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ワシントン海軍軍備制限条約と大鑑巨砲主義

もし、1922年2月に締結されたワシントン海軍軍備制限条約の第六条「何れの締結国の主力艦も口径16インチを越える装備することを得ず」を含む協定に署名していなかったら、日、米、英海軍は、主力艦に主力艦にどんな口径の主砲を採用したのでしょう。

当時建設中の「長門」「陸奥」の主砲は、名称「45口径3年式41センチ砲」として大正6年7月17日付内令兵9号により、名称「45口径3年式40センチ砲」として公表されました。

By: Cliff

日本海軍は、兵器名称を「内令兵号」をもって示し、軍艦の主砲とはその艦の最大装備で、大口径砲は25センチ砲以上、中口径砲は、12センチ砲以上25センチ砲未満、小口径砲は12センチ砲未満の砲をいいます。

各国が採用を意図する主砲口径は、それぞれの国が、計画あるいは着工しつつある造砲関係の施設を調査・研究することにより、おおよその数値を推定することができます。

最大口径砲の製造能力は、まず、砲身製造に関する材料溶解用の平炉の規模と数、鍛錬用水圧機の大きさ、砲身材料焼き入れ工場の加熱炉および油槽の大きさ、焼き嵌め工場の規模、砲身製造用各種機械のサイズなどによって、その能力の限定と目標を判定できました。

装甲鈑や砲身といった高品質で大型の特殊鋼は、酸性平炉で溶製します。

また、砲塔のサイズに関しては、組み立て用ピット、ターニングミル、工場内および海上クレーンの大きさから推測することができます。

明治維新以前には、砲熕兵器の材用には青銅と鋳鉄が使用されていました。

日本海軍が鋼製砲を初めて製造したのは明治17年で、ドイツのクルップ式7.5インチ砲を炭素鋼で鋳造しましたが、鋳鉄は強度が不足していて砲身の破裂事故が頻発しました。

明治36年、呉海軍工廠は炭素鋼を使用した10インチ砲の焼き入れに着手し、翌37年には英国からニッケル鋼材を輸入して、6インチ砲を製造し、明治40年には、ニッケル鋼の12インチ砲の製造に成功しています。

明治44年、日本海軍は、英国のヴィカーズ社からニッケル・クロム鋼の製造技術を導入して14インチ砲を試作し、大正3年には16インチ砲の試作を進めていました。

巨砲化の勢いはとどまるところを知らず、大正5年ごろには40~42センチ砲、さらには45~46センチ砲へと拡大を続けました。

昭和9年3月に海軍省内に設けられた艦政本部第一部が作成した「軍艦備砲最大口径に関する考察」という研究調査資料によると、英、米、日の主砲の状況は、英国は、ウールウイッチ工廠、シェフィールドおよびニューカッスル工場において50口径程度までの18インチ砲の製造が可能で、これらの工場には20インチ砲まで製造可能な設備があるといわれていました。

ウールウイッチ工廠は、小改造によって50口径20インチ砲までを製造できるのは確実とみなされていました。

第一次大戦時に製造された40口径、18インチ砲は、「フェーリアス」に搭載された2門のほかに、アームストロング社のニューカッスル工場などに完成した同種砲があることは間違いないと見られていました。

英海軍省は、口径20インチ、重量200トン、弾量2000キロの砲を考慮している、との情報も流れていました。

当時の英国の円熟した造砲技術と膨大な官民の製造施設、また、18インチ砲がすでに製造されて艦に搭載されているという事実を勘案すると、英国は、ワシントン会議の時点で計画中だった次期主力艦4隻に18インチ砲を採用するだろうと想像されました。

一方米国は、サウスチャールストン工場に50口径20インチ砲まで製造可能な製鋼所を併設しようと企図して、約2年半の歳月をかけて完成させました。

ワシントン工廠には50口径20インチ砲までの砲身製造施設が、ベスレヘム社にも50口径16インチ砲を多数製造可能な設備があり、ミッドベール社は18インチ砲程度まで製造可能と見られていました。

