第二次世界大戦中期、ナチスドイツはソヴィエト連邦に対して先制攻撃をしかけ、機甲部隊を主軸とした電撃戦を仕掛けました。
この攻勢においてナチスドイツ側で用いられた戦車の主力は、三号戦車や四号戦車でした。
問題点は色々と存在したこの戦車達ですが、実戦の中で運用ノウハウを蓄積され、歴戦の戦車兵が搭乗するドイツ機甲部隊は既存のソ連戦車を圧倒し、瞬く間に侵攻していきます。
当時、ソ連で運用されていたBT戦車は、速力に優れているものの装甲と火力の不足が深刻で、ドイツの三号戦車と四号戦車に対抗するには力不足でした。
ソ連の新型戦車
ソ連首脳部はこれに対し、同等以上の性能の、しかも生産性に優れた新型戦車の開発を求めます。
これに応えて登場するのが、最新の傾斜装甲と強力で取り回しに優れる火砲、泥濘地でも性能を発揮する足周りを備えたT-34でした。
このT-34の性能は見事という他なく、傾斜装甲は三号戦車の砲撃をほぼ無力化し、搭載された76.2ミリ砲は、逆に三号戦車の装甲を正面から楽に貫通可能、しかも整備性と生産性に優れ、故障もしにくいという非の打ち所がない優秀な砲でした。
四号戦車相手となると楽勝とは行きませんが、それでも性能的には優位を保っていたと言えます。
そんな恐るべき性能でありながら、生産性も高く、ソ連の基礎工業力の高さを差し引いても恐ろしい台数が生産され続けます。
初期型だけで約3万5千輛が生産され、最も工業力的に厳しい独ソ戦の初期ですら、甚大な損害を上回る数の戦車が、前線へと送り出されていきます。
この生産性の高さにより、最終的にはドイツ装甲部隊を数で押し切ることに成功します。
どれだけ5号戦車パンターや、6号戦車ティーゲルが強力でも、10倍の数で囲まれればどうにもならないというのが歴史の証明したところです。
高い性能とバランスの良さ、生産性の高さと言うスペック面で全て高いレベルを実現したT-34でしたが、やはりどこかにしわ寄せがくるもので、残念な点もいくつか存在しました。
T-34戦車の欠点
その代表格が「居住性」と「操作性」です。
まず、T-34の装甲は圧延鋼材を溶接したものが基本だったのですが、この溶接に所々いい加減なところがあったせいで、雨漏りに見舞われる車両が結構有ったそうです。
もしくは、浅い水中に入った際に浸水したりとか。
これは、ドイツの先制攻撃によって、大規模な工場疎開をする羽目になったとか、天然ゴムが足りなくてゴムパッキンなどを十分に使えない時期が有った、などの理由が大きいのですが、戦車の中で水の汲みだしや雨漏り受けをしなくてはいけないというのは、勘弁して欲しいところです。
また、搭乗員が不快なだけならまだ耐えようも有りますが、水漏れと雨漏りが電気系統のトラブルや、弾薬のトラブルなども誘発したため、「雨漏りが原因で砲撃できません」という事も起きたそうです。
また、この装甲は非常に優秀なものではあったのですが、実地の生産レベルでの問題も抱えていました。
敵弾を貫通させず、弾くことに重きを置いたT-34の装甲は、圧延鋼材に硬化処理を施したものが使われました。
最大で495HBにも達する非常に高い硬度に仕上げられた装甲は、確かに敵弾をよく弾いたのですが、同時に「硬すぎて割れる」という問題を発生させます。
例えば徹甲弾でなく榴弾などを食らった場合、装甲は貫通されずに中に爆風を通さないのですが、受けた衝撃そのものが消えずに装甲板内部を伝わり、内側の表面を剥離させます。
この剥離片は、ものすごい勢いではじけ飛びますので、装甲近くに顔を置いている運転手などはひどい目に遭うというわけです。
本来は、ここまで靭性の低い装甲になる予定では無かったそうなのですが、対独戦初期は鋼鉄に添加して靭性を高める、ニッケルが不足したなどの事情が加わり、「内側で炸裂する装甲板」が出来上がってしまいました。
また、基礎的な設計段階でも苦しい部分が存在しました。
設計の問題
