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水上機母艦の歴史

水上機を載せて最初の母艦となった艦はイギリスのアークロイヤルで、後部に機関を備えた標準型の商業用石炭船から改造されたものでした。

船体の「舷弧」と呼ばれる甲板の後方のそりを切り取って水平にし、甲板上に走行する蒸気クレーンを設け、これで船倉内に格納した水上機を出し入れし、水上機は海面から発進、帰着するので、海面が穏やかでないと作業が困難で、水上機を使用は大幅に制約されました。

第一次世界大戦が始まった頃、飛行機は既に攻撃用として使われていて、爆弾や魚雷を使えるようになっていたのでイギリス海軍は何隻かの高速海洋連絡船を収容して、水上機母艦に改造、各艦は後部に格納庫とクレーンを備え4機の水上機を搭載し、多くは4門の12ポンド砲を積んでいました。

そのうちの1隻「エンガダイン」はジャットランド海戦に参加、海面からの離着水には制約条件が多いことは戦前から認められていて、アメリカ、イギリスとも停泊中の軍艦の上に仮設した滑走路から、飛行機を発艦させる実験をしていました。

1910年、アメリカ巡洋艦バーミンガムの前部に設けられた飛行甲板から一機の車輪付き飛行機が発艦し、次の年には戦艦ペンシルバニアの後部の飛行甲板に一機が着艦、同じ年に、イギリスでは初めて戦艦アフリカの前部甲板上の滑走路からの発艦が行われました。

1914年、イギリス海軍は定期船カンパニアを徴用し、その船橋直前から船首全端にかけて前下がりの飛行甲板を設け、やがてこの甲板をもっと長くする必要が認められると、前部煙突を左右二本に分けて、その間を通って甲板は延長されました。

カンパニアは飛行機を格納庫の床から飛行甲板に移すためにリフトを備えた最初の船で、1915年に、航走中のアメリカ装甲巡洋艦ノース・カロライナの後甲板に備えたカタパルトから飛行機の射出が行われたのは、長年の実験研究の成果でした。

射出機を作ろうとしたもともとの目的は、発艦甲板を持たない軍艦から飛行機を飛ばせようということでしたが、後になって射出機は、航空母艦の発展上重要な役割を演じることになります。

1917年、イギリス巡洋艦フューリアスはその前部18インチ砲塔をやめて、そのあとに飛行甲板を設け、甲板下を飛行機格納庫に改造、この甲板から航走中の発艦、着艦が行われましたが、着艦のほうはとても危険で、翌年には後部の18インチ砲塔を取り外して着艦用の飛行甲板が設けられました。

巡洋艦キャヴェンディシュも同じように改造されて、ヴィンディクチヴと改名されましたが、この艦はより小型でも同様な方式が成り立つことを証明したのでした。

発艦甲板と着艦甲板が別々になっているフューリアス方式は戦時中の事情による「間に合わせ」で、後部から前部へ飛行機を運ぶには、外舷寄りを通すなど不便の多いことは明らかでした。

しかしその再改造よりも先に、完全な全通甲板艦という思い切った躍進が計画されたのでした。

そのような改造を施すような適当な船を選ぶのにイギリス海軍にはあまり余裕がなかったので、1916~17年に建造中だったチリー戦艦アルミランテ・コクラン(後のイーグル)とイタリアの定期船コンテ・ロッソ(後のアーガス)とを買い入れたのでした。

同時に、はじめて航空母艦として設計された軍艦ハーミスの建造命令が発せられ、まもなく日本も「鳳翔」の建設に着手しました。

最初に完成したアーガスは平甲板艦で、煙は舷側に沿った水平の煙路を通って、艦尾に排出されるようになっており、航海用として、小さな昇降式の海図室が飛行甲板に、小さな操艦所が両舷に設けられました。

しかし、新式の配置はイーグルのほうに行われたもので、艦橋と煙突とは島型の上部構造物として、飛行甲板の右舷側に装備、経験の結果、この方がより好ましい配置法であることが明らかになり、各国がこれにならうようになりました。

