和平派の成立
日本側では、開戦後から既に早期和平を考える人々は個人レベルには存在し、政治家では近衛文麿や岡田啓介といった総理大臣経験者のいわゆる重臣、皇族の高松宮宣仁親王などが代表的であったが、日本が破竹の快進撃を続ける時期に早期和平を唱えることは難しく、連携して流れを形成するという具合にはならなかった。
具体的に和平への動きとして連携が始まったのは、ガダルカナル戦後の頃ではないかと考えられている。
海軍では米内光政・井上成美・高木惣吉らが和平への極秘活動を開始し、京都学派と呼ばれる京都大学の学者集団に、具体的な戦争収拾策の検討を依頼している。
先に挙げた近衛文麿や岡田啓介ら重臣も活動を積極化させ、吉田茂ら有力官僚のほか、中野正剛ら有力政治家、陸軍からも皇族の東久邇宮稔彦親王や参謀本部の酒井鎬次、民間では頭山満や三上卓らが密かに意見交換を行い、早期和平へと向けた動きを水面下で進めていった。
当時首相の東条英機が主戦派であるため、和平への動きは表面化することがなく、逆に和平への動きを察知した東条は封じ込めようと考え、まずは中野正剛が逮捕され獄死する。
しかし水面下で東条暗殺の動きまで起きたほか、最終決戦の意気込みで挑んだマリアナ沖海戦で完敗した海軍も、海軍OBでもある岡田啓介・米内光政の働きもあり上層部が団結して和平への動きに転じることになった。
東条内閣が倒れて小磯内閣が成立すると、陸軍上層部にも和平への動きが芽生え、新たに参謀総長となった梅津美次郎は、杉山元教育総監と協力して陸軍大臣として、内閣に影響力を維持しようとする東条を退け、少しずつではあるが東条を支持する陸軍統制派の軍人を排除するなど、和平に向けた態勢を地道に固めていった。
和平工作の開始
具体的に和平へ抜けた秘密工作が開始されるのは、汪兆銘政府の要職でありながら蒋介石ら重慶国民政府との人脈も持つ、繆斌(みょうひん)の来日により始まった重慶工作(繆斌工作)である。
重慶国民政府の代理人として来日した繆斌を介して日中の単独講和を実現させ、それを機に連合国全体との講和に持ち込もうとするもので、首相の小磯国昭や情報局総裁の緒方竹虎らが熱心に進めたが、外務大臣の重光葵や陸軍の反対により交渉実現はされず、逆に重慶工作の責任もあり昭和20年4月に小磯内閣は倒れ、和平派の鈴木貫太郎による内閣が成立する。
重光や陸軍は、繆斌は中国情報部のエージェントと睨んでおり、実際には重慶国民政府の代理人などではないとして反対したためとされ、繆斌の立ち位置は不明のままで諸説あり、現在でも謎とされている。
欧州を舞台にしたアメリカとの極秘和平交渉も試みられ、小磯内閣末期の昭和20年3月には、アメリカのスウェーデン公使であるバッゲが、朝日新聞社の鈴木常務を通じて日本側に極秘和平交渉を打診した。
重慶工作と違い確実に信頼できるルートからの打診であったため、外務大臣の重光はこちらのバッゲ工作に傾注を試みることとなった。
軍部も独自ルートでの和平の試みを行い、5月には海軍がスイスでアメリカ戦略情報局のダレスとの和平交渉を開始している。
陸軍はスウェーデン駐在武官の小野寺少将を中心に、アメリカスタンダード石油のスウェーデン代理店経由で交渉を試み、スウェーデン国王の正式な仲介を取り付けられそうなところまで交渉を進展させた。
アメリカの動向
一方のアメリカ側はマリアナ沖海戦で勝利し、本格的に日本への勝利への目端がついてきたが、しかしながら日本をどのように降伏させて終戦とするか、その方針はアメリカ国内で迷走を続けていたのはあまり知られていない。
アメリカ政府内には、大きく分けてハードピース派とソフトピース派の2つの派閥が、日本の終戦処理を巡って激しい政治闘争を繰り広げていた。
ハードピース派は本土決戦に勝利しての無条件降伏のみを目指す、対ドイツ戦と同様の勝利を目指したいわゆる強硬派であり、ソフトピース派はアメリカ軍の犠牲を伴う本土決戦を避け、無条件降伏にはこだわらず、交渉により日本から降伏を引き出しての早期和平を目指した、いわゆる穏健派である。
