世界最強の戦艦が空母に
旧日本海軍の中で、知っている軍用艦の名前を挙げて見て下さいと、街ゆく人にアンケートをとってみたら、おそらく帰ってくる答えとして一番多いのは、戦艦大和ではないでしょうか。
少し近現代史が好きな人や、空母に歴史の知る人であれば「赤城」「加賀」や「蒼龍」「飛龍」と言った、真珠湾以来の武功艦の名前を挙げたり、あるいは「艦これ」の影響で妙に知名度が広がった駆逐艦、「幸運艦・雪風」の名前を挙げる人がいるかもしれませんね。
しかし、太平洋戦争中に造船された空母として当時世界最大にして、1961年にアメリカ海軍が「原子力空母エンタープライズ」を就役させるまでは、世界最大という称号を誰にも譲らなかった巨大空母が、我が日本海軍にいたのをご存知でしょうか。
その名は、空母 信濃。
基準排水量は実に62,000トンという、当時としては相当ぶっ飛んだ数字で、同じ時代に米太平洋艦隊の主力空母として日本海軍を苦しめた「エンタープライズ(CV-6)」の基準排水量が24,000トンであったことを考えると、この数字がいかに狂った数字であるか、わかりやすいかと思います。
しかし、そのようなすごい空母が、なぜ日本人の間にすら全く知られておらず、一部の軍事マニアにしか知られていない存在となってしまったのでしょうか。
戦艦大和の弟として誕生
世界最大の空母信濃は、もともとは戦艦大和の3番艦として設計をされました。
大和についてはここでは詳述を避けますが、基準排水量として世界最大にして、三連装46センチ主砲を3門備えるという、世界に類を見ない圧倒的な攻撃力、そして世界最強の大和自身の主砲弾の直撃にも耐えられるという思想で設計された、分厚く頑強な装甲を持っていました。
戦艦大和は当時、世界の戦艦の中で敵なしの圧倒的な性能を誇った戦艦でした、しかしただそれだけであり、時代の流れの中で運用する場所を見出だせなかった悲劇の戦艦でした。
大和型戦艦は2番艦の武蔵まで建造が完了し、実際に局地戦にも投入をされましたが、皮肉なことに3番艦の信濃は戦艦として生きることが許されなかったのです。
その当時、海戦の勝敗は戦艦の主砲が決し、巡洋艦や駆逐艦、航空機はその補助兵器として戦艦を援護する、というのがそれまでの世界の海軍の常識でした。
しかし、その常識を覆す、海戦におけるパラダイムシフトが起こります、それは、制空権のない海域での作戦行動は自殺行為だ、ということです。
真珠湾攻撃および、それに続くマレー沖海戦で、日本海軍自身の手によって、そのことが証明されました。
その新常識によって、それまで為されていた大艦巨砲主義から、空母を中心とした輪形陣による、航空機攻撃中心の海戦という思想の中にあって、大和型戦艦の存在意義は、急速にその意味を失い、3番艦の信濃は、長期に渡り建造工事の中断を指示されることとなったのです。
航空母艦 信濃として
太平洋戦争の開戦に伴い、新造艦の建造や、被害を受けた艦船の修理でドックが溢れかえる中、大和型戦艦の開発の優先度は急速に落ち込むこととなりました。
1942年6月のミッドウェー海戦において、真珠湾以来の武勲艦である主力空母、すなわち「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」を一気に4隻も喪失するという壊滅的な大敗北を喫します。
ここでやっと日本海軍は、大和型戦艦として建造中止となっていた信濃に目を向けることとなります。
当時、信濃の艦体はまだ艦上の艤装もまったく施されていない状態。
この、巨大な装甲と排水量を持つ戦艦を空母として生まれ変わらせ、強大な防御力を誇る洋上の航空基地として運用できないか。そのような思想から、急速に「空母信濃」としての建造が再開されました。
しかし、ミッドウェーの敗戦以降、日本海軍は南太平洋海戦などでやや劣勢を押し返す局面があったものの、総じて海戦での主導権を失っており、陸軍もガダルカナル島での敗北・撤退以降は攻撃の主導権を喪失して、日本陸海軍は防戦一方の戦いとなりました。
ただでさえ物資の少ない国力の中、傷ついた艦船の修理もままならず必要な物資の補充も不十分な中、空母信濃の建造は遅々として進みません。
