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太平洋戦争・対米侵攻の夢

平田晋策という文人をご存知だろうか。

「亜細亜の曙」で有名な山中峯太郎、同じく「浮かぶ飛行島」などを書いた海野十三らに、勝るとも劣らない人気と実力を誇った、昭和初期の軍事ジャーナリスト・戦記作家だ。

平田晋策の代表作に、「昭和遊撃隊」がある。

昭和9年(1934)に少年雑誌に連載された、手に汗握る軍事小説の傑作だ。

いや、早すぎたサイエンス・フィクションだったのかもしれない。

何しろ、真珠湾奇襲の8年も前に、日米戦争を予言しているのだ。

揚子江の帝国艦船を、蒋介石率いる重慶国民党政府が警告なしに爆撃、反撃が米国艦に及んだために、日米両国が戦争状態に突入するというストーリー。

1931年には、関東軍が僅か半年足らずで満洲全土を占領した、柳条湖事件に端を発する満州事変が起きていたので、大陸では一触即発という状況だった。

事実、1937年には上海事変が起きている。

しかも、帝国海軍の艦船や知名も実名、米軍関係者こそ実名は見かけないものの、満洲で積極的な反攻を示さなかったことから「不抵抗将軍」と蔑称された張学良や、後に「東洋のナポレオン」の異名を取る馬占山といった、実在の将軍が登場、いやが応もなくリアリティを感じさせる仕掛けになっている。

はっきり米国と名指したのも、極めて刺激的だった。

翌年に発表した冒険小説「新戦艦高千穂」では、「A国」なる表現が用いられているし、この「昭和遊撃隊」の単行本ですら、日米両国とも架空の国名に替えられているのだ。

いや、何も対米開戦の可能性は、既に昭和初頭には広く知られていて、元を正せば、明治時代、米国がハワイのオアフ島に海軍基地が設置してからの話にさかのぼる。

大正時代の1922年、建艦制限を謳ったワシントン海軍軍縮条約の締結以降、日本にとって最大の仮想敵の一つは米国だった。

次いで、昭和5年(1930)にロンドンで会議が開かれ、フランスやイタリアでさえ部分的な条約の批准に留めたのに、更なる制約を受け入れた、当時の内閣へは批判が集中、浜口雄幸首相の暗殺事件まで引き起こしたほどだった。

平田晋策は、この空想戦争小説を書いた前年、昭和8年(1933)に「われ等もし戦はば」という少年向ノンフィクションも出版している。

もとより、「昭和遊撃隊」のプロトタイプとも言うべき本書は、更に刺激にあふれていると言えよう。

「われ等もし戦はば」の前半に論じられる太平洋戦局の移行は、まず揚子江の米国哨戒部隊を叩き、アジア艦隊の本拠地マニラ、姉妹港のグアムを陥落させる。

この後、ハワイ「パール軍港」の帝国海軍潜水艦による攻略。

アラスカ沖での海戦にも触れている。

そして、日米両連合艦隊の「太平洋戦争」に突入すると予想。

「戦争は冒険事業ではないか。冒険を恐れていて戦争が出来るか。」と喝破するなど、勇ましいフレーズは散見するものの、そもそも、これらの大筋は米国の軍人や戦略家が想定するシナリオらしい。

海外の資料も渉猟、南京などを視察取材した体験などを元に、現実的、実証的に書いた、渾心の一冊と言えよう。

本書の執筆に先駆けて、キャッスル駐日米国大使にも面会し、ロンドン軍縮会議の結果について、問いただしてもいる。

率直な姿勢から、まさかの敗戦にすら筆は及ぶのだ。

重ねて注意を促しておくが、これでも子供向の読物。

確かに、平田晋策が小説家として評価されるのは、ファンとしても嬉しいが、同時にジャーナリストとしても、もっと顧慮されるべきではないだろうか。

興味深いことに、米国アジア艦隊が太平洋上で戦闘中、その連合艦隊はサンフランシスコで整備と燃料補給に余念がないだろうという。

潤沢な石油生産と、これを供給する大桟橋を紹介した上で、第一次大戦のドイツによる英国主力艦隊の母港スカバ・フロー侵入を引き合いに、帝国海軍の潜水艦攻撃をも推測している。

