星新一のショート・ショートに、確かこんな話がありました。
ある日宇宙人がやってきて、地球を攻撃すると宣言、理由は、核兵器は他の星を攻撃する目的のものだから、というのです。
核兵器は地球上が攻撃対象である、と地球人は弁明にこれ努めますが、ではなぜ自分たちを何千回も殺せるほどの核兵器を持っているのか、宇宙人に言われて答えに窮してしまう、というものです。
核弾頭と言えば、現在では大陸間弾道ミサイルや潜水艦発射弾道ミサイルに搭載され、都市を壊滅させる強大な破壊力を持つ「抑止力」としての存在という印象があります。
現存する核兵器は、敵国の壊滅を目的とする、またはその威力を所有・維持することで軍事的・外交的カードとする「戦略核」であり、それゆえに核兵器が実際に使用されるのではないか、という危機感は一般にはあまりないと言っていいでしょう。
しかし、東西冷戦時代の1950年台から1970年台にかけて、物量に優るソ連の部隊を阻止するためには「戦術核」が必要だという考えから、多くの種類の核兵器が開発されました。
朝鮮戦争において、圧倒的な物量を誇る東側陣営の侵攻を阻止できなかったことも苦い教訓となり、戦術核は、陸・海・空全てで開発されたのです。
まずは空ですが、核兵器の運搬手段が爆撃機であった時代、爆撃機をいかに阻止するかが問題でしたが、ソ連は不時着したB-29を解析してコピー機「TU-4」を作り上げ、アメリカ本土に原子爆弾を落とす能力を持ちました。
ただし、「TU-4」はいわゆるデッドコピーで、B-29の航続距離までは再現できなかったため、もしアメリカを爆撃しようとすればそれは片道の燃料しか無い「特攻」となってしまうのです。
それでも、自国の領土が他国からの攻撃にさらされたことがないアメリカにとって、可能性が生じただけでも由々しき事態だったのでしょう。
もし、ソ連が捨て身でTU-4を大量投入して核攻撃を画策した場合、当時の迎撃機や対空ミサイルの性能では阻止できないと判断して開発されたのが空対空核ロケット弾「ジニー」なのです。
「空対空ロケット弾」とは耳慣れない兵器名ですが、日本では無誘導のミサイルを「ロケット弾」と呼ぶことが多いのですが、外国では通常ミサイルとロケット弾の区別はされません。
この「ジニー」、無誘導ですが、命中精度の低さを1.7KTの核出力の爆発で補おうというものです。
(広島に投下された「リトル・ボーイ」の核出力は12KT〜18KTと推測されています。)
目標に向かって発射された「ジニー」は約12秒のロケット・モーター燃焼後、半径約300メートルの被害半径を持つ核爆発で侵攻してくるソ連爆撃機群を一度に叩き落とす、という計画でした。
1957年には一度だけ上空4500mで実際に核実験したといいますから驚きです。
その後、ジニーは大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発達と共に当然姿を消しました。
陸上でも「核砲弾」「核地雷」といった兵器が開発されました。
その中で異彩を放つ二つを取り上げてみます。
まずは最小の核兵器、無反動砲「デイビー・クロケット」です。
これは見た目は対戦車ロケット弾の親玉位の大きさで、弾頭は23Kgでしたから、投射器も含めてジープに搭載できる位の大きさでした。
最大射程は4Km位で、爆発の威力は10Tと20Tがあり、10Tの弾頭でも爆発から400m離れている人間を、確実に死に至らしめる強烈な放射線を放つのですから、使う方も命がけです。
名前の「デイビー・クロケット」は言わずと知れたテキサス独立戦争時の英雄ですが、アラモの戦いでは玉砕していますから余り縁起が良くない名前です。
1960年台から70年台にかけて2000発以上が生産され、実際にヨーロッパに配備されました。
次は開発コードネーム「ブルーピーコック」で呼ばれる核地雷です。
核出力は10KTで、爆発の威力で侵攻してくるソ連陸軍をふっ飛ばし、爆発したプルトニウムが撒き散らす放射線で後続の侵入を食い止めようというものです。
しかし開発中に一つの懸念が生じました。ヨーロッパの冬の寒さで、部品が凍りついていざという時に作動しないのでは、というものですが、この対策が奇想天外でした。
何と地雷の中に餌・水とともに生きたニワトリを入れ、その体温で部品の凍結を防ごう、というものでした。
聞いた瞬間に100以上のツッコミを思いつく計画ですが、当然のごとく途中で中止となりました。
なお、この国家機密が後年公開されたのがたまたま4月1日だったので、これも当然のごとく冗談と受け止めた人が多かったとのことです。
書き忘れていましたが、このような計画を途中までとは言え、まじめに検討したのはイギリス人で、「ブルー・ピーコック」計画は中止になりましたし、今となってはお笑いに属するたぐいのものです。
しかし、核兵器が使われる寸前となる事態が1962年のいわゆる「キューバ危機」の海中で起きていました。
「暗黒の土曜日」と呼ばれた10月27日、核兵器を積んでいるとされるソ連の輸送船がキューバに近づくのを、全世界が固唾を飲んで見守っていました。
この輸送船がソ連に引き返さなければ、世界は第3次世界大戦、しかも核戦争に突入する危機があったからですが、核兵器使用の決断を迫られている人物は、意外な場所にいたのです。
ソ連の潜水艦B59が海中からこの輸送船を護衛していましたが、アメリカの駆逐艦に発見されてしまいます。
アメリカ軍もいきなり沈める気はなかったので演習用の爆雷を投下して強制浮上を促しますが、B59は原子力潜水艦ではなかったので長時間の潜行により艦内の酸素は薄くなり、乗組員が倒れる事態となりました。
このような極限状態でモスクワとも連絡が取れない中、艦長と政治将校は米ソが戦争になったと判断し、核魚雷の使用を提案します。
核兵器の使用には当然モスクワの許可が必要でしたが、このような場合にそれを阻止する措置は設けられておらず、判断は現場に委ねられていました。
しかし副艦長のヴァシリー・アルヒーポフ中佐だけはこれに断固反対し、何とかモスクワと連絡を取る道を主張します。
結局、懸命の努力の結果モスクワと連絡をつけることができ、戦争状態ではないことがわかって核魚雷の使用は回避されました。
極秘事項なのであくまで推定ですが、B59が搭載していた核魚雷の威力は「リトル・ボーイ」に近かったとも言われており、この日はアメリカの偵察機が撃墜されていたこともあり、軍事的緊張は極度に高まっていました。
そのような状況で核兵器が使用されれば、それが事実誤認に基づくものであっても米ソが戦争に突入する可能性は十分にあったため、ヴァシリー・アルヒーポフ中佐が「世界を救った男」と賞賛されるのもうなずけます。
余談ながら、この翌日には沖縄(当時は米国統治下)の米軍基地に、核弾頭を搭載した地対地巡航ミサイルの発射命令が届きますが、不審に思った現場の指揮官の判断により、これも発射されずに終わり、発射命令は誤りだったと判明しました。
2つとも、背筋が寒くなる話です。
これほど多くの種類の「戦術核」が開発されたのは、戦略核は核の報復合戦となることを恐れてのことでしたが、結局はソ連も戦術核を多数開発したことと、たとえ戦術核であっても核の使用はやはり報復として核の反撃を受ける可能性が高いということになり、地対地ミサイル以外の戦術核兵器は後継の兵器が開発されることなく、退役とともに消えていきました。