人類が飛行機を開発し、大空を軍事的に重要な要素と見るようになってから、そろそろ100年が経とうとしています。
その歴史の中で、空でこんなことをやろうしたのか、という涙ぐましい例を幾つか紹介してみます。
パラシュート・アンド・ケーブル
かつて「地球上で大英帝国は日が沈まない」という繁栄を謳歌したイギリスですが、垂直方向にもバリエーションあふれるものを色々と作っています。
第二次世界大戦「バトル・オブ・ブリテン」が始まった頃、各国の対空砲火の命中率は高いとは言えませんでした。
そこで色々試行錯誤するわけですが、さすが大英帝国、他の国に類を見ない対空兵器を作りました。
その名は「パラシュート・アンド・ケーブル」(略してPAC)です。
これは、ロケット推進で上空に打ち上げられると、鋼鉄製のワイヤーがぶんぶん回りながら落ちてくるというものです。
このワイヤーに触れれば敵機はバッサリ、という寸法でした。
しかし、余り戦果は挙がらなかったようですが、基地防衛に飛び立った味方ハリケーンの一隊の肝を冷やす効果はあったようで、PACの使用を味方にも知らせる余裕などなかったのでしょうが、ブンブンと飛び交うワイヤーの間を飛んだハリケーンのパイロット達は生きた心地がしなかったそうです。
V-1の撃退方法
ヒトラーのいわゆる「報復兵器」のうち、巡航ミサイルの元祖である通称V-1(フィーゼラー103)はノルマンディー上陸作戦後に本格的に運用が始まりました。
「V-2」と異なり、水平に時速480〜650kmで飛来するV-1は通常の対空砲火や阻害気球で対応が可能でした。
なかでもユニークな撃墜法があり、一発も撃たず、阻害気球も必要としない方法です。
それは、巡航速度で飛来するV1を発見すると、戦闘機で接近して並んで飛び、主翼の端でV1の主翼を跳ね上げるというもので、V-1はバランスを失って落下するというものです。
この記事の中で、恐らく唯一実用的な戦い方と思われます。
高高度戦闘機、ウエルキンの開発
1940年のバトル・オブ・ブリテンの少し前、イギリス空軍は高高度から飛来する敵爆撃機に対応すべく、高高度戦闘機の開発を決めます。
1940年7月で実用高度13000m以上、最大速度720km/h、レーダーを装備する複座戦で、爆撃機相手なので20ミリ機関砲を6門装備予定、というのが英空軍の性能要求で、これに見事応えれば、凄い戦闘機が完成しそうですが、この要求の高さに耐えかねて、最初名乗りを挙げていた4社のうち、残ったのはウエストランド社だけになりました。
「ウエルキン」と名付けられて単座で速度も640km/hになりましたが実用高度は13000mを上回り、1942年11月に生産が始まります。
しかし当初から前途に暗雲が立ち込めます。
まず、想定していた敵である高高度偵察・爆撃機Ju-86pは確かに飛んできましたが、その数は少なく、脅威とはなりませんでした。
しかもこの頃には、スピットファイアやモスキートの高高度型が開発され、Ju-86pの撃墜に成功していたのです。
しかも、ウエルキンは高高度は飛べるものの運動性能に難があり、戦闘機としては疑問符がつく存在になってしまったのです。
つまり、高く飛べるだけ、ということになり生産された67機は、部隊配属もされずに実験機に回されるという結末になってしまいました。
新型戦闘機要求仕様F7/30
1931年にイギリス空軍は、新型戦闘機要求仕様F7/30を提示しました。
最大速度は400km/h以上で機銃4門、種々の性能が現存の戦闘機を上回ること、という要求でした。
これは大仕事になる、と多くのメーカーがこの仕様に手を上げました。
後に「スクア」「ボウタ」「バッカニア」など主に雷撃機畑で知られる、ちょっと(どころではないですが)クセがあるメーカーであるブラックバーン社も、初めて戦闘機を作ろうと力こぶを作ったのです。
