1934年、ソ連のポリカルポフ I-16の運用が始まり、世界の軍用機は低翼・引き込み脚の時代に入りました。
イギリスのホーカー・ハリケーンが1936年、そしてドイツではメッサーシュミットBf109が1937年に実用化されます。
その流れの中で、1935年にイギリス海軍に採用された雷撃機、フェアリー・ソードフィッシュは時代に真っ向から背を向けた飛行機でした。
フェアリー・ソードフィッシュ
ソードフィッシュは複葉で固定脚、モノコックなど、どこ吹く風、とばかりに鋼管に布を張った構造でした。
「布だ、この船、布が張ってある!」とパズーが驚くようなシロモノだったのです。
このように、見てくれなどはお構いなし、あちこちに支柱や張線が走っていたので、乗組員の洗濯物を干すことができそうでした。
最高速度でも250キロに満たないので、陸上を走る新幹線より遅いことになります。
何でこの機が採用になったのかというと、海軍が出した要求そのものが「複座で雷撃・偵察ができる機」というものだったからです。
この機には前身となる「TSR Mk I」が存在し、これを細かく手直ししただけで、海軍の要求する機体ができ上がったのです。
危なっかしい新開発の機体とは異なり、採用の時点ですでに円熟の境地に達していたことがソードフィッシュの強みでした。
速度や上昇高度を犠牲にして(というよりもこれらの要素を求められても、無理ですが)、そのかわりに極めて優れた操作性を手に入れたのです。
パイロットが気が付くと離陸していた、といわれるほどで、スピンしても回復が容易、急降下しても時速360キロを超えることはないので、水面から60mあれば引き起こしが可能でした。
遅いくせに上翼には偉そうに後退角がついていますが、これは速さとは関係がなく、「TSR Mk I」から3人乗りにするために胴体を伸ばし、重心が後ろに移動したのでそれを補うためでした。
古い飛行機の新しい戦果
さて、ソードフィッシュが配備された翌年の1941年、イギリス海軍はそれまでの海戦史上になかった作戦を立案します。
1940年11月、空母 イラストリアスは、戦艦・重巡など10隻以上のものものしい護衛に守られて、アドリア海に突入します。
しかし、ほんとうの主役はソードフィッシュ21機でした。
主役と言ってもソードフィッシュは当時、「ガタピシのおばあさん」などという名前で、乗組員に親しまれて(?)いました。
さて、目指すはターラント、イタリア半島をハイヒールに見立てると、土踏まずのヒールの根本にあたるところにある軍港で、戦艦6、重巡を含む巡洋艦9、駆逐艦17が集結していました。
これをソードフィッシュで雷撃・爆撃しようと言うのです。
作戦名はジャッジメント、防雷網に守られているくせに、地中海を我らが海、などと抜かしているイタリア海軍に審判を下してやろう、というネーミングでしょうか。
ともかく、われらがソードフィッシュは史上初の艦載機による軍艦への攻撃に颯爽と発進・・・と言いたいところですが、魚雷などで重くなって巡航速度は160キロといったところなので、知らない人が見たら旧式の複葉機が集団で月夜のピクニックにぷかぷか飛んでいる、と見えたかもしれません。
ソードフィッシュ隊の接近は事前にイタリア軍に察知されてしまい、イタリア軍は2万発もの対空砲火でお出迎えしました。
しかし、撃墜されたのはわずかにソードフィッシュ 2機。
あまりに超低空で突入したので対空砲が高度を見誤った、という説があるほどです。
ともあれ、この旧式機は戦艦「リットリオ」、「ジュリオ・チェーザレ」が大破、「カブール」が沈没という素晴らしい戦果を挙げたのです。
ビスマルク戦での殊勲
ドイツ海軍の象徴である戦艦「ビスマルク」は1941年、通商破壊作戦「ライン演習作戦」により重巡「プリンツ・オイゲン」と共に大西洋を目指します。
その途上でイギリス艦隊と遭遇、巡洋戦艦「フッド」を轟沈させ、戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」に命中弾を与え、戦線より脱落させます。
