明治37年6月、日本海軍は米国エレクトリックボート社と「特別水雷艇」5隻を米国で建造し、10月13日までに日本に発送する契約を締結、これがのちのホランド型艇です。
9月15日より米国で建造が始まり、10月5日には契約通り完成したものの、当時の米国汽船会社がロシアと交戦中であった日本向けの輸送を拒んだため、再度分解して日本郵船の神奈川丸で輸送せざるを得ず、さらに鉄道輸送に1ヶ月を要し、同年11月に横浜に到着しました。
12月から組み立て工事に入りましたが、1号艇が完成したのが翌年の明治38年8月、全艇の完成が10月となり日露戦争には間に合いませんでした。
しかし、たとえ間に合ったとしても、はたして戦力として活躍できたかは疑問で、まず、ホランド型は潜蛇がないため、潜航するにあたり前部のタンクに注水しなくてはならず時間を要しました。
また、横蛇のみで姿勢角を制御し、潜航状態を維持しなくてはならなかったため、操作を誤ると潜水艇が海面上に突然浮上したり、逆に深く潜航して危険な状態になるなど、ドルフィン運動になる傾向が強かったのです。
ホランド型はこのように水中性能が不良で波の影響も受けやすく、外洋に出撃して敵艦船を襲撃するという、本来の潜水艦の性能を有しているとは言えませんでした。
近世潜水艇発明の元祖であるジョン・P・ホランドは、堅忍不抜の精神に富むあまり資本家と相容れず、エレクトリック・ボート社から離れ不遇の晩年を送っていました。
そこに日露戦争が勃発し、ホランドは長年親交があった井出少佐に、自分が理想の潜水艇として設計した青図面2枚を送り、その建造を勧めてきたのです。
当時、日本海軍はなるべくたくさんの艦がほしいという状況でもあり、建造に向けて検討がすすめられることになりました。
青図面2枚だけで詳細図面もなく、建造は極めて困難でしたが、採算を度外視して軍のために潜水艇建造を引き受けたのが、川崎造船所社長、松方幸次郎でした。
米国から来ていた技師は潜水艇建造の経験が少なかった為やむなく解雇し、ほとんど川崎造船所独自で苦心した結果、明治37年11月に起工し、のちの第6潜水艇、第7潜水艇を明治39年4月5日に竣工しました。
しかし、竣工後はさまざまなトラブルに悩まされ、潜航時の安定性以外はホランド型より優れているとは言えませんでした。
ホランド型のオットー式に変わって採用した、スタンダード式ガソリン機関の信頼性が低く、前後の艇体の歪みが大きい関係で潜航深度が制限されるなど、性能的な問題が大きかったのです。
ホランド型5隻、ホランド型改2隻のほかに日露戦争の艦艇補足費で6隻の潜水艇が建造されることなり、このうち5隻は英国ビッカーズ社のC型を購入することになりました。
明治40年6月、日本海軍とビッカーズ社との間でC型5隻の購入契約が結ばれました。
このうち2隻は英国で建造、ほかの3隻は機関、潜望鏡、ジャイロコンパスを購入し船体と兵装はすべて国産という形をとり、前者をC1型、後者をC2型といいます。
C1型は英国のカンガルー式特殊運搬船、トランスポルターで日本まで運ばれました。
トランスポルターは大型のホールドを有し、このホールド内に海水を満水にして2隻の潜水艇を搭載できました。
C1型は排水量ではホランド型の3倍近くあり、縦蛇、横蛇、潜蛇と今日の潜水艦と同じ蛇をもち、操艦が格段にしやすく、潜望鏡も前周正立像として見られるなど、とても使いやすい潜水艇でした。
また、司令塔も初めて設けられ、浮上航行時には折りたたみ式の艦橋が使用されました。
さらに潜望鏡、舵取り機、楊錨機なども機械化されるなど細かい部分まで進歩がみられました。
明治42年4月に本型で第2潜水艇隊を編成し、日本海軍はようやく沿海で作戦行動が可能な潜水部隊を保有するに至るのでした。
