攻め寄せる敵をちまちまと機銃で撃つよりも、一発ドカンと大砲で撃ってしまえ、という発想を持つのは洋の東西を問わないようです。
しかし、陸上兵器なら大きな砲を積むと、重さがかさんで機動性能が悪くなるくらいですみますが、(別にK1A1のことを言っているのではありません。)
飛行機は下手をすると飛ばなくなる可能性も出てきます。
口径が大きくなると、携行する砲弾も重くなることも忘れてはなりません。
さて、このようなハンデにもめげず、大砲を飛行機に積んじゃった顛末はいかに。
B-25 ミッチェル
「ドゥーリットル爆撃隊」で有名なB-25「ミッチェル」ですが、そのG型とH型は、機首に75ミリ砲を搭載しました。
これは地上や船などの目標を撃つためのものだったので、そこそこ活躍したらしいのですが、砲弾を数発しか積めないうえに撃つと機内は煙くなり、そのうち「スキップ・ボミング」などの攻撃法が確立されると、このでかい大砲は必要なくなったようです。
しかし、これはマトモに働くことが出来た部類に属します。
川崎 キ-102
B-29の空襲を受けることが多くなってきた日本で、その迎撃にと開発されたのが陸軍機、川崎「キ-102」です。
これはB-29迎撃に少し実績があった二式複座戦「屠龍」の機体に改良を重ねたもので、機首には大口径の57ミリ砲を搭載しました。
試作機の「乙型」は昭和19年の実戦テストでB-29を迎撃、その砲がエンジンナセルに命中したところ、やはり破壊力は十分でエンジンはナセルごと脱落しました。
しかし、それ以後は排気タービンの不具合でB-29を追撃する性能が得られず、改良しているうちに終戦を迎えました。
いくら大砲の威力があっても、目標に追いつけないのでは話になりません。
ちなみに陸軍機の「キ」は機体を表し、試作段階であることを示します。
ヘンシェル Hs129
対戦車専用の機体として開発されたのが、ビュクセンエッフナー(缶切り)ことドイツのヘンシェルHs129です。
その3型は機首に75ミリ砲を搭載、そして機体は敵から見て的が小さくなるようにとコンパクトに設計されました。
そのコンパクトさを徹底する余りコックピットは、とてつもなく狭くなり、飛行計器のいくつかは何と双発エンジンのナセルなど、コックピットの外に設けられ、分厚い防弾ガラス越しに見えていたのです。
今回のテーマからは外れますが、コックピットの外に計器がある飛行機は、余り例を見ないのではないでしょうか。
さて、75ミリ砲の威力は凄まじく、スターリン戦車を一撃で屠ってしまいました。
ついでながら、撃った衝撃も凄まじく、エンジンが停まってしまったこともあったそうで、自身をも撃墜する大手柄を立てるところでした。
グリゴローヴィチ I-Z
自分の国土が危機に瀕しているわけでもないのに、単座戦闘機に大きな大砲を積もうとした国がありました。
それはHs129にやられる前のソ連です。
陸においてはソ連軍の絨毯砲撃はつとに有名になりますから、基本的に大砲が好きなのかもしれません。
しかし、ソ連は単座戦闘機に76ミリ砲を積もうと言うのです。
Hs129の例からも、射撃の反動に機体が耐えられるかが気になります。
ところがロシア人には秘策がありました。
クルチェフスキーという技師が、搭載するのが無反動砲なら大丈夫と考えました。
そうして1935年に作られたのが、無反動砲を搭載したグリゴローヴィチI-Zでした。
ところが機体の操作性などに難がある上に、やはり単座戦闘機にこんな大きい砲を積んだもので、運動性能も悪くなってしまいました。
2門ある無反動砲も空中では再装填などできないので、2発撃ってしまうと終わり、というのも駄作機としてポイント高すぎです。
ともあれ、改良に四苦八苦しているうちに、ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)など、まっとうな戦闘機が開発されると、使い勝手が悪いこの機は実戦配備されてもさしたる活躍もできなかったようです。
