「モナ・リザ」など、幾多の傑作絵画を描き、また数々の発明でも知られた、中世ルネサンスを代表する文化人、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
その芸術家としての円熟期は、戦争と切っても切れない縁がある。
当時のイタリア半島は都市国家が分立した上に、ローマを中心とした地域は教会が統べる教皇領、更に、スペイン、神聖ローマ帝国、フランスといった周辺強国が、互いに覇権を争っていた。
そもそもヨーロッパは、古代ローマ帝国以来、第二次世界大戦までは、ほぼ間断なく戦争を繰り返して来たパワー・ゲームの舞台だったのだ。
ヨーロッパの歴史は、戦史に代えられると言っても良く、そして、イタリアこそは、その典型だろう。
5世紀に西ローマが滅び、オドアケルが版図として半島全体を支配して以来、1861年にヴィットーレ・エマヌエレ2世が戴冠、イタリア王国として統一するまで、四分五裂していたのだから。
それだけ、長きに渡り、戦火が絶えなかったのだ。
15世紀、レオナルドは、その修業時代までをフィレンツェで過ごしており、当時のフィレンツェ共和国は、政権を担ったメディチ家が安定、暫しの平和を保っていた。
もともと、メディチ家は薬剤販売で成功した新興商人で、後に銀行を開き、大きく財を成し、フィレンツェの政界に影響を拡げていく。
14世紀の毛皮商人の武裝蜂起も、その一族が扇動したのが発端で、この反乱そのものには失敗したものの、ローマ教皇と次第に関係を深めた強味もあり、次第に権力を拡大させていた。
レオナルドはパトロンの招請を受け、北部の内陸都市ミラノへ移る。
ミラノ公国は、映画監督として知られたヴィスコンティの一族が、この通商路の要を繁栄させて来たが、15世紀に入ると、東隣の海洋国ヴェネツィアとの戦争、後継者を巡る内乱が相次ぎ、傭兵隊長を父に持つルドヴィゴ・スフォルツァが統治、やっと平定した頃だった。
その権力も、当時お決まりの、暗殺という荒っぽい手段によって強奪したのだ。
毒薬と陰謀は、古代から中世までの一見、退屈そうなヨーロッパ史を楽しくひもとくためのキーワードと言えよう。
このスフォルツァ公の庇護の下、一人前の美術家として独立したレオナルドは、有名な「最後の晩餐」などを制作、早くも天才の片鱗を示したが、安寧の時は長くは続かない。
現在のドイツ、オーストリアを中心にする神聖ローマとスペイン、当時の大国二つを統べるハプスブルグ家と、フランスがイタリア半島の支配を争い、ほぼ20年に渡る戦争が始まったのだ。
主な戦場は、半島の南半分ナポリ王国、そしてミラノだった。
結果、ミラノ公国はフランスに占領され、ハプスブルグ側を支援したスフォルツァも捕囚の身となり、同時期、故郷フィレンツェからメディチ家も追放されてしまう。
その頃、レオナルドは銅製の巨大な騎馬像を依頼されていたのだが、それどころではなかった。
フランス軍への防禦を固めるため、銅像の材料は大砲に転用され、契約はうやむやになってしまう。
更に、進駐したフランス軍の弓兵が、銅像の型を取る粘土像に矢を射て破壊してしまったのに、レオナルドは、ひどくショックを受けたという。
(中世では、高位の騎士の武器は主に剣であり、弓矢は下級の兵に限られた)
ミラノを離れたレオナルドは、イタリア戦争の余波を受け、各地を転々とすることになる。
こんなレオナルドをリクルートしたのが、教皇軍司令官チェザーレ・ボルジアだった。
そう、カトリック教会も軍隊を持っていた。
古くはゲルマン民族の大移動以後に始まり、近くは神聖ローマ皇帝に王冠を授けた見返りに、帝国がその版図を保証した、ほとんど一国を成す領地があったのだから、軍備は必要だった。
その皇帝すら、フリードリッヒ2世が教皇領に侵攻したりとまったく信用できなかったから、独自の軍隊を組織していたのだ。