C1型とC2型の違いは、上部構造物が艇主まで延長され、潜蛇を水面上に出し凌波性を向上させ、艦橋を広くすることにより見張りの能力も向上させた点です。
したがって、C1型とC2型では同じC型でも外見の違いが見られ、C2型はC1型と同様にホランド型より実用性が高く、除籍されるまで20年にわたり使用されました。
大正元年の大演習では「河内」「薩摩」など3隻を廃艦にする戦果をあげ、一躍潜水艇が将来において有効な兵器となり得る可能性を示しました。
しかし、まだ潜水母艦の支援が必要で、単独での行動は困難でした。
それでも故障が少なく性能が安定していて、操作性も優れていたことから、後年は各鎮守府の警備艦や潜水艦乗員の訓練などにも使われています。
C型の果たした役割は日本海軍潜水艦の初期の発達においては大きなものでした。
日露戦争艦艇補足費による最後の建造艦で、明治43年3月22日に川崎造船所で起工され、大正元年9月30日に竣工しました。
イギリスのビッカーズ社から導入したC型と性能比較するために、川崎造船所がホランド型をベースに日本独自の設計を加えた、日本人の設計による初の潜水艦でしたが、C型より優れた点をとくに見出せず、失敗作として終わりました。
特に米国から購入したスタンダード複動式ガソリン機関が陸上運転中から不調で、完成後も期待していた計画出力が発揮できず、結局水上10ノット、水中8ノットの低速に留まりました。
また、船体構造の強度が不十分で潜航深度が30メートルに満たず、機器の操作も複雑で故障が多かったため、港湾防備や練習艦として使われた後、昭和4年に除籍されています。
日本の潜水艦設計技術がまだ世界レベルに達していなかったことを物語っていますが、果敢に国産化に挑んだ川崎造船所の姿勢は高く評価されています。
とくに所長の松方幸次郎は「全部損をしてもいくらかは国のためになろう」と、この難事業を引き受け、すべての日本人の手で建造を行ったのです。
その結果、努力の末に建造を成し遂げ、民間人の功労者として、日本潜水艦建造史に松方の名前が刻まれることになりました。
さらに神戸川崎造船所も潜水艦メーカーとして海軍から大きな信頼を得るに至ったと思われ、その伝統は今日の海上自衛隊の潜水艦建造にまで受け継がれ、明治40年度計画で潜水艇2隻の建造が認められました。
当時、フランス・シュナイダー社の潜水艇が極めて良好との評価があったため、日本海軍は明治44年12月に同社に、最新式ローブーフ型潜水艇2隻を発注しました。
同艇は重油を燃料とする石油機関を搭載し、水上速力17ノットを期待できる優秀な性能を持っていました。
しかし、フランスで建造中に第一次世界大戦が勃発、1番艦の第14潜水艇はフランスの強い要望で売却することになり、同艇は大正5年にフランス海軍に売却され「アルミド」と改名され昭和7年まで在籍しました。
2番艦の第15潜水艇は再度の売却を免れるため、未完成のままフランスの特殊運搬船で日本に輸送し、呉工廠で残工事を行いました。
また、これとほぼ同型の代艇を大正9年4月20日呉工廠で竣工し、第14潜水艇と命名されました。
第14潜水艇が第15潜水艇よりあとに竣工しているのは、この事情によるものです。
艇としての特徴はローブーフ式構造を採用したことにより高速で航行できる船体形状となっていて、内外の殻間の空間に燃料タンクを装備して、航続距離の増大が図られた点が挙げられます。
また、石油機関を採用したことにより、ガソリン機関と比べて安定性が向上、兵装は艇首に45センチ魚雷発射管2門、艦橋前後に先回式水上発射管2門があります。
しかし、この兵装は過大なため船体に脆弱な面があり、長期間の戦闘行動に適さないと判断されたため、比較的早く第一線を去り、同型艦の建造は進みませんでした。