はじめに
2001年9月11日、通称9.11(きゅーてんいちいち)と呼ばれる、イスラムによるアメリカ攻撃から、現在のイスラム国との戦闘まで、現在は第3次世界大戦と呼ばれてもよい状況になっているという識者もいる。
もちろん、世界大戦と誇大に言わなくても、現在が戦争状態であり、「平和」ではないことは、いくら平和ボケした我々日本人でも連日のニュースから認識しているだろう。
9.11から始まる一連の戦争を語る前に、目に見える形でアメリカを中心とする西側諸国と、イスラムとの戦いの発端となった(このように「目に見える形」と前置きしたのはその前の旧ソ連によるアフガン紛争から実は始まっている)、1991年の湾岸戦争を概観しておきたい。
それが現在起こっているイスラム国との戦い、テロリズムとの戦いとの原点であると仮定して概観することで見えてくるものがあると考えるからである。
見えてくるものとは、圧倒的な戦力と、ハイテク化されたアメリカ軍に対抗するにはテロリズムしかない、と全世界、イスラム教徒もキリスト教徒も含む全世界に知らしめた戦争であるからである。
本稿では、湾岸戦争の概略と双方の戦力を取り上げたい。
概略
1990年8月2日、突如としてフセイン政権のイラク軍が隣国のクウェートへ侵攻。
一日足らずでその全国土を占領してしまう。
この突然の侵攻は、当時のイラクの独裁者、フセイン大統領が、長年続いたイラン・イラク戦争で疲弊した国内経済、鬱積する国民の不満、反体制勢力の台頭への危惧を抑え、国民の不満を国外にそらし、経済的に豊かな(豊富な石油資源を有する)、当時石油に浮かぶ王国と呼ばれたクウェート王国への侵攻という形を取った、言わば政治の延長としての戦争であった。
もちろん、フセイン自身もアラブ世界におけるリーダーとしての地位を確立したいという欲求もあったであろう。
この突如のクウェート侵攻に対し、西側諸国を中心として激しい反発が起こり、国連はイラクのクウェート侵攻への非難声明を出し、即時無条件撤退を決議、採択をした。
しかし、イラクは国連による再三の撤退勧告を無視し続け、ついにはクウェート併合を宣言。
イラク側の強気な姿勢に、国連による和平交渉は失敗に終わる(この一連の流れは、日本が満州国を建国し、太平洋戦争(真珠湾攻撃)に至る流れに酷似していると分析する一部陰謀史観がある。
が、ここでは別の話)。
年が明けて1991年、経済制裁を伴う和平交渉と並行してアメリカ、イギリスを中心とする、いわゆる「多国籍軍」(これについても、海外では「連合軍」であり、United Nationsを日本外務省が意図的に「国際連合」と意訳したのと同様である)がサウジアラビアにぞくぞくと集結。
最終的に30カ国程の国が戦闘部隊及び支援部隊、軍需物資を送った。
その中でも最大の兵力を送ったアメリカ合衆国は、この派兵を「砂漠の盾作戦」と呼称し、この多国籍軍の中心兵力として、当時中東での最大最強を誇るイラク軍との全面戦争になっていく。
本格的な戦闘は1月17日から開始され、多国籍軍は、アメリカ軍の常套的な戦術である徹底的な空爆撃を「砂漠の嵐」と呼称し、その航空攻撃を約1ヶ月間続けた。
陸上兵力ならまだしも、空軍力ではイラク軍は圧倒的に不利であり、防空戦もままならないまま、イラク軍は大損害をこの一連の空爆で受けてしまう。
この空爆は、いままでの絨毯爆撃ではなく、モニタ上に映しだされたターゲットにカーソルを合わせ、ボタンを押すだけといったゲーム感覚に近い、いわゆるピンポイント爆撃の映像が全世界に流され、新たな軍事戦術の到来を全世界に印象づけた。
徹底的な空爆から約1か月後の2月24日から多国籍軍は本格的な陸上戦に移行する。
これも赤外線センサーでモニタ上に映しだされた敵戦車をレーダー射撃する映像が流され、ハイテク戦という呼称がなされた。