その根拠として、その航行可能距離が1万キロを越すとした、当時のジェーン海軍年鑑の記述を上げている。

また、サンフランシスコ軍港は湾が狭いため、防禦が弱いと分析、加えて、英国士官の発言を並べ、米国本土攻略の可能性を否定してはいないのだ。

まことに大胆な予想と言えよう。

話は、米国による日本空襲が開始された昭和17年(1942)に飛ぶ。

米国本土を空爆逆襲する、破天荒なプランが浮上するのだ。

帝国陸海両軍に戦闘機を制作・納入して来た中島飛行機所長から政界に身を転じた中島知久平が建議した「必勝防空計画」がそれだ。

当時の肩書は、翼賛政治体制協議会・顧問だったようである。

新型の大型爆撃機で米国本土を攻撃だけでも驚きなのに、大西洋横断、ドイツで燃料補給の上で、帰路、ソ連をも爆撃するという、まさしく夢見るような、壮大な構想だったのだ。

往時、小松崎茂などの卓抜な水彩画により、最新兵器や架空兵器を図解した少年雑誌「機械化」が出ていたが、もちろん、軍部も大真面目に検討したのだ。

その結果、軍需省なども参画する形で設計に着手することになる。

その名も、富嶽。

富士山の意味である。

全長46メートル、翼長60メートル、6基のエンジンを搭載したこの新型機、航続距離は1万8千キロを想定していたという。

米国最新の大型戦略爆撃機B29でさえ、爆弾を搭載すると航続距離は7千キロ弱だったにもかかわらずである。

終戦間際には、もっとつつましい作戦も立案されている。

今日よく風船爆弾と俗称される、気球爆弾である。

このプランは、爆薬を下げた紙製の気球を偏西風に乗せて、北米大陸まで飛ばす計画だった。

球は直径10メートル、航続時間は70時間を想定した。

コンニャク糊で貼り合せた紙には苛性ソーダ溶液を塗り補強した上、中には水素ガスを充満。

1944年から実戦に投入され、1万発が製作された。

うち300発あまりが、実際に米国までたどり着いたとされ、対人被害も、たった1件だけ報告されている。

なお、この気球爆弾は陸軍登戸研究所で開発され、細菌を散布させる案もあるにはあったが、昭和天皇の強い反対で実現しなかったことを、特筆しておく。

恐らく、気球爆弾そのものは当時の報道管制から、米国でも一般には知られなかっただろうが、日本による空襲の潜在的な恐怖は横逸と漂っていたと思われる。

というのも、真珠湾攻撃から3か月後の1942年2月、ロサンゼルス上空に謎の光体が出現し、パニックになった。

対空砲射は1400発にも上ったが、光体は逃げおおせる。

砲弾の破片が民家に墜落して被害が出たほか、ショックのあまり心臓マヒで落命する住人すらいたという。

さて、平田晋策は、昭和11年(1936)に自動車事故のために夭折する。

奇禍による落命は、さぞかし無念だったろう。

葬儀で弔詞を捧げたのは、友人の末次信正海軍大将。

何を隠そう、「昭和遊撃隊」に登場する連合艦隊司令長官・末山大将は、末次信正がモデルだったという。

しかも、この小説が発表された昭和8年、実際に連合艦隊司令長官、第一艦隊司令長官を兼ねていた。

ロンドン会議にも随員として出席、大将に昇進して予備役に入った後、第一次近衛内閣で内務大臣などを歴任した。

第三次近衛内閣退陣の折には一時、総理候補にも擬せられるほどに、重きを成したらしい。

書くまでもなく、首相の座に付いたのは、東條英機陸軍大臣である。

この東條内閣を終焉させる目的の一環で、5・15事件時の首相だった岡田啓介などにより、末次大将の現役復帰が画策されたともいう。

本人は乗り気で、サイパン島奪還作戦に意欲を示したものの、病歿して果たせなかった。

開戦すら知ることができなかったジャーナリストと、終戦を待たずに靖国に祠られた軍人との交流がどのようなものだったか、興味は尽きない。

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