軍艦を建造する際、「あっさり沈みますように」などと考えて作る人はいないでしょう。(元寇の際にモンゴルに無理やり船を作らされた朝鮮の人を除く)
にもかかわらず、色々な条件が重なり、あっけない最期を遂げてしまった艦船は存在します。それも、駆逐艦から世界最大級の空母まで、大きさも色々です。
大和型3番艦 空母 信濃
空母「信濃」は、当初の計画では大和型3番艦として建造されただけあって、全長266m、基準排水量62000トンという巨大な艦でした。
その巨体の割には飛行格納庫を一層しか持たず、搭載予定の艦載機が50機弱だったのは、攻撃型ではなく、水上基地的な性格を想定したものであったからだと言われています。(29800トンの「翔鶴」でも約80機)
その代り、強固に装甲を施した飛行甲板を有し、艦内のバルジ(張り出し部)にコンクリートを充填して耐久力を高め、継戦能力を維持することに力を注いだ構造でした。
横須賀海軍工廠で船体を完成させた信濃は、艤装を呉海軍工廠で完成させるべく、1944年11月28日に横須賀を出港しました。
しかし静岡県沖で牙を研いでいたパラオ級潜水艦「アーチャーフィッシュ」の発見する所となり、29日午前3時16分に信濃は4本の魚雷を被雷します。
戦艦「武蔵」が沈むまでには魚雷・爆弾十数発ずつを受けたことを考えれば、船体が同じである信濃がこれで沈むわけがありませんでした。
が、それから約8時間後に信濃はあっさり沈んでしまったのです。
その原因について、やれ防水扉の不備だの、やれ訓練不足だのと、さまざまに取り沙汰されています。
しかし、それらは全て日本の敗色が濃い中で、止められない流れの中で起こったことだということは言えそうです。
ともあれ、最大の空母信濃は、出港してからわずか17時間で沈没するという、世界の海軍史上でも最短の記録を打ち立ててしまいました。
戦艦は陸上砲台と撃ち合うべからず
第一次世界大戦、トルコはドイツ同盟側の国として参戦し、これに対しイギリス・フランスの連合国側は黒海からロシアを支援しようと計画します。
そのため、15世紀のコンスタンティノープルの陥落以来トルコが扼してきた、ダーダネルス・ボスフォラス海峡を制圧しようと、戦艦16隻という大艦隊を送り込みます。
しかしその結果、「戦艦は陸上砲台と撃ち合うべからず」という戦訓を生み出すことになります。
イギリスの「レイジスティブル」「オーシャン」、フランスの「プーペ」が被弾の後、その日のうちに沈没してしまいます。
そしてイギリスの「トライアンフ」に、ドイツが派遣したUボート「U-21」が放った1発の魚雷が命中します。
何と、約12000トンの巨体がこのわずか1発により、10分で転覆、30分で沈没してしまいました。
これについて某ペディアでは死者73名、とありますが別の資料では生存55名、死者730名と数字におおきな開きがあります。
私見ながら、この急速な沈没からいって後者の数字が実情に近いと思われます。
話をすすめるにつれ、段々と沈没までの時間が短くなります。
地中海のイタリア海軍 アルベルコ・ダ・バルビアーノとアルベルト・ディ・ギュッサーノ
今度は第二次大戦の地中海が舞台です。
北アフリカ戦線において、ドイツ軍とイタリア軍への海上輸送は、マルタ島のイギリス基地からの空襲により、思うに任せない状態でした。
苦肉の策として燃料輸送に快速の軽巡を使おう、ということになりました。
地中海版「トーキョー・エクスプレス」と言うわけです。(時期はこちらのほうがほぼ1年早いのですが)
この任にあたったのが、ルネッサンス期の傭兵隊長から名付けられた「アルベルコ・ダ・バルビアーノ」と「アルベルト・ディ・ギュッサーノ」で、艦橋にまでガソリン入りのドラム缶を満載していました。
しかし、制空権を握っていたイギリス軍偵察機に発見され、引き返す途中、イギリス駆逐艦隊と遭遇してしまいます、というよりはイギリス側からの完全な奇襲でした。