ハードピース派は日米交渉の担当者であったハル国務長官とアメリカ陸軍の一部を主とし、ソフトピース派はグルー元駐日大使と、日本本土決戦までやる必要はないと考えていたアメリカ海軍を主としていたとされる。
日本の陸海軍の仲の悪さは有名だが、アメリカ陸海軍も大戦時は対立していた構図なのも興味深い。
大統領のルーズヴェルトの方針はハードピースなのかソフトピースなのかは、資料がないため不明であるが、ハードピース派のハル国務長官の事実上の後任として、ソフトピース派のグルーに国務次官ならびに国務長官代理を任命する人事(正式な国務長官であるステティニアヌスが、国連設立準備で国務長官職務を遂行できないため代行)を断行していることや、統合参謀本部議長や海軍の承認による、米戦時情報局の極秘作戦として行われた、ソフトピースの意向を日本に通達する対日本向け放送、また前述したバッゲ工作の開始などから、対外的には無条件降伏を要求するハードピース路線を標榜しつつも、水面下ではソフトピースを目指して着々と手を打っていたとする説が濃厚である。
しかし、ルーズヴェルトは日本をいかに降伏へ導くかについてのロードマップの示唆や、トルーマンへの方針引き継ぎを行うこともなく昭和20年4月に急死してしまい、副大統領のトルーマンにも、日本降伏についての指針は示されないままとなってしまった。
そのため、代わって大統領に就任したトルーマンは、額面通りに対外的にはハードピースを目指していくことになり、アメリカは終戦へ向けた青写真を描くことができず、足並みが揃わぬまま戦争を継続していくことになる。
日本が早く降伏していればという意見もよく聞かれるが、アメリカ政府の方針がハードピースかソフトピースかで方針が固まっておらず紛糾している国内事情を見ると、日本側の都合だけで終戦に持ち込むことは難しかった事情もあったのである。
終戦への道のり
鈴木貫太郎内閣は明確に和平を目指していく内閣として位置づけられたが、その道のりは険しいものであった。
前述のアメリカ側の足並みが揃わないことのほか、陸海軍の上層部は和平を目指していても現場は主戦論であり、また実際の戦況を知らない国民世論も主戦論であったため、ある日突然に降伏しても現場や国民が大きな衝撃を受けることは間違いなく、どのような事態になるか予想ができない状態であった。
そのため、まずは現場と国民世論を敗戦やむなしという方向へと導くため、アメリカに大打撃を与えてのいわゆる「一撃講和」の奇跡に微かな期待をかけつつも、実際には決戦により戦力を消耗させていく方法が採られた。
とりわけ海軍は沖縄戦を最後の戦いと位置づけ、燃料不足から全戦艦の出撃こそ実現しなかったが、大和級を出撃させ航空特攻作戦も多用した。
航空特攻はアメリカ側の対空防御火力が強すぎるため採られたのが戦術的な理由とされるが、単純に戦術上の都合だけではない事情も見え隠れしているようである。
また、重光に代わり外務大臣となった東郷茂徳は、6月に和平交渉を対ソ連交渉に一本化することに決め、バッゲ工作・ダレス工作・小野寺工作のそれぞれの対アメリカ極秘交渉を全て打ち切った。
ソ連は既にヤルタ会談で対日参戦を決めており、日本側もその兆候を掴んでいたとされ、外交上の失策とされるが、その真意は不明である。
対ソ交渉による和平は実現の見込みはなかったが、ソ連から日本が秘密裏にではなく正式に終戦を模索していることはアメリカに伝えられ、それに伴いアメリカ側も本格的に和平へ向けて動き出していくことになる。
ポツダム宣言の草案は国務次官のグルーが考案し、その内容は天皇を中心とした立憲君主制も認める降伏であったが、ハードピース派の猛反対によりその箇所は削除された形で発信された。
日本側は紆余曲折を経て天皇の大権に変更を加えない、という条件での受諾を打診したが、これが再びアメリカ政府内では受諾するか否かでハードピース派とソフトピース派が紛糾した。
結局、戦後の占領統治をスムーズに行うためには天皇制が必須とのソフトピース派の意見が通り、制限下ながら天皇制は残すとしたバーンズ回答を発信。
日本側もこれに対し方針が紛糾したが、最終的には受け入れが決まり終戦へと至るのである。