長い竿の先に刃や打撃部分をつけて武器とする「長柄武器」(Pole weapon)の歴史は長く、恐らく、最初のポールウェポンとなったのは、我らのご先祖様が振り回していた木の枝でしょうから、人類よりもその起源が古いと言えます。
類人猿を除く動物の殆どは、自分の手足や触腕自体を武器とし、一部の飛び道具(テッポウウオだとか)を使う動物以外は、それがそのまま攻撃可能な範囲でした。
しかし、類人猿になって「物を掴んで振り回せる」ようになると、ついに、道具を使って攻撃範囲を拡張することが可能になります。
さて、時代が人類の歴史の中に入ってきますと、そのへんで拾った棒を振り回すのではなく、振り回しやすい加工をした棒や、振り回した際の攻撃力を高める工夫をした、「武器」が登場してきます。
長柄武器
その中で、特に「リーチ」を重視して改良されていくのが後の「長柄武器」と呼ばれる物たちです。
ここでは、その長柄武器の内、古代に活躍した「矛」と「戈」の歴史を概観してみましょう。
長柄武器の攻撃力を増す工夫にはいくつかの方法が有りましたが、そのうちの一つが、先端部に切ったり突いたりするための部分を設置するやり方です。
この方向性で恐らく、最初に軍用兵器として完成するのが「矛」(ほこ・ぼう)です。
起源は新石器時代あたりと推測され、最盛期は青銅器の頃、特に盛んに用いられたのが、中国で行けば殷周~戦国春秋時代です。
刃物の形状は、先端が丸みを帯びて鈍角、中間部分の幅が少し狭く、柄との接合部に向けてまた幅が広くなります。
柄との接続は延長線上、刃の基部をソケットとした「袋穂」を採用し、「穂に柄を差し込んで釘で固定する」という形になっているのも槍との違いとされています。
矛の運用方法は、そのリーチを活かして突いて刺突するか、振り回して斬りつけるかです。
斬りつけることもできるのが槍と大きく異なる点で、鎧がそれほど発達していない時代においては非常に有効でした。
先端が丸みを帯びた鈍角であることにも、斬撃力を増す効果が期待できました。
ただ基本的に、同じ力で刺突するなら幅広のものより細身の刀身の方が、より深くまで刺さります。
そのため、刺突力に関して言えば、幅広で丸みのある刀身はあまり適切とはいえません。
しかし、石器の頃はもちろん、青銅器の頃の冶金技術で、細身の頑丈な刀身を作ることは難しく、まして振り回して相手に叩きつける用途では、刀身を厚みのある幅広のものにせざるを得ませんでした。
特に、柄との接合部には大きな力がかかりますので、しっかり頑丈に、かつ柄と強く接合を保てる構造にしなければいけません。
力がかかる方向を考えると、後に採用される「茎(なかご)」形式にして柄の中に差し込むのが良いのですが、これも当時の冶金技術では十分な強度のものを作れませんでした。
そのため、袋穂を採用して強度を確保しますが、これは「茎(なかご)」形式に比べて作成に必要な金属の量を増やし、加工を複雑化させてコストを悪化させる他、先端の重量を増してしまうという欠点がありました。
こうして開発された矛は、後の世から見ればいろいろ問題点も抱えつつ、それ自体は非常に優秀な武器であったため、広く用いられるようになります。
用途も多岐にわたり、戦場での歩兵のメインウェポンとして活躍する他、地域によっては戦車兵(チャリオットの方です)の主武装ともなりました。
当時の工業力から言っても、戦場での活躍度合いから言っても、矛は剣などをはるかに凌いで「武器の代表格」であり、そうした背景から無敵の盾と無敵の矛を同時に売る「矛盾」の話が生まれてきたわけです。
矛の伝来
この矛は日本にも渡ってきており、恐らく金属器(青銅器)の伝来とともに伝えられたと考えられます。
有名なところでは古事記に記される「国生み神話」で、伊弉諾(いざなぎ)が別天津神より預かった「天沼矛」で混沌の海をかき混ぜて、最初の陸地を作る描写が出てきます。