通常、砲戦では軽巡が駆逐艦にひけをとるはずもないのですが、イタリア側が気づいた時には「シーク」「マオリ」が魚雷を放っていました。
ギュッサーノはまだ応戦する時間があったものの、やはり「リージョン」の魚雷が命中。
ガソリンを満載していた2隻は2分間の戦闘(?)で巨大な火柱と化して、爆沈してしまったのでした。
「イタリア海軍」と書いた時点で、その先には悲劇が待ち受けていることは予想がついてしまいます。
ジェットランド沖海戦のイギリス巡洋戦艦 クイーン・メリー
25年の歳月を隔てて、全く同じような運命をたどったイギリスの2隻の巡洋戦艦があります。
1916年に行われた、イギリス150隻、ドイツ99隻の戦艦が参戦した空前絶後の大海戦、「ジェットランド沖海戦」(ドイツ側呼称「スカゲラーク沖海戦」)において「クイーン・メリー」は撃沈されました。
「タイガー」「ニュージーランド」の斉射を受けた「クイーン・メリー」は次の瞬間、巨大な爆炎と共に、あっという間に爆沈してしまったのです。
乗組員1266名中、わずかに生存者は9名でした。
この時巡洋戦艦艦隊を指揮していたデイビット・ビーティ中将は、この光景を見て「我々の艦は、どこかが、ひどくおかしいぞ」とつぶやいたとのことです。
イギリス海軍の巡洋戦艦 フッド
時は流れて1941年、ドイツ戦艦「ビスマルク」が重巡「プリンツ・オイゲン」と共にデンマーク海峡を通過しようとした時、待ち構えていたのはイギリス海軍の「フッド」以下戦艦1、駆逐艦6からなる部隊でした。
5月21日、砲戦開始からわずか8分後にビスマルクの斉射がフッドにふりそそぐと見るや、フッドは大爆発を起こして真っ二つに折れ、わずか3分で轟沈したのです。
この信じがたい光景を味方は勿論、ドイツ側もあっけにとられて見るしかなかったといいます。
生存者は、1419名中わずかに3名でした。
この2隻に共通するのは垂直方向の防御の問題でした。
航空機による攻撃を想定していない時代に建造された2隻は、敵との砲戦による水平方向の防御を重視した装甲を施していました。
しかし、砲戦であっても遠距離の砲弾は放物線を描いて急角度で落下してきます。
2艦ともこうした敵砲弾が船体を縦に貫き、砲塔下部にある砲弾や火薬の誘爆を起こしたのが主な原因と考えられています。
ドイツの軍艦は、ジェットランド海戦の前に戦われた「ドッガーバンク海戦」で、この戦訓から誘爆を防ぐ改修をすぐに実行したため、ジェットランド海戦では命中弾を受けても、なかなか沈まない打たれ強さを見せています。
ノルマンディー上陸作戦のアメリカ駆逐艦 コリー
「史上最大の作戦」として知られるノルマンディー上陸作戦において、艦砲射撃を行った連合国艦船のなかで唯一、犠牲となったのはアメリカの駆逐艦「コリー」でした。
射程の短い5インチ砲で砲撃をするために海岸近くまで接近していたコリーは、海岸の砲台のドイツ軍から集中砲火を浴びます。
「陸上砲台と撃ち合うべからず」という戦訓をものともせずに敵砲台を1つ粉砕し、巧みな操艦で敵砲弾をかわしていました。
しかし、遂に敷設されていた機雷に乗り上げてしまったのです。
その爆発の衝撃でコリーはV字に折れ、1つのボイラー室では全員が即死し、艦首と艦尾は上部の構造物で辛うじてつながっている状態になりました。
しかし完全に動力を失っても(おまけにスクリューも海面の上に飛び出しています)爆発の衝撃でコリーは800メートル近くも突き進みました。
しかも、驚いたことに、その間も大破した艦からは砲撃が続いていたのです。
この惨劇にもかかわらず、294名中死者は13名でした。
以上の例は余りにも速い沈没のために、退艦命令を出したと確認できるのは「信濃」と「コリー」だけでしょう。
ここでは取り上げませんでしたが、敵の攻撃を受けたわけでもないのに敢えない最期を遂げた艦船も少なくありません。(停泊中に謎の爆沈をするとか、自分が撃った魚雷が懐かしさのあまりかUターンしてきて爆沈とか)
どちらも切ないことに変わりはありません。