T-34は当時最新の設計思想である、傾斜装甲を取り入れた車体装甲となっているのですが、同じ投影面積で装甲板を斜めにした場合、中の容積が減るのを避ける事ができません。
結果、T-34の内部は非常に狭苦しいものとなり、居住性は悪化。
長距離を戦車で、行軍するときのきつさは特筆モノでした。
ガタガタ揺れて景色も見えず、雨漏りするエコノミー席に丸2日詰められて耐えると言ったら想像できるでしょうか。
装甲とは別の部分ですが、ターレットリングもかなり狭く、広々設計のアメリカ人に「どうやって兵士を詰めてたんだ」と言わしめるほどでした。
実際、その影響で初期型T-34は砲塔内に2人しか入れず、車長が指揮に照準、射撃と一人3役こなす羽目に。
当然、そんなマルチタスクを高い精度でこなすのは不可能というもので、T-34の砲撃速度などは、カタログスペックから大分落ちたものとなりましたし、指揮も十全とは言いがたいものになりました。
これはさすがにまずいし、そもそもこれ以上大型の砲が詰めない、ということで後に拡張され、砲塔内3人が作業できるようになりますが、初期型乗員はほんとうに大変だったようです。
また、戦車はもともと視界が悪いものですが、初期型のT-34は更にそれに追い討ちをかける問題を持っていました。
初期のT-34にはコマンダーキューポラ(砲塔の上のたんこぶみたいな部分です)が無かったため、車長は戦車用潜望鏡か、直接顔を出して対象を目視する必要があったのですが、この潜望鏡のガラス品質がかなり悪く、気泡が入ってたり曇っていたりと実用に辛いものでした。
しょうがないので直接顔を出すと、狙撃されるというパターンが多かったとか。
そもそも砲塔のハッチも非常に重く、負傷していると開けるのが困難なほど。
先程述べた砲塔内の狭さもあって、車内からの脱出に平均11秒かかっていたというからたまりません。
結果として、通信機が装備されるまでのT-34は、戦術理解のマズさもあって敵から一方的に見つかって一方的に撃たれるという展開が多々発生、スペックの割に大きな損害を重ねます。
この辺りも後に改良されているところを見ると、本当に深刻な問題だったのでしょう。
使いにくさの羅列はまだ続きます。
最悪の操作性
T-34では整備性と生産性に重点を置いて「乾式クラッチ・ブレーキ式操向装置」を採用していたのですが、この操作レバー、やたらと重く固くて操作性が最悪でした。
基本的に力のあるロシア人をして、片腕では操作できず足まで使って押していたというから大変さが想像できます。
長距離行軍するときは、あまり仕事のない通信手が手伝ってやるのもよくある光景だったそうで、操縦だけで体重が2~3kg減るという話だったとか。
バックさせるときは更に固かったようで、ハンマーで殴って切り替えていたという証言があるほど。
そんな固くて重い操作のわりにクラッチそのものは繊細で、しっかりタイミングを見ずに操作するとクラッチが破損することもしばしばだったとか。
こういう要素が合わさって、T-34で繊細な機動をするというのは無理な注文だったようです。
こうした、「できれば乗りたくない」と万人が口をそろえて言いそうな居住性と操作性のT-34でしたが、それらのデメリットを勘案してもなお、非常に優秀な戦車であったことは歴史が証明しています。
特に、独ソ戦初期を乗り越え、工業力的にも余裕ができて実戦での経験値を蓄積して改良されたT-34-85(85ミリ砲搭載型T-34ということです)は戦後も各地で使い続けられるほどでした。
特にコストパフォーマンスに優れるため、アフリカや東ヨーロッパ、アジア、中東とあらゆる紛争で顔を見かける戦車となります。
やはり兵器というのは、乗り心地よりもコストパフォーマンスということかもしれませんね。
サハリンのコルサコフへゆき戦勝記念広場でT-34-85を見てきました。それとの比較のために日本軍の軽戦車が近くに置いてありましたが、正しく司馬遼太郎の嘆いていた通りで、船に戻ったあとたまたま同じテーブルに座ったものと余りにも大きな”差”について語り合いました。