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台湾沖海戦の報道問題

昭和19年(1944)10月、大本営陸海軍部発表に、日本中が歓喜の声を上げた。

台湾沖での戦闘で帝国海軍が、敵航空母艦撃沈11隻、撃破8隻と大きな戦果を上げたと、報道されたのだ。

数日後には、祝勝の国民大会が開かれ、小磯国昭首相は意気揚々とこの大戦果を報告している。

実はこれ、まったくのウソだったのだ。

現実離れした作戦

昭和17年(1942)6月、ミッドウェイ海戦で、帝国海軍は空母4隻を喪失、昭和19年6月には、マリアナ沖海戦で更に敗北を重ねた。

この結果、日本の生命線だった、南方からの石油ルートが危機に見舞われる。

この劣勢を挽回すべく立案されたのが、九州の地上基地からの攻撃機による魚雷で、米国海軍・エセックス級空母10隻を一挙に殲滅させる計画だ。

これまで、帝国海軍が沈めた米空母は4隻に過ぎなかったから、現実離れした、雲をつかむような作戦としか思えない。

しかし、無理は承知の上で、一期回生の大勝負に賭けるしかないほど、日本は追い詰められていたのだった。

同じ10月には沖縄空襲が始まり、台湾の基地まで敵の攻撃を受けていた。

名付けて、T作戦。

台風に乗じて攻撃するところから、タイフーンの頭文字を取って、こう呼んだ。

または夜間攻撃を敢行、索敵機が照明弾を投じて、これを目がけて魚雷攻撃するという計画だった。

大本営は鹿屋に基地を設置、海軍のみならず、陸軍からもパイロットが集められ、海軍の指揮下に入った。

完敗だった台湾沖海戦

最初の攻撃では、悪天候が原因で、索敵機の敵艦探知からはかばかしくなく、攻撃機約100機のうち、ほぼ半分が未帰還という大損害。

2回目以降は夕方の薄暮攻撃に変更されたが、今度は迎撃機の攻撃にさらされる悲惨なものだった。

各地の航空機を300機集めての3回目の攻撃も、200機が未帰還。

しかし、肝腎の米艦隊の損傷はほとんど無いにも等しく、作戦は完全に失敗する。

ところが、海軍軍令部は、当時の小磯首相はおろか、陸軍にすら真相を伝えなかったのだ。

この時、戦果は、各攻撃機の機長からの報告をもとに鹿屋基地司令部が算定、作戦司令部である、帝都の大本営に伝えるシステムだった。

空母とされる艦船に雷撃命中、他に火柱を確認という機長の報告が、空母1隻撃沈、空母1隻撃破といった感じで拡大解釈が進んだらしい。

実際、攻撃中の、司令部への攻撃機からの打電はほとんど無かったという。

すべてが、事後の報告に終始したらしいのだ。

未熟なパイロットによる作戦

実は、それまでの戦闘で多くのパイロットを失っていたため、経験不足の未熟なパイロットが半数近くいたという。

これが初陣というパイロットも少なくなかったため、命からがら帰還するのが精一杯で、敵艦に与えた損害を正確に確認する余裕はなかったと見て良い。

悲しいことに、味方が大損害を受けた分、敵の被害も甚大であるに違いないと信じ切った作戦の続行が、更なる航空機の損耗を呼んだのだ。

敵に撃墜されたのは攻撃機ばかりか、偵察機も数多く、初回攻撃では、厚い雨雲に阻まれて敵艦を発見できず、燃料が尽きて自爆する偵察機も少なくなかったという。

昭和16年(1941)の真珠湾攻撃では、航空写真をもとに、実際の戦果をきちんと検討している。

本来なら、このような手続きを踏み、大本営に情報を上げなければならなかったのだ。

制空権を確保していない台湾沖海戦では、まったく果たせなかった。

大本営のタブー

実は作戦直後、鹿屋司令部からマニラに転出した堀栄三陸軍少佐が、この大戦果に疑いを持ち、大本営の直属上司に、注意を促す電文を打電していた。

しかし、大本営は握りつぶしてしまう

一つは、大勝利に沸く周囲に気圧されて、否定的意見を口にできる雰囲気ではなかったようだ。

陸軍参謀本部と海軍軍令部で構成される大本営では、海軍の戦果に陸軍が疑問を呈するのもタブーだった。

