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戦時標準船の誕生とその後

戦争に勝利するためには、敵国より強い兵器を持つことも重要であることは、誰もが知っていることですが、その兵器を作るための資材、または兵器を動かすための燃料は「資源」という名のもとに、地球上のあらゆるところに存在する。

鉄、アルミニウム、ボーキサイト、ゴム、石油・・・これらはすべて、第二次世界大戦中に必要であったにも関わらず、日本が手に入れることができなかった資源でした。

戦争はただその場の勝利を収め、敵国の領土を占領するだけで勝利するのではなく、それらを維持していくことも重要であることを忘れてはなりません。

戦争には資源を手に入れるという側面もある、実際、日本はフランス領インドシナを「資源の確保」のために占領したし、太平洋戦争の緒戦においては原油の確保を第一としてオランダ領であったマレーやブルネイをまず確保する事に全力を挙げたことからも、日本が資源を欲していたことがよく分かります。

しかし、日本はそれらの占領地を手に入れただけで満足してしまい、その後、資源を兵器に変えるために、日本本土にそれらを運ぶという「輸送」のことなど、相次ぐ勝利によって忘れてしまっていたため、あとでそのしっぺ返しを受けることになります。

今回はそのしっぺ返しのしりぬぐいのため、急ピッチで作られた輸送船「戦時標準船」についてご紹介したいと思います。

戦時標準船とは、限りある資産を効果的に使うことと、造船所などの設備を効率よく使うために、それぞれの造船会社に対して統一した仕様書を提示し、建造させるために定められた船の形式を指します。

決まった形の船を建造させることで、それらの船のメンテナンスなども共通になることから、部品も共用でき、ただでさえ資源が少ない日本にとって効率がよいシステムと言えました。

また、この仕様書では製作の方法も指示されているので、より工期がかからない工法で建造させたり、直線を主体とした構造とすることで曲線を少なくし、工期をさらに短くすることもできるという、メリットがあるはずでした。

マレーや、ボルネオから資源を運ぶ船は、もともと民間海運会社の所有している、タンカーや輸送船を徴用して確保されていました。

日本海軍がアメリカ海軍を圧倒していた時は、その勝利こそが海上交通の安全を確保することにつながっていたが、1943年ごろからはそのバランスが崩れ、アメリカ海軍の潜水艦が東シナ海にも現れるようになり、輸送船やタンカーをどんどんと沈めるようになってきます。

この時に失った船舶の補充を目的として、戦時標準船の制度は導入されたのだ。

戦時標準船は、主に輸送船型とタンカーがあり、いずれの場合も3カ月から5カ月で竣工できるように設計されていた。

小規模の造船所でも建造できるよう、仕様書も書かれており、その代わりに本来必要な速度を下げたり、二重底を一重底にするなど、安全性と速度を犠牲にしている部分もありました。

だが、そんなことでどうこう言ってられる場合ではなく、失った輸送船やタンカーを補充しなければ、日本本土で新しい船も作ることができないし、軍艦の修理もできない。

太平洋戦争が始まって2年が終わろうとしていたころ、ようやく日本海軍は海上輸送の重要性を痛感したのです。

すでに活躍の場がないと思われる戦艦の建造や、修理を後回しにし、浮いた資源は空母や飛行機の生産に、そして戦時標準船の資源に回し始めます。

日本海軍としても、艦隊に随行できるタンカーが不足し始め、日本本土に備蓄されている燃料も不足してきた。母港に燃料がないと、いくらアメリカ軍が攻めてきても出撃すらできません。

そのため、あらゆる船を使ってでも、自分たちにとって必要な燃料を確保するようにし始めました。

しかし、時はすでに遅く、日本海軍の戦力低下とともに、アメリカ軍は悠々とシーレーンに登場し、日本の輸送船団を攻撃し始めます。

戦時標準船も、この頃には海上輸送の主力となっていたが、8ノット程度しか出ない速度ではアメリカ軍の空母艦載機の攻撃をかわすことはできず、アメリカ軍潜水艦からの魚雷攻撃を回避することもできませんでした。