付記しておくと、十字軍や三十年戦争など、教皇が原因の一端を担う戦乱も数多くあった、今も昔も、宗教は大きな火種の一つなのだ。
この時期、チェザーレは、父である教皇アレクサンデル6世の命を受け、先のミラノ公ルドヴィーゴの姪に当たるカテリーナ・スフォルツァが治める東岸の都市国家イーモラを侵攻している。
メディチ家が刺客に夫を殺された時の大胆な振舞いから、女丈夫と知られたカテリーナは、復讐のために自ら剣を振り回す一方で、仇であるはずのメディチ家の援助を取り付けた上にその一族と再婚するなど、とかく興味の尽きない人物だ。
イーモラ征服の原因も、彼女が教皇に毒薬を秘めた手紙を送ったからだという。
しかし、毒殺ならボルジア家、なかんずく教皇の娘、チェザーレの異母妹、ルクレツィアが得意にすることろではないのか。
ことの真相は不明ながら、イーモラは陥落。
チェーザレはレオナルドを占領地に派遣、その後の軍事行動に役立てるべく、詳細な地図を作製させている。
1503年に、チェーザレがレオナルドを招聘したのは、絵を描かせるためではない、軍事顧問として、雇い入れたのだ。
前に書いたように、当時の教皇アレクサンデル6世は、教皇軍の増強に腐心していた。
レオナルドにも、ミラノからヴェネツィアに避難した折、フランス軍から海上防衛するサポートを求められていた経緯がある。
チェーザレは、このキャリアを見込んでいたのだ。
発明家・科学研究者としてのレオナルドは、全部で1万数千頁にも上る手稿を遺したと伝えられ、現存するのは5千頁とされている。
鏡に映さないと読み取れない、裏返しの文字で全文が認めたので、何か曰くがありそうだとも、また、出版を意図した原稿だったとも、様々な仮説が立てられた。
数多くのスケッチ素描が添えられ、美術品としても価値を持つ、自作のためのディティール研究、人体解剖図、動植物や鉱物、建築まで、内容は多岐に渡る。
この中に、レオナルドが考案した、兵器の緻密なスケッチも含まれている。
ヘリコプターの元型とされる航空機、馬に引かせた車輌が具えた三枚の長い刃を回転させる珍兵器など、空想の域を出ないものもあるが、中には、当時でも実用化できそうなアイディアもあった。
例えば、ハング・グライダー。
また、8人乗りの裝甲車または戦車は、ギアを駆使した4輪駆動、周囲にぐるりと小窓が開けられていて、ここから連射式の弓か、あるいは機関砲を用いて前後左右を攻撃する兵器だった。
連射式のクロスボウもあった、巨大な歯車の内部に、十文字に組んだ台座に4基の洋弓銃を裝備、その中央に射手が座り、弓を射る。
歯車の裏側に何人かが控え、脚踏みすることで歯を動かし、装置全体を回転させる仕組みで、クロスボウ、または洋弓銃は、ボウガンという商品名で一般に知られる兵器だった。
弓床の先端に弓が交差するように作られた銃式の弓で、矢を裝填し、引き金を引くだけで良く、通常の弓より飛距離が長いものの、構造の制限から矢の弾道は不安定な傾向を持つという。
クロスボウそのものは古代ギリシアから知られていて、「三国志」の諸葛孝明も、それまでの弩(いしゆみ)から元戎(げんじゅう)を改良したとされる。
数本の銃を同時に発射する兵器として、荷車の上に扇状に並べたり、歯車の段に銃を並べた装置も考案した。
後者は、弾丸を連続して装填するシステムで、後代のガトリング式機関銃の先例と見做されている。
これが発明されるのは、1862年だから、3百年以上も前に構想されていたことになる。
チェザーレと出会った翌年、故郷フィレンツェに戻ったレオナルドは、政庁舎の壁画を依頼される。
完成したのが、ミラノとの戦闘を鮮やかに再現したとされ、当時から賞賛が尽きない、人生最大の大作「アンギアーリの戦い」だった。
実は、改築のために失われたとされ、現在は目の当りにすることがかなわない。
ただ、作品の上に別の壁画があるとか、壁が二重になっているとか、こちらも諸説紛々、後代の版画や、ルーベンスによる復元画なら、今でも見ることが可能だ。