単独で多数の敵軍の前に立ちはだかり、その侵攻を食い止める――そんな戦車史に残る活躍をした戦車が実在します。
ソビエト連邦が第2次世界大戦時に開発した重戦車、KV-2です。
ロシア語では「カーヴェードゥヴァー」と読みます。
もともと、この戦車は、ソ連が1939年にフィンランドに侵攻したことがキッカケで開発されました。
小国フィンランドに対し、ソ連軍は領土拡大を目的として、数の上では圧倒的有利な状態で攻め込ますが、フィンランド軍の激しい抵抗によって大きな損害を受けます。
この状況を打開するために、ソ連軍の前線部隊は、敵陣の突破と火力支援をするための戦車の開発を中央に打診、その要請に応じて作られたのがKV-2です。
驚くべきはこの戦車、12月に送られた前線の要請に対し、2月には試作機を完成させ、そのまま実戦に投入したという、恐るべき速度で開発された、いわば突貫工事で作られた戦車でした。
車体は既に正式採用されていたソ連の重戦車、KV-1の物をベースとして、その上に箱型の巨大な回転砲塔を装備、その砲塔に超大型の152mm榴弾砲が搭載されました。
フィンランド軍と戦う前線に送られたその火力は、試作機の段階で前線部隊から寄せられた要望を満たすものだったそうです。
さらに、正面装甲110mmと言うその重装甲は、フィンランド軍の操るボフォース37mm対戦車砲の直撃を幾度となく弾き返した挙句、何事もなかったかのように動いていたそうです。
およそ突貫戦車とは思えない戦果を挙げたことにより、ソ連軍は早速この戦車を正式採用し、その名をKV-2としました。
さて、冒頭のエピソード、1941年6月のリトアニア、ラシェイニャイ市の近郊に舞台は移ります。
独ソ戦中、ソ連領内に侵攻したドイツ軍第6戦車師団は、ラシェイニャイ市を占領し、さらに前進するための橋頭堡を築くために、軽戦車と歩兵からなる前衛部隊を先行させました。
その前衛部隊と第6戦車師団を分断したのが、たった1両のKV-2だったのです。
ソ連軍が随伴歩兵と共に投入した1両のKV-2は、ドイツ前衛部隊と第6戦車師団を繋ぐ街道上に居座りました。
ドイツ軍はこのままでは、第6戦車師団は前衛部隊との連携ができなくなり、前衛部隊は必要な補給を受けることができません。
早速ドイツ軍は、このKV-2の排除にとりかかります。
しかし、最初にドイツ前衛部隊の増援として向かったトラック12台は、すべてKV-2の152mm砲の餌食となり、破壊されてしまいます。
ドイツ軍は対戦車砲を設置し、KV-2に砲撃を仕掛けました。
しかし、ある程度の貫通力を備えているはずの50mm口径の対戦車砲の射撃は、KV-2の重装甲で全て跳ね返されてしまい、KV-2の152mm榴弾砲は対戦車砲部隊をも、あっさり蹴散らしてしまいました。
対戦車砲を破壊されたドイツ軍は、通称アハトアハトこと、88mm高射砲での撃破を試みました。
このアハトアハト、そもそもは対空砲なのですが、ヨーロッパやアフリカの各地の多くの戦線で使用され、水平射撃によって何台もの戦車を鉄くずに変えてきた、対空としてのみならず対戦車砲としても信頼と実績のある兵器です。
しかしKV-2は、アハトアハトの動きを察知して、その設営中に152mm砲を叩きこみ、無力化に成功しました。
ドイツ第6戦車師団と前衛部隊との間に立ち塞がったソ連重戦車は、たった1台でドイツ軍の動きを食い止めることに成功したのです。
しかし、ドイツ側も黙ってはいません。
昼間はKV-2にコテンパンにやられたものの、夜には闇にまぎれて工兵をKV-2へと肉薄させ、爆薬を設置しました。
