。
(日本海軍においては、敷設艦の歴史は古く、日露戦争の頃から実戦投入している)

初めは老朽化した艦や商船を改造し、敷設艦として運用していたが、対米戦が意識される時期になり、専門の敷設艦が建造された。

佐伯海軍航空隊

ここでは代表的な2隻の敷設艦、「津軽」と「初鷹」を例に敷設艦について説明する。

「津軽」は開戦直前の昭和16年10月下旬に竣工した。

排水量約4000トン、全長約125メートル、全幅約16メートルと、軽巡洋艦並みの大きさで、速力20ノット、武装は12.7センチ連装高角砲2基4門、25ミリ連装機銃2基4挺、主たる目的の機雷の搭載能力は600個(九三式機雷)である。

また、準同型艦として1936年に竣工した「沖島」がある。

600個もの機雷敷設能力は日本海軍においては最も高性能であり、機雷敷設能力だけでなく、重油や航空機燃料も搭載可能という給油艦としての能力も持っていた。

開戦後から、グアム、ラバウル攻略作戦、ガダルカナル島輸送作戦などに参加し活躍し、フィリピン戦線では機雷敷設に従事するが、1944年6月末にフィリピンモロタイ水道で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。

「初鷹」は基準排水量1600トン、全長約90メートル、全幅約11メートルという駆逐艦より少し小ぶりな船体で、速力20ノット、兵装は、40ミリ連装機銃2基4挺を装備していた。

また、九三式機雷100個を搭載可能な機雷敷設艦であったが、機雷敷設能力だけでなく、湾港や海峡に防潜ネット(潜水艦の侵入を防いだり、捕獲するためのネット)を6海里分敷設できる艦であり、その防潜網には対潜水艦用の九六式小型機雷が付属していた。

加えて、水中探信機、聴音機、爆雷投射機といった対潜水艦能力を持つ、対潜能力を持つ艦という面を持っていた。
(このような対潜水艦能力を持つことから、急設網艦として分類されることもある)

同型艦及び準同型艦として「蒼鷹」「若鷹」があった。

「初鷹」は緒戦からパレンバン攻略支援、ビルマ攻略支援に参加。

その後は南方からの輸送船団護衛のため、その対潜水艦戦闘能力(爆雷投射機を装備)は日本海軍においては貴重な存在となり、特に「初鷹」は本来の機雷敷設能力を活かすよりも、輸送船団の護衛任務の方が多かった。

そして、1945年5月に輸送船団護衛中にマレー沖で潜水艦の雷撃を受けて沈没した。

おわりに

以上、給糧艦、工作艦、敷設艦という後方支援を主たる目的とする艦船について簡単に紹介をしたが、その建艦思想には日本海軍において共通する思想を見て取ることができる。

それは後方支援艦への予算配分より、戦闘艦艇への予算配分が重視されたこと(後方支援の軽視と日本海海戦を手本とする決戦思想)

その予算配分の不均衡は、敷設艦「津軽」に給油艦としての能力を持たせたことや、「初鷹」に対潜戦闘能力を持たせたことからもわかる。

特に、対潜水艦戦は海防艦や駆逐艦が担うものであるが、日本海軍は駆逐艦もシーレーンの防衛という観点でなく、対艦戦闘用(決戦用)として位置づけていたことからもわかる。

そのしわ寄せが、これら特殊艦艇の装備からも見て取れるのは自明の理であろう。

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あたるじん

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