やがて日本は南太平洋を追われ、絶対国防圏と定められた東南アジアの各地域も次々と陥落する中、日本海軍が決戦の地として定めたフィリピンにおける大規模な海上戦闘、「レイテ沖海戦」が迫ります。
日本海軍上層部は、「来るべきフィリピン沖での海戦に空母信濃が間に合わなければ、日本は滅亡する」とまで急かし、熱望した空母の完成。
しかしながら、巨大空母を完成させるには資材、人員、予算などあらゆるものがすでに不足しており、依然として信濃の建造は遅々として進まず、結局レイテ沖海戦は信濃の完成を待たず、日本海軍の一方的惨敗に終わり、事実上日本海軍は壊滅しました。
これ以降、日本海軍は軍事組織としての作戦能力を完全に喪失します。
そのような戦況の中、レイテ沖海戦から遅れること1ヶ月。
1944年11月に空母信濃は竣工、一応の完成を見ることとなりました。
あっけない最期
このような戦況の中で産まれた世界最大の空母 信濃は、もはや基準排水量が大きくても、どれだけ強大な装甲と防御力を誇っていても、すでに壊滅した日本海軍の中にあって、空母に載せる艦載機もなければ、艦載機を操縦できるような、熟練パイロットも充分にいませんでした。
また、空母を護衛するだけの、十分な巡洋戦艦も、巡洋艦、駆逐艦も存在しない状況となってしまっており、そのような中で竣工を見ることと成ってしまったことから、運用思想を立てられないどころか、どこの戦局に投入するべきか、死に場所すら想定できない状況となっていました。
そのような中、信濃が竣工した1944年11月に連合国軍による東京大空襲が始まり、もはや首都東京は無差別爆撃の的となってしまったことから、神奈川県の横須賀海軍工廠で最後の仕上げを行っていた信濃は、無意味な撃沈だけは避けるべく、広島の呉海軍工廠に回航することが決定され、直ちに出航します。
艤装もほとんどなされず、乗組員もほとんどおらず、防水隔壁すら不十分な施工状況の中での船出でした。
そして信濃が横須賀を出航して程なく、東京大空襲のB-29を援護するべく東京湾付近の警戒任務にあたっていた米海軍の潜水艦アーチャフィッシュに補足・追撃され、静岡県沖で雷撃を3本、その艦体にまともに受けることとなってしまいます。
大和型3番艦として生を受けたその頑強な艦体は、1番艦の大和、2番艦の武蔵が、アメリカ軍の無数の攻撃機・爆撃機から数えきれない命中弾を受けてもなお奮戦し、米海軍の攻撃隊を震撼させたのとは余りにも対照的に、余りにもあっけなく、この小さな潜水艦の雷撃たった3発で、和歌山県沖で大爆発を起こし、轟沈してしまいました。
なお、アーチャフィッシュの艦長は、空母信濃の撃沈を上層部に打電したものの、大和型3番艦の改装空母が、潜水艦の雷撃たった3発で撃沈できるはずがないとまともに取り合ってもらえず、武勲を稼ぎたいがための虚偽報告として扱われたそうです。
結局、この時アーチャフィッシュが撃沈したのが信濃であったことが判明したのは、戦後1年が経過してからのことで、この時、はじめてアーチャフィッシュ艦長のエンライト少佐はトルーマン大統領から感状を授与されたそうです。
悲劇の空母
実際に空母信濃は、確かに世界最大にして、大和型3番艦の改装空母として稀有な存在であったことは間違いありません。
しかしながら、空母とは運用可能な艦載機と熟練搭乗員がいて、はじめてその能力を発揮できるものであり、信濃の竣工時期や戦局から推察し、仮にレイテ沖海戦に間に合ったところで、戦没艦リストに名を連ねただけに終わったことと思われます。
また、戦艦改装空母であったことから艦載可能な航空機も47機と極めて少なく、これはミッドウェー海戦で撃沈された日本海軍主力空母であった飛龍が、基準排水量17,000トンに対し艦載機が73機であったことからも、空母としては極めて中途半端な性能であり、戦力となり得たかについては大いに疑問符がつく存在となってしまいました。
そんな背景もあり、初陣すら迎えられずに轟沈した信濃は、世界最大の空母としての栄誉に浴すること無く、世界の海軍史から、そして日本人の記憶からすらも、忘れられる存在となり歴史から姿を消しました。