さて、社内名称ブラックバーンF3はプラモデル愛好家なら喜びそうなマニアックなデザインでした。
複葉機なのですが、上の翼は「中翼」の位置についていて、下の翼は主脚のタイヤの少し上にありました。
それでも胴体は金属製モノコックで、よくも悪くも過渡期の戦闘機で、見た目がアレでも飛行性能がよければいいのですが、このF3はそれ以前の問題になってしまいました。
まずは滑走の際の安定性が悪く、あちらを直しこちらの部品を取り返しましたが、一向に飛び立てず、そのうちに試作機の軍への引き渡し期限が来ましたが、飛べないのでは話になりません。
F3は何と一度も飛ばずにその運命を終えました。
ちなみに、この要求仕様F7/30を満たした機はなかったそうで、その中にはスーパーマリン社のスピットファイアの原型もありました。
ところがこの時のスピットファイアはあの流麗な楕円翼の姿とは似ても似つかぬ、逆ガル翼にスパッド付きの固定脚という、なぜかJu87に似ているものだったのでした。
高度13400mから0mまでをカバーするイギリス、恐るべし。
「トレビアン」とはいかなかったフランス
第二次大戦で戦勝国になったとは言え、戦争中に自国で兵器を開発する機会がなかったフランス。
そこで戦後に今までの遅れを取り戻そうとするかのように、さまざまな航空機を開発しますが、ダメ飛行機もその数に比例して開発してしまったのです。
思い切りすぎた例を2つほど。
ジェット機時代になったとはいえ、ヨーロッパではまだまだ「滑走路」と言えば草地を連想し、(映画「空軍大戦略」ではそのあたりの事情がよくわかります。)現在のような舗装した滑走面という印象がなかった1950年代。
「そうだ、草地に離発着するんだから、車輪はいらないぞ」と、独創性のメーターを振りきって開発されたのが、シュド・エストSE5000「パルデュール」(「ケンカ好き」くらいの意味か?)でした。
車輪は離発着以外は邪魔者でしかないのですから、省略できれば生産性も上がり、その分いろいろと積めそうです。
離陸は車輪付きの台車に乗って行い、着陸は機体につけたソリ状の部分で行います。(ほとんど胴体着陸ですが。)
しかしこの離発着の手順は、はからずもMe163「コメート」と同じですね。
実験自体はダメ飛行機にしては大過なく終わったのですが、離陸した後の台車を回収しないとつぎの離陸ができないぞ、それなら台車回収車を用意しなきゃ、などと考えているうちに実戦向きでないことが表面化してきて、文字通り着地点が見いだせずに開発中止となりました。
さて、攻めてくる敵もジェット爆撃機になったからには、迎撃する方も早くなくっちゃ、と考えて開発されたのがシュド・ウエストSO9000「トリダン」(英語にすると「トライデント」と言えばわかりやすいですね。)でした。
とにかく高高度性能と速度を重視し、上昇にはジェットエンジンを使い、いざとなったらロケットモーターに点火する、というこの頃流行った混合動力機でした。
「最後の有人戦闘機」ことF-104「スターファイター」の兄弟みたいな外見でしたが、運用法は更に上を行くアバンギャルドさでした。
機体内には2種類のエンジンの燃料で一杯で、固定武装を搭載する余地がないのでマトラ515空対空ミサイル一本をぶら下げて、それ一発撃ったら終わり、というものでした。
これでは「最後の有人戦闘機」ではなく「最初の有人ミサイル」とでも言えそうでした。
性能は悪くなかったのですが、ロケットモーターの燃料の取り扱いが難しいのと、ジェットエンジンの発達がめざましく、ダッソー社の「ミラージュⅢ」のような普通の戦闘機の性能で事足りることがみんなわかってきてしまったのです。
かくして、名前の「三又槍」どころかミサイル一本勝負のトリダンは、高度24000m余りという世界新記録樹立を花道として姿を消していったのです。