しかし自らも燃料タンクに損傷を受けたため、通商破壊作戦を中止して当時ドイツ占領下のフランスに向かいます。
しかし「フッド」の仇討ちとばかり、英海軍は総力を結集して、ドイツ海軍のビスマルクを沈めようとします。
そこで出撃したのが、イギリスの空母「アーク・ロイヤル」搭載のソードフィッシュ隊でした。
最初に攻撃したエスモンド少佐率いる825隊は、ほとんど戦果を残すことができませんでしたが、810、818、820飛行隊の魚雷は、ビスマルクの舵を破壊した上に、多量に浸水する破孔を開けて結果的に死命を制したのです。
ターラントに続き、今度はドイツ海軍の象徴を葬るのに大きな役割を負った上に、全機が帰還しました。
170箇所以上被弾したのに帰還した機もあり、この機体のタフさを物語っています。
何せ、エンジン、燃料タンク、パイロット以外の布の部分に命中しても機体には致命的な損傷にならないのですから。
海峡の悲劇
しかしソードフィッシュの歴史は栄光にばかり彩られているわけではありません。
ドイツ海軍の残る主力艦「シャルンホルスト」、「グナイゼナウ」、「プリンツ・オイゲン」がブレストからドーバー海峡を突破してノルウェーに向かおうとした、いわゆる「チャンネル・ダッシュ」で、この機は悲劇に見舞われます。
「ビスマルク」攻撃にも参加した825飛行隊の、ソードフィッシュ 6機が出撃しましたが、味方戦闘機の護衛がなく、逆にドイツは誰あろう、撃墜王アドルフ・ガーラントが指揮する直衞のBf109や、Fw190が常時20機以上も飛んでいました。
さしものソードフィッシュもここに飛び込んではひとたまりもなく、たちまち全滅してしまいます。
この惨劇は敵である「シャルンホルスト」のホフマン艦長に「ああ・・・かわいそうに。あんなにのろくては自殺同然だ」と同情されるほどでした。
しかも魚雷は1発も命中せず、生存者は18人中わずか5人でした。
隊長のユージン・エスモンド少佐には、ビクトリア・クロスが追贈されましたが、少佐の遺体は授与式から1ヶ月半後、テムズ川河口に漂着しました。
新兵器を積んだ旧式機
ロケット弾は第二次大戦に登場した新兵器の1つですが、旧式機であるソードフィッシュがこれを搭載してUボート狩りに活躍したのです。
対潜レーダーも積める搭載量の多さ、低速でこまわりが効く点がこの任務にはうってつけでした。
また、空母の代替であるMACシップは、商船を改造したもので飛行甲板が150mくらいしかありませんでした。(当時の空母の飛行甲板の長さは、赤城で250m、イラストリアスで230m、エセックス 260mでした。)
この長さで離発着を苦にしない軍用機は、ソードフィッシュくらいしかありませんでした。
ストリンドバッグよ帰れ
数々の歴史を作ってきたソードフィッシュにも引退の時が来ました。
後継機、フェアリー「アルバコア」が就役したのです。
さらば、ストリングバッグ(なんでも入るカゴのことで、なんでもこなすこの飛行機を搭乗員はこう呼んでいました。)と、なるはずでした。
が、このアルバコア、操縦性は悪いは、トーラス・エンジンがいきなり停まるわで、事故・損害が増大。
搭乗員たちはスコットランド民謡「マイ・ボニー」(ビートルズもカバーしてますね)の替え歌で「ストリングバッグよ我に帰れ」を作りました。
この歌、サビ「Oh,bring back my Bonnie to me」の「Bonnie」を「Stringbag」にしたのです。
こうして、使用機をソードフィッシュにする部隊まででる始末で、何と後継機のアルバコアの方が早く退役してしまいました。
こうして、今でもこの愛すべき旧式機は航空ショーなどで人気を集めているのです。
地中海に敵なし?
イギリス人はソードフィッシュについて、「最も艦船を沈めた飛行機」と胸を張ります。
それは、この飛行機が活躍した地中海には、敵の航空戦力自体が余り存在しなかったからとも言えます。
戦場での優劣は相対的なもので決まるものであり、例えば旧式の三八式歩兵銃であっても、丸腰の人間は太刀打ち出来ないのと同じ道理です。