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ゼロ戦はなぜ世界最強と呼ばれたのか

一般にゼロ戦と呼ばれている、旧日本海軍の零式艦上戦闘機。

日本を代表する戦闘機であり、テレビゲームは全てファミコンと言ってしまうオジサン世代のように、軍用機であれば何でもゼロ戦と言ってしまう人が多い、名実ともに日本を代表する戦闘機です。

ゼロ戦に関しては様々な評価が為されており、評価をする人の立ち位置によっては駄作とも酷評され、また世界最強の戦闘機との称号が与えられることもあるなど、兵器や軍事に関する近現代史に詳しくない一般の人にとっては、漠然と「なんとなく有名な兵器」という程度の認識しかないものかもしれません。

ではそのゼロ戦。

なぜこれほどまでに日本人の心に焼きつき、日本を代表する戦闘機として未だに「伝説」となっているのでしょうか。

ゼロ戦が産まれた時代

ゼロ戦が初めて日本海軍に制式採用(装備として正式に採用)されたのは皇紀2600年こと。

昭和15年で、西暦1940年のこととなります。

By: Cliff

皇紀とは、日本の初代天皇とされる神武天皇が即位した年を皇紀元年とする暦の数え方で、戦前は今の西暦と同様の役割を持ち、広く日本に普及していました。

海軍では、兵器を制式採用した年の下2桁を航空機の名称とする慣例があったために、皇紀2600年の採用であることから、零式艦上戦闘機、すなわち零式と命名されました。

なお、皇紀2599年に制式採用された、日本を代表する爆撃機の名称は、九九式艦上爆撃機と言います。

この時代はまさに、日本は対米英との戦争に踏み切るのか、和平を模索するのかという緊迫した時代。

その一方で、中国大陸では日本は中華民国と日中戦争で激しい戦争を繰り広げている最中であり、中華民国は米英ソ連などから武器や兵器、弾薬や将校による戦争指導の支援を受けるなどしていたことから日本は大変な苦戦を強いられていました。

特に中国内陸部への爆撃任務を行っていた九六式陸上攻撃機は、ゼロ戦の誕生以前、日本海軍には航続距離の短い戦闘機しか存在しなかったことから護衛戦闘機無しで中国大陸奥地まで爆撃任務につくことが多く、結果として撃墜されることが多くなるなど、被害を累積させて行きました。

そのような時、日本海軍から三菱の堀越二郎氏に出されたのが、新型戦闘機の開発要請。

すなわち、格闘戦(戦闘機同士の戦闘)に強い強力な武装、日本から離陸して中国大陸の奥地まで爆撃機の護衛任務につき、しかも帰還できる長大な航続距離、旋回性能などの常識はずれな運動性能などを要求する、当時の日本では実現不可能とも思われた戦闘機の開発要請です。

当然のことながら、強力な武器を搭載すれば機体は重くなり航続距離と運動性能が犠牲になります。

逆に航続距離や運動性能を高めるためには機体を軽くする必要があるため、重武装など詰めるはずがありません。

しかも当時、日本には強力な航空機用のエンジンがなく、欧米の航空機に比べエンジンの出力は技術的に極めて劣っており、欧米の戦闘機と互角に戦うだけの出力も速度も機体できないことから、そもそも格闘戦で敵戦闘機を一撃必殺にする、重武装を積むというだけでも無理筋の話でした。

なお、日本の航空機エンジンの劣勢は結局戦後まで解消すること無く、21世紀の現在においても日本は航空機エンジンの技術的劣位は解消しておらず、初飛行で話題になったMRJ(三菱・リージョナル・ジェット)も、エンジンには米P&W(プラット・アンド・ホイットニー)社のエンジンを搭載しています。

堀越技師はどう応えたか

このような日本海軍からの無理筋な要請に、三菱の主任技師だった堀越二郎氏はどのように応えたのでしょうか。

それは、「全ての防御と耐久性を犠牲にすること」でした。

すなわち、出力的に劣ったエンジンで航続距離を叩き出すために機体重量を極限まで軽くすること。

これはもちろん運動性能の向上とイコールになります。

そして機体を極限まで軽くした分、敵の軍用機を一撃必殺にできる強力な重武装も搭載できるようにすること。

このような答えを用意して、新型戦闘機の設計・開発に取り組みました。

そしてこの回答から産まれた戦闘機が「ゼロ戦」。

当然のことながら、敵の攻撃に対する防弾設備など一切ありません。

それどころか、戦闘機の骨組みに至るまで穴を開け機体の軽量化をg単位で追求した結果、戦闘機本体の耐久性も非常に脆弱なものとなり、水平方向の運動性能(旋回)は極めて優秀なものでした。

しかし、垂直方向(上昇・降下)の荷重に耐えられない機体となり、急降下時には主翼がもげるなどしたため、敵との戦闘中であっても、急降下による攻撃・離脱が出来ない機体となりました。

