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空飛ぶ戦艦と言われた二式飛行艇

かつて、日本には「空飛ぶ戦艦」と呼ばれていた大型飛行艇がありました。

その性能は、戦後に残存した機体を受け取ったアメリカを驚かせ、「飛行艇の技術は、日本が世界に勝利した」とまで言わせたのです。

今回は、そんな脅威の性能を秘めた飛行艇「二式飛行艇」についてです。

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二式飛行艇は第二次世界大戦中に川西航空機で生産され、1941年に初飛行を行いました。

略符号は「H8K」で意味はHが飛行艇、8は8番目の飛行艇、Kは川西航空機での製造を示しています。

また、連合国側からのコードネームは「エミリー(Emily)」です。

それ以外には俗称として「二式大艇」や「二式大型飛行艇」などとも呼ばれたそうです。

二式大艇については読みが「にしきたいてい」ですが、海軍では大を濁らせて「だい」と読む風習があったため「にしきだいてい」とも呼ばれました。

二式大艇の開発経緯

二式大艇が開発された経緯は、第一次世界大戦が終結した頃まで遡ります。

列強国達が軍縮方面へと方向性を転換し、軍艦の建造を自粛する海軍休日へと入ります。

そんな中、日本は当時の仮想敵国であったアメリカに対して、物量において大きく遅れを取っていました。

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そこで日本はアメリカとの数的劣勢を覆すため、航空戦力に目を付けたのです。

当時の日本は、統治を委任された島々などを保有していましたが、これらの島々に陸上機を運用できるだけの基地を整備する事は難しかったこともあり、航続距離が長く、水上から離水する事の出来る(=飛行場が要らない)、飛行艇を用いた攻撃を考案します。

そしてこの案は、後に二式大艇を製造する川西航空機が開発した飛行艇「九七式飛行艇」が実現したのです。

その後、第二次世界大戦が勃発、各国の緊張が高まっていた時に九七式飛行艇からの更新用として、後に二式大艇と呼ばれることになる機体「十三試大型飛行艇」の開発を命令します。

この際に海軍が要求した性能は・・・

  • 最高速度は当時の主力戦闘機とほぼ同等、同時期に開発された英国の飛行艇より100km/h以上早い444km/h以上
  • 航続距離は偵察時7,400km以上、攻撃時6,500km以上という非常に長い航続距離(参考までに東京からアメリカのハワイ州までの直線距離がおよそ6,500kmです)
  • 防御のための多数の20mm機関砲と防弾装甲
  • 雷撃を容易にするための良好な操縦性
  • 1t爆弾や800kg魚雷2発を搭載できるペイロード

という無茶振りに近いものでしたが、これらの要求に対して川西航空機は試行錯誤の末、完成させます。

1942年2月5日に「二式飛行艇一一型H8K1」として制式採用が決定されました。

完成した二式大艇は、どれほどの性能であったかというと、大型飛行艇としては異常とも言える最高速度465km/h、航続距離は偵察状態で8,200km超、最大で24時間の滞空性能を持ち、防御用の火器は20mm機関砲5基、7.7mm機銃4基を装備していました。

当時の飛行艇は一般的に「弾幕を張り、敵を攻撃可能な範囲に入らせない、攻撃態勢にさせない」といった小口径銃を多数装備する防御的構成が一般的でしたが、二式大艇では防御用の火器とは言い難い、時には大型の航空機にさえ致命傷を与えられる20mm機関砲を装備、相対する敵機に大きなプレッシャーを与えました。

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また、燃料の搭載量が非常に多く、哨戒や偵察の際には8000~12000リットル、限界まで積んだ際には18000リットルまで積めたのです。

また、燃料タンクには被弾時の漏洩防止のためにゴム皮膜による措置が講じられていたり、火の気の多い場所には自動の消化装置を備えているなど、当時の日本軍機にしては珍しい防御寄りの構成がされていました。

また二式大艇は航続距離が長い=任務時間が長い事もあり、機内に休憩スペースを始めとして、交代で眠るための寝台や便所、電気冷蔵庫、空調設備なども装備されていました。

大型の飛行艇という事もあり搭乗人数は10~13人と多く、指揮官を始めとして、操縦員が最低2名、ナビゲーションや爆撃を担当する偵察員、無線を担当する電信員、レーダーを担当する電探員、各部を整備する搭乗整備員など、各部を担当する人員が乗り込んでいました。

