これまで人間の歴史に戦いはつき物でした。
それに伴いミリタリー、つまり組織された軍隊を持つことにも古い歴史があります。
人類史上初の軍隊は聖書に出てくるアブラハムが生きていた時代に結成されたものであるとされています。
たとえばエラム人のケドルラオメルという人物と、その提携者たちがアブラハムの甥であるロトとその家族を連れ去った後、アブラハムが318人の軍事訓練を受けた奴隷で成る軍隊を組織し、ケドルラオメルとその仲間たちに夜襲をかけました。
また、このときアブラハムは近隣の同盟者たちに援助をお願いしたことが記録として残っており、この時代に軍隊を組織していたのがアブラハムだけではないことが分かっています。
また軍隊を用いた戦略についての記録も残っています。アブラハムの軍隊とその応援軍はケドルラオメルとその仲間たちに正面攻撃を仕掛けたのではありません。
先にも述べたように夜襲をかけたわけですが、このときすべての軍を集めていくつかのグループに分けて一気に攻め上がり、相手の不意を突く仕方で攻撃したのです。
この攻撃の仕方は後に多くの軍隊が用いることとなります。
またアブラハムの時代以降、よく組織された軍隊を有していたことで有名なのはイスラエル人です。
イスラエル人はエジプト人との戦いに敗れた後、長い間エジプト人の奴隷としてそこにとどまっていました。
その後エジプトを去ることが決りまり、自分たちが住む場所に向うための旅を行わなければならなくなります。
しかしエジプト人からの攻撃が再び起こるかもしれないという恐怖の中、旅をしていたためにいよいよ軍隊を組織することを決定します。
兵車や馬を大量に有していたエジプト人とは異なり、イスラエル人はそのようなものを所有していませんでした。
しかし軍隊を本隊、前衛、後衛、両翼という五部編制にし、どこから攻撃を受けてもそれに対応できるよう組織したのです。
それとは対照的にイスラエル人の後を追ったエジプトの軍隊はより抜きの兵車600台、それに加えて一般の兵車両も出陣してイスラエル人を攻撃しようとしました。ちなみにエジプト人の兵車には3人の兵士が乗り組み、1人は馬をコントロールし、他の2人は弓で戦いました。
残されている記録によるとエジプト人は兵車600両、騎手5万人、そして20万を数える重装備の歩兵を用いてイスラエル人を追ったとされています。
当時強国として知られていたエジプトの軍隊はまさにイスラエルのそれとは対照的で、組織よりも力で相手をねじ伏せるというものでした。
しかし無事にエジプト人の攻撃を逃げ切ったイスラエル人はその後カナンと呼ばれる土地を征服し、その後しばらくは大規模な軍隊の取り決めはありませんでした。
しかし国境付近での小規模な戦闘がいくつかあり、その都度軍隊の召集がなされました。
この当時、主に使われていた武器は、剣、槍、小槍、投げ矢、石投げ器、弓、矢などで、それぞれの武器は個人で用意する必要がありました。
また戦いの途中で必要になる食糧を自分で用意する義務もあったようです。また当然のことながら軍隊にはリーダーが設けられ、数千、数百人の兵士を組織していました。
この頃の軍隊は戦術や作戦を考え、様々な方法を用いて戦いました。
たいていの場合は軍隊を分団に分け、奇襲攻撃をかけました。また敵軍が来るのを待ち伏せして襲ったり、川の渡り場を押さえるなどして頭を使った攻撃も多々行いました。
古代の軍隊で際立った活躍を見せたのが兵車です。兵車は戦いにおいて速さと機動性の点で優れていました。
兵車はバビロニア人、アッシリア人、そしてエジプト人などから高く評価されており、これらの国民は積極的に兵車を用いて戦いました。
これら3つの国はそれぞれの時代に世界強国とよばれるほど戦闘能力に長けている国民でした。そのため兵車は戦闘における強国の象徴となりました。
後にイスラエル人も兵車を使った軍隊を結成することを決意し、戦闘に備えました。兵車用の馬の大多数は兵車を用いることで有名なエジプトから購入され、輸入されました。
古代の軍隊で非常に有名なのはローマの軍隊です。
これまで様々な国民が軍隊を結成してきましたが、ほとんどの軍員は戦いの前に訓練を施される人たちで、戦いのプロというわけではありませんでした。
しかしローマの軍隊は違いました。軍編制の主体を成していたのは軍団でした。軍団とは大きな独立した単位であり、戦いにおけるエキスパートで、それ自体が完全な軍隊でした。
ローマの軍隊にはそのような軍団が幾つかあり、ときにはそれらが自分たちの物資や兵力を1つの中央の指揮のもとに併合して一緒に戦うこともありました。
しかし通常は軍団は独立しており、それぞれがそれぞれの任務を全うすることに努めていました。しかしときには軍団だけでは兵士が足りないこともありました。
そのようなときは補充として軍団以外から兵士を補っていました。それはアウクシリアと呼ばれる補助軍を構成するローマ市民ではない人々で、帝国各地から徴兵された人たちでした。
多くの場合、それらの兵士たちは志願兵でした。この制度が高い人気を得ていたことには理由があります。アウクシリアの隊員には名誉除隊となったときにローマ市民権が与えられました。
当時のローマは強国として知られていたために、この国の市民権を得ることには大きな意味があったのです。
軍団の数は様々でした。ときには25以下だったり、多いときで33にまでなったこともありました。
また1つの軍団が所有する兵士の数も様々で、約4000人から6000人と必要に応じて異なりました。
しかし1世紀当時は6000人から成る軍団が一般的だったようです。
各軍団には皇帝に対してのみ責任を負う司令官がおり、その下には軍司令官の役割を担う千人隊長と呼ばれる執政武官が6人いました。1つの軍団は10の歩兵隊と呼ばれる部隊に分かれていました。
さらに歩兵隊が細分され、1つの軍団には60の百人隊がありました。それぞれの隊は普通100人の兵士から構成されており、1人の百人隊長が指導していました。
これらの士官たちには兵士たちを訓練する責任があり、非常に重要な存在として知られていました。また各軍団には護衛兵や急使の役割を担い、時には刑執行者をも務めた10人の特別な階級の将校がいました。
ローマの軍団の特徴の一つは独特の旗や軍旗です。鷲、もしくは何かの動物の姿をあしらった様々なものが存在していました。
その後動物に加えて皇帝の姿をかたどった小さな像が旗に使用されるようになりました。そのような旗、もしくは軍旗は宗教的な意味を持つようになり、後々人々から崇拝されるほど神聖なものとされるようになりました。
ときにはそれらの旗が人の命を犠牲にして守られることもありました。そのためこのような崇拝行為を望まない人たちはこの旗を嫌うようになり、中にはその旗を自分たちの住む地域に持ち込むことさえ禁じた人もいたのです。
このように古代の軍隊には様々な特徴がありました。それが今の時代にまで反映されているものもあれば、少し前に廃れてしまったものもあります。
また当時は今現在のような軍事施設や武器は存在していなかったものの、使うことができた武器や移動手段をフルに活用して軍隊は戦いました。また乏しい施設や限られている武器を用いていかに効率よく攻めるかをよく考え、攻撃しました。
そのため古代の軍隊は非常によく組織されていました。
このように軍隊、つまりミリタリーの歴史をもまた、人類の歴史と共にあり、非常に興味深いものです。