1916年8月、3年計画海軍大拡張案によって、戦艦「マサチューセッツ」級6隻計48門で合計120門、ほかに予備砲31門の総計151門50口径16インチ砲の製造が予定されました。

ワシントン会議によって一部の製造は中止されましたが、「メリーランド」級に20門を換装したうえで、なお75門前後の50口径16インチ砲の在庫があると推定されていました。

米国は、短時間でこのような多数の50口径16インチ砲を製造しましたが、なかでも、ワシントン工廠、サウスチャールストン工廠、民間のミッドベール工場とべスレヘム工場、オースタープレート陸軍造兵廠における大口径砲の製造設備は実に膨大なものでした。

その設備状況と、英国がすでに18インチ砲を艦に搭載している事実を考え合わせると、米国は、すでに18インチ砲を試製し、ある程度まで実験を進めていると推定するのが妥当でした。

日本は、50口径18インチ砲身の試製と、18インチ連装砲塔、20インチ連装砲塔の試製のめどは立っていたものの、軍艦の備砲として製造するには、多大な費用と相当の年月が必要でした。

また、日本の軍縮に対する方針によって、列強の間に建艦競争が生起した場合の対策として、工場設備の整備を急いで決定し準備に着手することが重要と考えられました。

問題は、軍縮体制から離脱して、対米7割以上で充実した国防と海軍軍備が確保できるかでありました。

呉海軍工廠の大口径砲身砲塔製造施設は、砲身1門を試製するには、18インチ砲身は現有設備で可能だが、20インチ砲身の場合は、大型水圧機1基と50トン平炉2基の新設、旋盤旋条機やボーリング・マシンなどの改造および新設、試発射場の増築が必要でした。

また、18インチ連装砲塔と3連装砲塔、20インチ連装砲塔は、現有設備で製造が可能でしたが、18インチ4連装砲塔は大型ターミングミル1組と工場の増設、20インチ3連装砲塔は300トンクレーン2個の新設、20インチ4連装砲塔は砲塔組み立て用大型ピット1個の新設が必要でした。

さらに、毎年主力艦1隻分の砲身を製造するには、砲塔組み立て用大型ピット2個と300トンクレーン2個を新設、400トン海上クレーン1個を増設しなければならず、その設備の完成に要する期間は、18インチ砲、20インチ砲にかかわらず約3年半と見積もられました。

経費は、呉工廠製鋼部関係が約850万円、砲熕部関係が約1,000万円と算定されました。

艦政本部第一部の調査を基に、英国がすでにワシントン会議以前に18インチ砲を採用しており、米国も18インチ前後の砲の試製・実験を行ったものと推定されました。

ということは、もしも建艦競争が始まると、英、米は共に主力艦の主砲に18インチ以上の大口径砲を採用する可能性が高いということになります。

過去の軍艦搭載砲の発達の歴史は、1国が他国に先んじようとして、財力を惜しまずに全力を傾注するのが常でした。

第一次大戦後までにおける英、独の状況をかんがみると、その発達の歩みは一見するときわめて急なように見えますが、実態は、地道な努力の積み重ねのたまものでした。

大口径の砲身の製造に必要なもっとも大規模な設備は、砲身の材料を鍛錬する大型水圧機、熱処理を行う加熱炉、油槽装置などです。

高度な技術力を有する米国でも、サウスチャールストン工廠の増備には実に2年半を要しています。

そのことからも、近い将来に出現するであろう巨砲の口径の限度は、18インチもしくは20インチと思われました。

建艦競争が生起した場合、英と米は主力艦の主砲に、まずは18インチ砲を採用するのか、それとも直ちに最大限の20インチ砲を採用するのでしょうか。

技術面からいえば、鍛造・圧延加工材の原点となるインゴットの大きさが重要な点となります。

インゴットの大きさに関しては、1931年に米国のミッドベール社が200トンのインゴットを鋳造した記録があります。

その出来栄えは不明ですが、砲身の材料として鋳造できるインゴットは、当時は160トン程度が限度でこれは世界記録でした。

それでも、200トンのインゴットは18インチ砲身の製造は可能ですが、50口径20インチ砲身を製造するには大きさが不足してました。

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