戦艦武蔵は、昭和13年3月29日に長崎造船所で起工され、完成、進水は昭和17年8月5日。
準備期間も含めると完成まで何と8年もの歳月を要し、その間信じがたいほどの日本人の叡智と技術、労力が費やされた。
3年半を費やした建造期間中、一般市民はもちろん長崎市民でさえ気づくことのない、「幻の軍艦」として厳重な監視体制で建造工事が行われ、昭和19年10月24日、フィリピンのレイテ作戦参加中にシブヤン海で沈没する運命をたどった。
それから71年たった今年の3月3日、アメリカのマイクロソフト社の共同創業者で投資家でもある、ポール・アレン氏が自己で所有する深海探査船オクトパスを使って、水深1kmの海底に、菊の紋章の艦首、巨大な碇とまぎれもない戦艦武蔵を発見した。
また、ポール氏は無人探査機を駆使して、細部まで生中継で世界に発信。
各テレビ局は、数少ない戦艦武蔵の元乗組員、すなわち生存者にインタビューを行った。
そのうちの一人、中島茂さん、94才は「本当によく見つかり感無量。まだ艦内に取り残された戦友もいる。」と語った。
ポール氏は今後、フィリピン政府との交渉を経て船体を日本に返還したいと言っている。
戦艦武蔵は、戦艦大和と並んで大艦巨砲主義の日本帝国の野望の象徴である。
パナマ運河通行の制限があるアメリカ海軍の40センチ主砲のノースカロライナ型戦艦に比べて、46センチ主砲を備える武蔵は圧倒的に優位とされた。
のちの時代からすれば何故一隻の巨大戦艦のために、無数の人々が至上命令をうけて心血を注いできたのか、戦争という熱に冒された異常な時代といえばそれまでであるが、かつてのピラミッドや大仏建立に蟻のように規則正しく働かされてきた無数の日本人がいたことも忘れてはならない。
また、武蔵は戦艦三隻のうち、初めて民間の長崎造船所で起工された二番艦である。
一番艦は大和は呉海軍工廠で、三番艦信濃は航空母艦に改装され、横須賀海軍工廠で起工された。
そのため、機密保持には厳重な監視体制が取られ、建造の気配を長崎市民の目から遮蔽するために、漁業用の棕櫚(シュロ)を日本中から買占め、すだれのように垂らすという涙ぐましい努力をしている。
最初にその異変に気付いたのは、有明海の海苔養殖に携わる人々であった。
棕櫚は温暖な九州地方に野生しており、漁業用に使われる以外はほとんど用途はないので、棕櫚が不足することは全く理解の及ばないことであった。
棕櫚の原料は払底し続け、長い期間、それは謎とされ、中央官庁までもが悪質な行為として調査に乗り出すほどであった。
また、棕櫚の原料だけではなく、製縄機までもが長崎に送られそれはシートに包まれたまま、三菱重工業株式会社、長崎造船所に吸い込まれていった。
その縄が一体何に使われるのか、ただ所長命令としか知らされなかった。
日常生活の中で何かの需要と供給の関係は平時にあってはバランスが保たれているものであるが、その均衡が破られると、どこかで異常事態が起こっているのである。
この棕櫚とは後で明らかにされるが、戦艦武蔵をすべて覆い尽くす「すだれ」として使われるものなのであった。
その上、ただのすだれではなく、縦方向だけでは中が透けてしまう、という懸念から横方向にもすだれが編まれることになった。
すだれ作りの技師たちは、これが国の最高機密に当たるもので、作業に当たるうえで誓約書を書かされた。
また一人一人の身元調査も行われ、思想、宗教、家庭環境、外国人との接触度など問題のない者たちが採用された。
この時にはただ「二号艦」としか知らされていなかった。
何を尋ねてもすべて機密ということだけで、出張も家族にも内密で技師たちは別々に行動し、列車も別の車両に乗り込むという徹底ぶりで宿泊した旅館さえも、部屋は別々にとり廊下ですれちがっても一言も言葉は交わさなかった。