総合的な性能では機体のサイズに比して、搭載可能な投下兵器の量が少ないという点こそありましたが、他国の飛行艇とは比べるまでも無く、アメリカのボーイング社が開発した大型の重戦略爆撃機「B-17」に近い性能になっています。

飛行艇でありながら、初期とはいえ戦略爆撃機に近い性能を持っていたというのは、それだけで異常なことです。

B-17と比較すると搭載できる投下兵器の量では劣っている一方で、機体自体が持つ武装や装甲は同等クラス、速力や航続距離では上回るという性能で、実戦ではB-17を追撃し、撃墜するなど飛行艇らしからぬ戦果を上げています。

また、二式大艇は数少ない日本に現存している航空機でもあります。

全ての始まりは終戦後の9月、二式大艇はアメリカに接収されることが決定し、当時二式大艇が残存していた詫間基地に所属していた詫間航空隊の飛行隊長、日辻常雄少佐の下に一つの命令が下ります。

それは「詫間基地に残存する二式大艇を飛行可能な状態まで整備、少佐を長とし空輸チームを編成する」というモノ。

しかし、詫間基地に残る3機の二式大艇は、既に数々の戦火を経てきた事もありボロボロ、整備が出来ないと言う訳ではないが、その巨体を整備するには明らかに人手が足りない状態でした。

復員が進みつつあり、人員を呼び戻すことが容易では無い中検討を重ねた所、呉に居た二式大艇の整備員7名、復員していた搭乗員6名が詫間基地へと向かうことになったのです。

整備員達の頑張りもあって、10月の終わりには整備が終わり、試験飛行待ちの段階まで進みました。

11月に入った頃に、進駐軍より指令が入り、機体の日の丸の除去とアメリカ海軍のマークへの塗り替え等の指令が下り、試験飛行の結果が良好ならば11月11日にいよいよ二式大艇を詫間基地から横浜へと空輸することになります。

試験飛行が無事終わった際には、日辻少佐は米国の調査団からの握手攻めに合い、写真のポーズなども求められたそうです。

そしてアメリカ側の代表であったシルバー中尉が一つの提案がされます。

それは「かつて好敵手であったアメリカの飛行艇、PBYカタリナの操縦をしてみないか?」というモノでした。

日辻少佐は30分程度、カタリナの操縦を行いますが、飛行性能こそ二式大艇に劣るが、離水の簡単さや、艇内の油染み一つ無い完成度の高さなどに驚愕したとも言われています。

その後は空路で横浜へと向かいますが、二式大艇単機ならば1時間半程度で到着する距離を、より低速なカタリナと共に2時間以上かけて無事に到着しました。

横浜基地には米軍の飛行艇48機の進駐部隊、横浜沖には終戦時に調印式の舞台となったアメリカ軍の戦艦、ミズーリを含めた大艦隊が停泊する中、日辻少佐は思い出にと低空飛行の許可を取り、思う存分に飛び回った後、飛行艇部隊が苦労しながら訓練する荒れる海に鮮やかに着水しました。

その際にはシルバー中尉が「No.1!!」と指を立てて叫んだそうです。

その後、二式大艇はアメリカに送られ、性能確認のための試験を行い、持ち前の高性能さを見せつけ、アメリカ側は「飛行艇の技術では日本は世界に勝利していた」と賞賛しました。

試験終了後はアメリカのノーフォーク海軍基地で保管されていましたが、その後アメリカは国内での永久保存を決定しますが、日本国内では返還運動が起こります。

その後、1979年にアメリカ海軍の経費削減もあり、保管の終了が決定されました。

その際に「日本が引き取る」か「スクラップ」にするかの選択を日本側に提案します。

日本側は、船の科学館が引取りを表明し、引渡しや輸送、整備を経て、1980年より東京の船の科学館に野外展示されました。

2004年以降は場所を移し、鹿児島県の鹿屋航空基地資料館にて保存されており、現在でも見学が出来るそうです。

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