海軍の兵器
第二次大戦初期の日本軍の軍備は、世界的にみても欧米列強と比較してなんら遜色なく、特に海軍の艦船は優秀でした。
当時、日本の技術力の水準は高く、最速の駆逐艦だった島風は40ノットでの航行を実現、また大和型戦艦は46cmの大口径砲を合計9門を搭載しているにも関わらず、非常にコンパクトに設計され、しかも抜群の安定性を発揮、大和はレイテ海戦でアメリカ軍の魚雷攻撃を10発以上受けたにも関わらず転覆せず、抗戦しました。
戦艦の対空戦闘力の差
しかし、対空戦闘能力は大和を含めた日本海軍の艦船と違ってアメリカと比べ、劣っていました。
当時大和は対空戦闘を意識し、大量の対空機関砲、高射砲を増設、搭載していましたが、残念な事に人力で回転させるバーベットと呼ばれる台座に乗せたことから、操縦性が悪く、敵の航空機を追従することが難しく、しかも、それら対空機関砲、高射砲の照準には光学式照準器が使われ、射撃中には火砲の硝煙で全く見えなくなったそうです。
日本軍の高角砲は、大戦後期、最もメジャーだった12.7cm口径砲でしたが、発射速度が遅いうえ、砲重量が重く、機関砲と同じく敵機の追従性能が劣悪だったのです。
さらにアメリカではVT信管(近接信管)と呼ばれる当時最新型の信管がすでに発明されており、一方、日本軍は古い時限信管を採用していたこともアメリカ軍との対空戦闘能力の差を広げられる要因となったのです。
主砲46cm砲には、対空用の三式弾という砲弾が用意されていましたが、肝心の主砲の仰角が非常に浅く、敵機に接近されてしまうと、使い物にならない残念な主砲でした。
日本海軍の艦船自体の船体強度や、対艦戦闘能力はとても高かったのですが、海上での戦闘は航空機が主体となっており、大和、武蔵共に対艦戦闘に参加することはほぼなかったのです。
日本軍の航空母艦
日本軍の航空母艦から飛び立ったゼロ戦は、大戦初期にハワイのアメリカ軍駐屯地を攻撃した真珠湾奇襲攻撃で大きな戦果をあげます。
しかし、太平洋戦争のターニングポイントといわれるミッドウェー沖の海戦で、赤城、加賀、飛龍、蒼龍で構成された空母機動部隊が全滅して以降、日本軍は空母を使った作戦ができなくなりました。
余談ではありますが、ミッドウェー沖の海戦でアメリカ軍に受けた攻撃はそこまで苛烈ではありませんでした。
日本軍の空母はイギリスなどと同様に格納庫を密閉しており、それが災いして敵の爆撃が有効に働いてしまい、日本軍の空母は数発の爆撃でやられてしまったのです。(沈没したわけではなく、火災で乗員は退避せざるを得なくなった。)
さらに燃え盛る空母を港まで曳航していくこともできなかったため、まだ船として体裁を保っているにも関わらず、自沈させるほかなくなりました。
ミッドウェー海戦で沈没したアメリカ軍の空母ヨークタウンが、大破してから本土に曳航され修理の後、復帰したのに比べると対照的です。
伊勢型航空戦艦
もともと伊勢型戦艦として建造された伊勢と日向は、大戦後期に空母の不足を補うために艦尾の主砲塔を降ろして飛行甲板を増設したことで、艦上爆撃機 彗星と水上偵察機 瑞雲をあわせて22機搭載することが可能なようになりました。
しかしながら船の後部のみの飛行甲板では彗星を発艦はさせられても、着艦はできないので任務終了後、陸上基地に戻って着陸しなければならないという有様で、実戦ではその機能は使われることがなく、結局航空機を使った戦闘はできず、最終的に伊勢は呉の対空砲となりアメリカ軍の空襲に対抗しつつ、終戦を迎えました。
余談ですが、伊勢の主砲は対空用に改造されて、仰角が十分に取れたため有効に活用されたようです。
伊400型潜水艦
日本海軍の潜水艦、伊400は非常に先進的で、潜水艦の背中に格納庫を備え、3機の水上爆撃機 晴嵐を搭載できる潜水空母でした。
日本軍は制海権、制空権を奪われ、艦隊行動にも制約が生まれる状況下で、アメリカ本土爆撃を計画しており、潜水空母であれば、長大な航続距離を活用し、アメリカ本土に隠密に接近し、爆撃機で空襲を行うことができると考えたのです。
3隻建造された伊400型は、その航続距離と、搭載装備の多さにより、船体が巨大となり、21世紀に入り、近年中国の潜水艦に抜かれるまでは世界最大の潜水艦でした。
パナマ運河攻撃などの作戦を立てていたのですが、時すでに遅しでアメリカ大陸東側からほとんどの艦船が西側に回ってしまったあとだったので計画は実戦されず、結局終戦まで、敵に知られることもなくなにもせずに終わってしまった日本海軍の最新兵器でした。
占領後の日本で、伊400型潜水艦を見たアメリカ軍の人々にその大きさを見せつけ、少なからぬ衝撃を与えたようで、アメリカは伊400型を本土に持ち帰り研究の材料とし、これの発展系が現在のミサイル潜水艦であると言われております。
今では水上爆撃機にかわり、弾道ミサイルを搭載して日本の構想が応用されていると思うと感慨深いものがあります。
陸軍の戦車
さて、これまで海軍の兵器について語ってきましたが、日本は島国という事で、その発展がささえられてきたのですが、それなら陸軍はどうなのという疑問が生まれてくると思います。
これえから陸軍兵器について書きたいと思います。
97式中戦車チハ
大戦中中国戦線からの主力97式中戦車チハは、開発当初こそ、そこそこレベルの性能でしたが、大戦中にほとんど新型戦車が開発されなかったため、大戦末期まで、ずっと主力で頑張ってきました。
ですが、陳腐化は著しく、薄い装甲、低貫通の主砲などが災いし、太平洋の島嶼部での戦闘ではアメリカのスチュアート軽戦車にすら対処することができず、M4戦車に至っては有効な攻撃は一切できず、次々に撃破されていったといいます。
そんな状況を打開するため、陸軍はチハの主砲を砲塔ごと取り替え、貫通力に優れた1式戦車砲を搭載、チハ改とします、ですが実戦配備数が少なく、依然としてM4戦車に対しては劣勢で、さらに戦車の運用する戦術が未熟で、ただでさえ弱い戦車なのに、一列に並んで突撃し撃破されることがしょっちゅうでした。
チハを代表に日本陸軍の戦車軽視は悲しくなるほどで、装甲は敵の機関砲や、小銃など軽火器ですら貫通が可能で、ブリキ缶や、ブリキの棺桶などと揶揄されるほどでした。
三式中戦車チヌ
ですが、新型戦車の設計はしなかったのか?といわれれば、一応しており、三式中戦車チヌなどがそれにあたり、他にもチトやチリなども設計されていたそうです。
チヌはM4戦車に対して優位といえるかは微妙なところですが、数値上では一応貫通も可能であり、装甲厚も対等でしたが、実際はチヌは垂直装甲でありM4の傾斜装甲と比べると劣っていました。
日本軍の戦車技術は低く新型を設計しても、装甲厚は変わらず、投影面積ばかり肥大化していき、主砲貫通力も振るわず、さらには生産もままならず、というように総合的に見て弱いということが言えるでしょう。