帝国陸海両軍は協力すると同時に、互いに相手と競争する立場にあったのだ。

T作戦決行から数日後、海軍軍令部に、米国艦隊が台湾高雄沖を無傷で航行中との打電が入り、秘かに戦果の再検討を開始するが、時、すでに遅し。

何と、敵の実情さえも陸軍には知らせず、一般国民や報道機関に向けた大本営発表での総合戦果は、今までと変わらない大戦果のままだった。

今まで、自軍の損害を小さく見せかけることはあったが、敵側について過剰に伝えたことはなかった。

さらなる悲劇

この後、情報隠蔽は、更なる悲劇を引き起こす。

10月20日、米軍がフィリピン諸島東中部のレイテ島に上陸を開始。

巡洋艦数隻が多くの輸送艦と共に接近との報告を受けた陸軍大本営は、千載一遇のチャンスと考えた。

台湾沖での虚偽報告を真に受けていた陸軍は、空母なしの無謀な作戦を展開していると信じ切っていたのだ。

早速、北部ルソン島から陸軍部隊を移送、一大決戦を画策する。

陸海両軍の合同作戦会議が開かれたが、この席上でもなお、海軍側から真実の情報開示は行われなかった。

この決定に対し、ルソンの陸軍第十四方面司令官・山下奉文大将は強硬に反対。

山下大将のもとには、台湾沖海戦の戦果に疑問を呈した、先の堀少佐による報告が伝えられていたからだ。

ところが、上官の南方総軍総司令官・寺内寿一元帥はこの具申を却下。

功を焦った陸軍は、もはや冷静な判断がかなわなかったようでもある。

不幸中の幸い、米軍からの空襲を受けずに、陸軍部隊の一部はレイテ島までたどり着くのに成功。

米国空母部隊が海上に姿を見せたのは、その直後だったという。

日本の輸送船は次々と沈められ、補給路を断たれた陸軍部隊はレイテ島に孤立。

9万の兵士のうち、帰らぬ英霊になり果てた烈士は実に7万8千にも上ったという。

連合艦隊の潰滅

当の海軍も、艦船に甚大な損耗を出した。

本来は、敵輸送艦隊を撃破、一方で輸送艦隊により、兵力と物資の補給を断行する計画だったが、攻撃にも失敗した上、味方の輸送部隊も潰滅する大敗だった。

帝国海軍が誇る二番艦・武蔵をはじめ、扶桑、山城の2戦艦をはじめ、瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田といった空母、愛宕、摩耶以下の巡洋艦や、秋月や朝雲などの駆逐艦が失われたのだ。

海上に投げ出された将兵も、米軍の救出を頑として拒否、次々と自刃したという。

レイテ沖海戦で、連合艦隊の主力は潰滅したと考えてもよい。

敵である連合軍との戦力の強弱は、今や決定的になった。

しかも、既にイタリアが脱落していた枢軸国側では、残るドイツも敗戦が濃厚だったのだ。

実は、このフィリピンでの勝利をもって、連合軍との講和を引き出すべきとの意見も一部には出始めていた。

直後の、大本営政府連絡会議から改称された最高戦争指導会議では、対ソ連、対重慶・国民党政権との和平を考慮すべきとの結論付けている。

神風特別攻撃隊による特攻作戦が始まったレイテ沖海戦では、また、戦艦が初めて、レーダー射撃を実現している点でも、注目されるべきだろう。

但し、味方艦の電波が干渉したために妨害を受けた例が多く報告され、性能はまだ安定していなかったとする、厳しい結果だったようだ。

中には大和で、かなりの精度が記録されていたり、金剛では敵の電測射撃大差ない効果が得られたとする、異論ももちろんあった。

この期に及んでもなお、大本営発表は、敵空母8隻撃沈、7隻撃破と、偽りの戦果を堂々と伝えていた。

現在に生きる大本営発表

最近、マスコミの誤報問題がかまびすしいが、これも根拠のない伝聞を、あたかも真相のように安易に広めたのが原因だ。

内部のチェックはまったく行き届いていない、往年の大本営と、同じ過ちを犯している。

依然として、「大本営発表」の危険は尽きないことを、21世紀の現在でも肝に銘じておく必要があろう。

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