もちろん、防弾性能がないことから敵の機銃弾が主翼をかすめただけでも火だるまとなり、またパイロットの座席背後にすら防弾板もないため、一度敵に背後を取られたら最後、確実に撃墜される極めて極端なスペックの機体となりました。

某人気マンガの敵役がつぶやき有名になったセリフ、「(あた)らなければどうということはない」という、ある意味で誰もやらなかった恐怖の考えを何のためらいもなく貫いた思想。

その姿はまるで、切れ味鋭い一撃必殺の日本刀一本だけを片手に、もろ肌を見せながら敵の集団に突っ込むような、時代劇の剣客のような思想の戦闘機で、「日本的美意識」が生み出したとも言える、他人事であれば美しく思えるものの、我が事として捉えれば恐怖が先走るような、非常な決意のもとに産まれた戦闘機でした。

ゼロ戦の栄華と壊滅

このようにして産まれた日本を代表する戦闘機、「ゼロ戦」。

その初陣はとても華々しいもので、1940年中国大陸における空中戦でした。

中国大陸上空を飛行していた、編隊飛行中のゼロ戦13機。

そこに中国軍のソ連製戦闘機、I-15、I-16が襲いかかります。

陸上戦闘以上に数がモノを言う当時の空中戦。

日本の戦闘機に比べ倍以上の数であった中国軍機はかさにかかってゼロ戦に襲いかかりました。

当時の常識では、日本側の惨敗が予想される極めて劣勢の状況でしたが、結果としてゼロ戦の13機編隊は、中国軍機27機を全機撃墜。

しかも日本側には被害は皆無という奇跡的な戦果を収めました。

練度の高さもさることながら、ゼロ戦という日本的思想が結実した、信じがたい戦果を上げることとなったのです。

このような中国大陸での信じがたい戦果を、欧米は当初一切信用せず、日本にそんな戦闘機が造れるわけがないと、情報を軽視したことから対応策が遅れ、そのまま1941年、昭和16年の太平洋戦争の開戦まで、米軍を始めとした連合国側は、これといった対抗策を採ること無く開戦を迎える失策をしでかすこととなります。

そして太平洋戦争の回線劈頭。

熟練パイロットの神業のような操縦技量にも支えられた日本海軍のゼロ戦は連合国側の戦闘機、爆撃機、攻撃機を次々と撃墜し、「ゼロショック」で世界を震撼させることとなりました。

特に、日本軍と正面からあたることになった米軍にはそのショックが大きく、「ゼロと低気圧に遭遇をした場合、命令に反してでも逃げて良い」という通達が為されたという逸話を残しています。

しかしながら、その状況も長くは続きませんでした。

すなわち、防御性能が低いということは、まぐれの一発が命中するだけでもベテラン搭乗員が命を失うという、何にも代えがたい技量豊富なパイロットを失うという現実。

また、どれほど運動能力に優れていても、ゼロ戦は急降下が出来ない脆弱さを持っていることが判明してしまえば、ゼロ戦に遭遇すれば急降下で逃げてしまえばいいだけであり、次第にゼロ戦は全く戦果を上げることができなくなりました。

それどころかパワーに勝る米軍戦闘機に格闘戦すら相手にしてもらえない「一撃離脱」戦法の導入により、開戦から1年後には、全く戦果を挙げられない状況に追い込まれ、やがて旧式化し米軍の「スコア稼ぎ」の的になっていきます。

ゼロ戦が日本人に残したもの

一方で、米軍の戦闘機開発思想は当時、どうのようになっていたのでしょうか。

当時、日本の兵器開発思想に対して、アメリカ軍が最も大事にしたものは、パイロットの命でした。

それは決して安っぽいヒューマニズムや人情などという非合理的な思想の結果ではなく、国家同士の全面戦争において、兵器は簡単に得られるが熟練パイロットは一朝一夕には得られないという結論に達していた米軍にとって極めて合理的な帰結であり、敵の攻撃の1回や2回で熟練パイロットが死ぬのは割にあわないと考えたことに因るものです。

そして多くの人が知るように、熟練パイロットの多くを失ったことと呼応するように、日本海軍は攻勢から守勢に転じ、やがて1944年、終戦に先立つこと1年前のレイテ沖海戦において、日本海軍は組織として完全に壊滅しました。

物量や兵器の性能、あるいは組織力といった総合力でも劣っている戦いを、個人の属人的な努力や能力で補おうとする思想。

そのような日本人の文化や思想の結実して産まれたゼロ戦は、超人的な先人の活躍で世界を代表する兵器として名を残しましたが、それは属人的であったがゆえに、極めて短期間のうちに、まるで春の陽の桜のように、とても短期間のうちに歴史上から姿を消しました。

このような儚い強さと美しさを好む日本人の美意識に合致したゼロ戦は、結果として今でも日本人に愛される戦闘機となったような気がしますが、そこから得られる教訓を正しく抽出すること。

それこそが、今を生きる日本人にとって、「ゼロ戦」が残してくれたものなのかもしれません。

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