この時用いられていたのは名前通り「矛」であり、日本で記録が成立するような時点で、すでに矛が伝来してきていたことが伺えます。
この後、日本でもやはり、槍が完成するまでの重要な武器として矛は活躍します。
ただ、平安以降、独自の作刀技術が発達すると、戦場でのメインウェポンは矛から「薙刀(なぎなた)」「長巻(ながまき)」「太刀(たち)」へと変化していきます。
いずれも突くことより薙切ることを重視した武器であり、日本独特の戦場様式が有ったことを伺わせます。
古代中国の「戈」
さて、同じぐらいの時代に活躍した長柄武器の例として、古代中国でよく用いられたのが「戈」(か)です。
「干戈を交える」という慣用句になった武器であり、こちらも非常に古い歴史を持っています。
ちなみに、「干戈」の「干」は古代中国様式の盾の一種で、盾と武器を交えるということから戦いを意味したわけですね。
こちらは、矛と違い柄に対して、大体直角から100度程度になる方向に刃が据え付けられた武器であり、主な使用方法は、振り回して突き刺すか、すれ違いながら引っ掛ける、なで斬りにするというものになります。
薙切るのを容易にするためか、刃の部分は矛と同じく先端に丸みを帯びたものが多かったようです。
戈は歩兵の武器としても使われましたが、特に有効に使われたのが戦車による機動戦時でした。
戦車と戈
馬に騎乗するというのに非常に高いスキルが要求され、騎馬民族を除くと、まとまった騎兵が用意できなかった古代中国では、機動戦力として2~3頭立ての馬に車輪付きの乗り物を引かせる「戦車」が用いられました。
この戦車には、馬を制御するための御者と、武器を持って攻撃するための兵士が複数人乗り込んで戦います。
主な武装は、機動力を活かしてヒットアンドアウェイするための弓矢、弩、そして速度を攻撃力として活かせる長柄武器でした。
同じく戦車で用いられた矛の場合、進行方向に対して突く事で強力な刺突を行うことが出来ますが、反作用の衝撃も大きく、攻撃した側が戦車から転げ落ちるような事もあったようです。
また、進行方向に突くという性質上、攻撃範囲も攻撃可能な角度も狭くなります。
一方、戈(か)は振り回して突き刺す、切りつける武器ですので、すれ違いざまに薙ぎ払う使い方で、広い範囲を攻撃できますし、攻撃した側にかかる衝撃もある程度いなす事ができました。
戦車の速度を乗せて打ち込まれる戈の一撃は、当時ほぼすべての鎧を貫いて、刺突や斬撃を行うことができました。
また逆に、高速で移動する戦車兵や騎兵を引っ掛けて落とす、斬りつけるという用途にも比較的向いていたため、戦車が実用戦力として活躍していた頃と、時期を同じくして広く用いられます。
しかし、鐙などが開発され、騎兵を育成するためのハードルが下がると、戦車はより機動力に優れて、コストも安い騎兵に取って代わられます。
戦車では有効に機能した戈ですが、如何せん馬上で振り回すには先端重量がありすぎ、使いづらいと言わざるをえません。
戦車が騎兵に取って代わられ、戦場から姿を消すとともに、戈もメインウェポンの地位から落ちてしまうのですが、振り回して突き刺すことができる構造そのものは有効ですので、矛と組み合わされた「戟(げき)」という形で残っていきます。
鉄器の普及により、矛と戈をコンパクトに組み合わせることが可能になったおかげか、戟は中国におけるスタンダード近接武装として愛用され、騎兵も歩兵も様々な長さ、大きさ、形状の戟を使っていたようです。
この「戟」が特に大人気になるのが、日本でも馴染み深い「三国志」の時代です。
ただ、日本の風土には合わなかったのでしょうか、戦車用の「戈」はもちろん、「戟」も日本の戦場で根付くことはありませんでした。