戦時標準船で構成された輸送船団は、そのすべてが無事に更改を終えることが少なくなり、船団の半分でも帰ってくれば十分なほどになってしまいます。

そもそも、戦時標準船自体が簡素な造りとなっているため、魚雷を1発でも受けてしまえば沈没するのは当たり前。

それどころか、アメリカ軍の空母艦載機の機銃で打たれても穴が開き、そこから沈んでいくような脆弱ぶりだった。ちょっとの嵐でも沈む、いきなりボイラーが爆発するなど、アメリカ軍の攻撃を受ける以前に、多くの戦時標準船が失われていたのだ。

それもこれも「機関は3年、甲板は1年」という、耐用年数の恐ろしい値踏みが問題でした。

どうせ沈められてしまうのだから、使い捨てでいい。そんな想定で作られていた戦時標準船が、まともに運用できるはずもありませんでした。

日本海軍もこの有様に驚き、余剰となっていた低速の空母部隊を輸送船団の護衛に入れるなど、すでに発足させていた海上護衛総隊の戦力を強化して、日本から沖縄、台湾を経由してフィリピン、シンガポールに向かうシーレーンを、全力を挙げて防御することとします。

戦時標準船もこの頃になるとさらに性能が悪化しつつあり、12隻で出港した船団が全滅することはもちろんのこと、途中で不良をきたして引き返すなど、すでにまともな運用形態で用いることなどできなくなっていました。

アメリカの空母艦載機や潜水艦は相変わらず輸送船団を攻撃していたが、それを防ぐために投入された護衛空母も決定的な防御力とはなりえません。

これらの護衛空母は、艦隊用空母としては低速なため、海上哨戒のために艦載機を活用できるだろうと海上護衛総隊に編入、しかし、既に載せる飛行機も少なく、飛行機を操るパイロットの技量も低下しており、逆に護衛空母が撃沈される有様。

ここまでくれば、もう戦時標準船が生き残るのは運だけと言っても過言ではありませんでした。

戦時標準船は陸軍と海軍に均等に配分されていたが、こともあろうに、陸軍が主導して戦時標準船の改良型「特TL型」を開発し、タンカーの甲板に飛行甲板を設置してタンカー兼護衛空母なる戦時標準船まで作ってしまいます。

陸軍サイドで「もう海軍の護衛が頼りにならない」と結論が出て、陸軍なのに戦時標準船を運用するはめになってしまった、実際にこの特TL型は正式に運用される前、訓練を行っている頃に終戦になってしまいます。

戦時標準船自体のアイディアは、どこの国でも持ち合わせており、アメリカでもリバティ船という名称で統一した、輸送船やタンカーの形式を定めたし、軍艦に関しても統一の仕様を作り、質より量の作戦でどんどんと開錠兵力を増強しました。

日本はと言えば、輸送船が不足し始めてから、ようやく戦時標準船の仕組みを作り、材料が無くなればどんどん粗悪な金属を使ってでも、数を確保するために造船を進め、本当に材料が無くなれば木造船やコンクリート船という、非金属の戦時標準船すら登場させていきます。

戦時標準船は戦闘には直接関係のない船かもしれないが、戦闘を継続するために必要な資源を確保するためには重要な船舶でした。

それすらまともに建造できず、運用もできなかった日本が戦争に敗北するのは、自明の理だったのかもしれません。

しかし、戦争が終わってからは、その技術が日本の復興を支えたのも事実で、戦時標準船の建造で磨かれた電気溶接の技術と、中小の造船所であっても最新の技術を持ち合わせていたこともあり、戦後日本の復興は造船景気が後押ししました。

戦時標準船は、戦争中ではなく、戦後の日本を支えてくれたのです。

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