そして、出張先から図面を持ち帰りようやく仕事に取り掛かったが、途方もない何かを作るということが、舷側に張る甲鉄の厚さが40センチをこえていた。
しかし、作業はそれぞれがジグソーパズルに取り組むかのように、全体像など一切見えてこない工程のままであった。
その建造の目的自体が何のためか分からなかったところに、無駄の象徴として語られる武蔵の悲しさがあるのかもしれない。
造船所のある長崎港は地形上どこからも造船所が見渡せるため、眺めの良いイギリス、アメリカ領事館に対しては建物の前に倉庫を建て遮蔽した。
同様にグラバー邸や香港上海銀行も八方手をつくして借り上げ、市民は造船所に目を向けるだけで特高に連行され、見張りの警官から厳重に罰せられるほどであった。
また、長崎の名物行事であるペーロンであるが、武蔵建造中は警察から港内を避けるコースを命じられ、その華やかさも半減した。
戦艦武蔵は基準排水量6万4000トン、46センチ主砲三連装三基を備え、日本海軍の最高傑作の超弩級戦艦である。
世界一の巨艦を持つことへの疑問も不明なまま、至上命令として建造せざるをえなかった愚かさの一端が、進水式の状況から推測される。
進水式では船体が見えるのを防ぐため、住民には禁足令を出し家に閉じ込め、巨大な武蔵の船体を滑らせる進水台の作成は技術的に非常に困難を極めた。
ただただ海軍の機密保持と武蔵の完成だけが一大事であった。
また、長崎市民にとっては今でも武蔵は永遠の謎であり、その建造に携わった技師たちも、自分の関わった一部分しか知ることはなく完成後の全体図さえ理解不能、という闇につつまれたままである。
昭和19年4月23日、ラバウルから飛行機がひそかに水上基地に着水し、海上をカッターが滑り、数名の士官がひっそりと武蔵艦内に乗り込んだが、その時白い布に包まれた木箱も一緒であった。
それは山本五十六聯合艦隊司令長官の遺骨であった。
その死はしばらく伏せられたが、ドアのすきまから線香の匂いが漂い、長官室に隣接した作戦会議室に祭壇がおかれたといわれている。
また、負傷した宇垣纏参謀長の姿も目撃され、艦内には疑惑が広がっていったという。
ようやく1か月ほどして一般乗組員に山本長官の戦死が伝えられた。
そして通夜の準備も始まり、大島沖に差し掛かった頃、搭載されていた偵察機が横須賀航空基地に向けて、カタパルトから飛び立った。
このカタパルトが今回のポール氏の無人探査機によってその残骸が画像で映し出された。
続いて艦内で告別式が執り行われ、山本長官の遺骨は、接舷した駆逐艦夕雲によって運ばれた。
武蔵はこうして山本長官の遺骨送還の任務を果たし、乗組員には賜暇休暇を与えた。
それからまた1か月後、武蔵に天皇行幸の通知が秘密裏に行われ、乗組員たちは上陸を禁じられ、艦内を清掃、消毒、検便が実施される。
武蔵はしばらく横須賀に停泊し、外装を塗り替え燃料を補給して呉に向けて出発、呉工廠から長浜沖に停泊したのを最後に日本から離れ、再びトラックに向けて出発した。
吉村明氏の作品「戦艦武蔵」のあとがきに、雨戸の隙間から監視の目を盗み、長崎港を出発する武蔵の姿を見た、という老いた漁師の話がある。
戦争から20年以上たったその時でも、「今の話はだれにも言わないでくれ。おれが言ったなんてわかるとまずいから。」とそれを語る目はおびえて、吉村氏に話したことをしきりに後悔するようだったという。
吉村氏は、「戦艦武蔵」の資料として、30冊にも及ぶ長崎造船所の日誌が、終戦後の米軍進駐前に焼却処分されるはずのところ、ある技師が秘蔵していたものを借り受けて執筆した。
それが当時の最高機密であり、「戦艦武蔵」の全貌が明らかになる唯一の資料であり、10年かけることを覚悟で始めたという。