両艦とも飛行甲板の下に格納庫があり、中心線上にある昇降機でつながっていましたが、イーグルのほうではこれが二階建てになっていました。

ハーミス(10,850トン)鳳翔(9,494トン)のはじめから航空母艦として作られた両艦には興味深いものがありました。

どちらもアーガス(14,450トン)イーグル(22,600トン)に比べてはるかに小型ですが、搭載機数はほぼ同様でした。

この時期アメリカには、平甲板の航空母艦は元の艦隊用給炭船ジュピターから改造された、ラングレーが1隻あるだけでした。

この艦では飛行機は半ば分解して船艙に収められており、クレーンを使用して上甲板まで引き上げて、次にリフトで飛行甲板に移すのでした。

その代わりラングレーは55機の飛行機を持つことができ、この数はイギリス艦が20機しかもてないのに比べれば、相当な増加でした。

さらにラングレーは低速で、風の弱いときは発艦できないのでカタパルトを備えていました。

ワシントン海軍条約の結果、多くの主力艦の建造が打ち切られ、その不要となった船体を使用して航空母艦に改造されたものが多くありました。

日本とアメリカでは巡洋戦艦からの改造が各2隻ずつ、フランスでは1戦艦からのものが1隻、またイギリスの巡洋艦カレージアスとグロリアスの2隻は、そのままの兵装では主力艦に割り当てられたトン数の内に数えられることに条約では取り決められていました。

しかし、これは望ましくないので、この両艦はフューリアス同様に航空母艦に改造されることになり、このとき、フューリアスは第3回目の大改造を行うことになっていました。

1933年に日本では関東大震災が起こり、改造予定だった巡洋戦艦の1隻は船台上で破損したため、この艦は廃棄して、その代わりに同じく建造打ち切りとなっていた戦艦の船体を使うことになりました。

これらの改造艦の中で最初に就役したのは、1925年のイギリスのフューリアスでした。

前部の発艦甲板はそのまま存置されましたが、その後端部から艦尾にいたるまで、一段高く何の障害もない広大な飛行甲板が設けられました。

煙は水平の煙路を通って後部に排出され、航海関係の設備はアーガスと同じような形式(昇降式の海図室と両舷翼の操艦所)が採用されました。

しばらくの間、飛行機はこの2段の甲板から発着していましたが、前部発艦甲板の使用は、後に取り止めとなりました。

2年遅れてアメリカのレキシントンサラトガが完成し、この両艦は長年にわたってこの種の艦の最大の実例となっていました。

両艦は、もっとも異彩をはなった巨大な煙突を含めて島型配置を採用し、その兵装は条約で許される限度いっぱいの、8門の8インチ砲を2連装砲塔に収めて、島型上部構造物の前と後ろに備えました。

巡洋戦艦としての本来のタービン電気推進の機関をそのまま使った33ノットの高速は、近年、上を越されるまで標準速度とされていました。

フランスのベアルンがそれほどめざましい艦でなかったのは、フランス海軍がこの方面であまり経験をもっていなかったからで、その速力は21ノット、行動半径もそう大きくはなかったので、同艦は主に戦艦隊と一緒に行動していました。

日本の最初の空母赤城」は平甲板型で、発艦甲板が前部に2段(その2段目は1段目の後上方に設けられました)になって設けられたこと以外では、イギリスのフューリアスと似ていて、主飛行甲板はこれより高く設けられていました。

煙突配置はグロテスクな型をしていて、主排煙管は右舷の舷側から水平に突き出し、外舷に沿って、下方に屈曲して開いており、補助の排煙管は舷側に垂直に筒状に取り付けられ、その頂部は飛行甲板と同じ高さで止められていました。

この艦は8インチ砲を備え、2連装の砲塔が前部にある下部発艦甲板両舷に1基ずつ、また中甲板の後部両舷に3門ずつが砲廓様式で装備され、続いて現れた加賀は、水平煙路によって両舷に沿って後部に導かれていた以外はだいたい同様でしたが、機関出力が低く、やや低速な艦でした。

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