クルチェフスキーの挑戦
しかしクルチェフスキーはめげませんでした。
電気の力でこの無反動砲を再装填できるように改良したのです。
ハラショー同志クルチェフスキー、と言いたいところですが、砲身が何と4mにもなってしまいました。
先ほどのグリゴローヴィチ戦闘機の全長が7m余りですから、こんなの積んで飛んだら飛行艇だとでも思われるシルエットになってしまいます。
そこで乗り出したのが有名なツポレフ設計局の設計者達で、この長大な砲を生かすアイディアを2つも作ってしまったのです。
まずはチェルニチョフ設計の「ANT-23」で、「双胴タンデム式双発機」という、基本の形はフォッカーD23みたいなものだと思って下さい。(例えもマイナーな戦闘機ですみません)
そして、左右のブームに砲身をおさめるという一見ナイスアイデアでした。
ところが操縦性・安定性共に悪かったのです。
双胴機ではたいてい2枚ある垂直尾翼が、この機は1枚しかないのが災いしたのでしょうか。
それでも何とか武装テストが行われましたが、最悪の事態が待っていました。
自慢の無反動砲が暴発して、操縦は困難になって不時着にも失敗してテストパイロットが命を落とします。
これでこの機は即座に開発中止、自慢の装備となるはずの無反動砲の唯一の「戦果」は自分自身の撃墜でした。
劣悪な兵器の設計の罪
チェルニチョフの無念を晴らそうと(したかどうかは不明ですが)ANT-23が自分を撃墜した1932年、同じ設計局のアルハンゲルスキーが、同じようなコンセプトの機体「ANT-29」を計画します。
しかも今度搭載する無反動砲は何と102ミリを2門。
もはや機体は爆撃機サイズに近づき、その胴体に無反動砲2門を納めます。
風の谷のガンシップも真っ青です。
クルチェフスキーの無反動砲は、砲弾を打つと同時に後方に同質量のおもりを飛ばし、反作用によって衝撃を打ち消そうというものです。
つまり、これらの機は撃つたびに後ろからおもりを「ぺっ」と出すことになります。
何だか飛行機がフンをしているように見えるかもしれませんが、ロシア人はそんなこと気にしないのかもしれません。
さて、1935年2月にテスト飛行にこぎつけたANT-29でしたが、その様子を見ていた関係者はきっと血の気が失せたでしょう。
速度は時速325キロと、SB爆撃機より100キロあまりも遅かったのです。
これでは戦闘機どころの話ではありません。
当時のソ連ではこれは収容所送りになりかねない失敗でした。
クルチェフスキーは「劣悪な兵器の設計」の罪で逮捕されてしまい、挙句に死刑に処せられてしまいます。
ツポレフもその後収容所に送られてしまいました。
ヘタなものを設計すると命にかかわるのが当時のソ連でした。
空中での大砲のその後
この他にも、かの有名なデ・ハビランド「モスキート」や、Me262「シュワルベ」といった有名ドコロの中にも50ミリ以上の大口径砲を搭載するものがありましたが、あまりうまく行ったという話は聞きません。
戦後、ミサイルやロケット弾が発達し、空中で大砲を撃つ必要はなくなりました。
ですから、これまで書いてきたような機体は2度と出現しないことでしょう。
細々とその血脈を受け継いでいるのは、フェアチャイルド・リパブリックA10「サンダーボルトⅡ」でしょうか。
超人ハンス・ウルリッヒ・ルーデルと「Hs129」を両親(?)に、Il2「シュトルモビク」を兄貴分に持つこの機体は、湾岸戦争で1000両近くのイラク軍戦車を撃破しています。(非公式なルーデル一人の戦果はこれを上回っているところがとんでもありませんが。)
飛行速度が加わった30ミリガトリング砲で現用戦車も撃破できるのですから、結果的に余り大きい砲は必要なかったことになってしまいますが。