この時仕掛けた爆薬は、通常扱う量よりも2倍近く多かったという説もあります。
爆破によってドイツ軍は勝利を確信したでしょうが、爆煙が晴れた後には、履帯が破壊されて動けなくなり、装甲の一部は破損したものの、砲塔の周りは無傷のままで火力を維持したままのKV-2の姿がありました。
朝になってドイツ軍は、再びこの怪物戦車を撃破するために行動を開始、ドイツ軍はKV-2の気を惹くために、囮として35(t)軽戦車を走らせて、その間にアハトアハトの射撃用意に取り掛かりました。
今度こそ設置に成功したドイツ軍は、水平射撃を敢行、6発をKV-2に直撃させましたが、それでも貫通した砲弾は2発のみで、4発は貫通に至らなかったのです。
しかも、2発の貫通弾を食らった後でも、KV-2の砲塔は動いており、ドイツ軍に狙いを定めたのです。
KV-2の乗員の生存は確実でした。
まだ行動を続けるKV-2に対して、ドイツ工兵が突撃し、アハトアハトの攻撃が貫通して空いた穴から数発の手榴弾を投げ入れました。
内部で炸裂した手榴弾がトドメになって、たった1輌でドイツ軍を2日間も食い止めた『街道上の怪物』KV-2は、ようやく活動を停止したのです。
ソ連兵からはドレッドノート(ド級戦艦)と呼ばれて頼りにされ、ドイツ兵からはギガント(巨人)と呼ばれ恐れられたKV-2ですが、上記のような強烈なエピソードの割には、意外と知名度が低いのではないでしょうか?
これは、ベースになったKV-1が、戦闘で壊れるよりも故障で動かなくなることが多い、と言われるほど故障率が高く、機動性も高くなかったことと、巨大になった砲塔を支えるのにKV-1と同じ大きさのターレットリングでは、そもそも無理があり、さらに手動で砲塔を旋回する必要があったため、坂道などで車体が傾くと砲塔を回すことができないなど、砲塔の運用に制限や支障がありました。
さらに大口径砲を採用したことにより、砲弾があまりに大きすぎるため、通常のような弾と火薬を一体化させた砲弾を採用できず、発射用の火薬(装薬)と、弾を別パーツに分けた砲弾を使う「分離装薬式」を採用せざるを得なかったことにより、装填と発射に時間がかかったこと、それに伴って装填手も2人必要(通常の戦車では装填手は1人)だったことなど、KV-2の運用にはかなり制限があり、それにも関わらず、ソ連軍が通常の戦車のように運用しようとしたことで、充分な戦果を上げることができなかったためだと考えられます。
重装甲と大火力を実現していたのにも関わらず、故障率と言う点においては突貫工事の影響をモロに受けてしまい、軍の運用方針のせいで活躍できなかった、ある意味では気の毒な戦車であるとも言えます。
また、少し変わった理由として、上記「街道上の怪物」のエピソードが日本に伝わる際に、KV-2による戦果としてではなく、KV-1によるものと、間違って伝わったことも原因の1つかもしれません。
戦場を部隊とした漫画の第一人者である小林源文さんの作品にも、この街道上の怪物のエピソードを描いたものがありますが、KV-2ではなくKV-1が主役となっており、せっかく活躍したのにそのエピソードが正しく伝わらなかったことで、イマイチ知名度が上がらなかった、可哀想な戦車であると言わざるを得ないでしょう。
圧倒的な火力や、装甲厚で局所的には大活躍をしたものの、大局的に見ればあまり活躍できなかったKV-2は、早々に量産を打ち切られ、歴史から姿を消してしまいました。
現在、KV-2の勇姿は、モスクワの中央軍事博物館にて見ることができます。
その巨体はかつてドイツ兵がギガント(巨人)と呼んだだけあって、現在も見る者を圧倒し続けています。