この掃討戦とも言って良い陸上戦は、わずか4日で実質的な戦闘が終わり、同27日、イラクのフセイン大統領は国連決議を受諾してクウェートからの撤退を発表し、湾岸戦争は実質的に1ヶ月半で集結したのである。
この際、フセインを徹底的に追い詰め、捕縛しようとアメリカ軍は試みたようであるが、フセインは地下に要塞化されたシェルターに篭っており、肉弾戦で被害を出して世論やマスコミから攻撃され、帰って逆効果になる政治的判断から徹底的な掃討作戦は行われなかった。
数字上では互角の陸上兵力で比較する、双方の戦力
多国籍軍は、陸軍兵力は後方戦力も合わせて56万人。
戦車4000両、装甲車5500両、火砲2400門、航空機2700機、武装ヘリ300機、艦艇(空母、戦艦、揚陸艦、フリゲート艦、掃海艇等)550隻の戦力である。
戦車、装甲車を多国籍軍各国で主要なものを見ると、アメリカ軍は戦車M60A1、M551シェリダン(最初にサウジアラビアに派兵された空挺師団が装備)、M1戦車(120ミリ砲に地上戦開始前に換装)、M1A1戦車など、装甲車では、M2/M3ブラッドレー、海兵隊所属のAAVA1(水陸両用車)、M113、LAV-25などがあげられる。
また、レーダー射撃ミサイル攻撃ができるMLRSが初めて実戦投入された。
イギリス軍も新鋭の戦車としてチャレンジャー戦車、ウォーリア、フランス軍もAMX-30B2戦車、装甲車としてFV432、VAV装甲車、ERC-90サゲー装甲偵察車、AMX-10RC(自走砲)、ドイツ製のフクスNBC偵察車などを投入した。
また、自走砲としてM109A2(155ミリ砲搭載)、M110A2(203ミリ砲搭載)などがある。
一方のイラク側は、アラブ諸国随一の軍事力を持ち、イラン・イラク戦争での実戦経験も豊富であり、兵力98万人、戦車5600両、火砲3000門、地対空ミサイル500発、航空機700機、艦艇40隻(哨戒艇やフリゲートなどの小型艦がほとんど)であり、陸上戦力は多国籍軍より勝っていたが、大規模な空爆によりその戦力は半数以下になっていた。
その内訳として、戦車はソ連製を中心に、T62Aを1500両、T72M1を1000両、T55に増加装甲を施した通称エニグマ1500両、中国製の69式戦車500両、装甲車は、BMP1500両、MT-LB装甲輸送車、BTR-50、OT-62など1500両、中国製のYW-531装甲兵員輸送車1000両などを擁していた。
また、自走砲として2S3Mアガーツィア自走砲、2S1グヴォージカ自走砲、シルカ対空自走機関砲などが火砲の中心であった。
しかし、ハイテク化という観点では、いくらイラン・イラク戦争での実戦経験が豊富であっても、それが質的優位に結びつかなかったと言わざるをえないだろう。
それを表すエピソードとして、ユーフラテス河畔を進撃していたM1A1戦車が泥にはまって1両行動不能に陥ったのを、イラク軍のT72戦車3両が攻撃を仕掛けたが、M1戦車は身動きができないにもかかわらず、砲撃戦を展開し3両とも返り討ちにしたというようなエピソードもある。
双方の戦車には性能的な差が歴然としており、射程距離だけでも2倍近い違いがあり、レーダー照射射撃の射程距離を比べても、M1A1は敵味方を識別し攻撃できる距離が1500メートルに対して、T72はわずか800メートル、また、その1分間の連写能力の差はM1A1が10発に対し(貫徹力は2000メートルで60センチ)、T72は3,4発程度(貫徹力は2000メートルで半分の30センチ程度)だった。
また、損害比率に関しても、M1A1は800両以上のイラク軍戦車を撃破したのに対し、損害は2両だけとう400対1という圧倒的なキルレシオを発揮したのである。