戦場を舞うことの無かった戦闘機たち
第二次世界大戦中は日本でも様々な戦闘機が開発されました。
その中でも特に1930年代~終戦までに開発されたものの正式採用されることの無かった名機たちを見てみましょう。
中島キ11試作単座戦闘機
キ11試作単座戦闘機は中島飛行機製の航空機です。
スペックは全幅10.8m、全長7.5m、全高3.4m、翼面積18.0㎡、自重1,250kg、全備重量1,600kg、エンジン 寿3型、最大速度420km/h、上昇時間5,000mまで6.2分、航続距離900km、武装 7.7mm×2、乗員1名。
1934年(昭和9年)9月、陸軍は92式戦闘機の後継主力戦闘機取得を目指して、川崎にキ10、中島にキ11の試作を命じましたが、中島は、ちょうど同じ年の1月に、ボーイングが初飛行させたP-26に良く似たデザインの張線付半片特式低翼単葉機を完成させていました。
本機はそれまでの戦闘機の主流である複葉形式に較べて大幅に空気抵抗が少なく、構造も胴体が金属製セミモノコック、主翼は金属桁に木製リブ、合板・羽布張りと、当時としては進歩的設計を取り入れていましたが、1935年9月から行われた陸軍の審査では、近接格闘戦が重視されたため、惜しくも川崎キ10複葉戦闘機に敗れてしまったのです。
4機の試作に終わってしまった中島キ11ですが、AN-1の名前で朝日新聞社に譲渡され、長い間快速通信機として活躍しました。
中島キ12試作戦闘機
次に同じく中島飛行機製の航空機キ12試作戦闘機をご紹介します。
スペックは全幅11.0m、全長8.3m、翼面積17.0㎡、全備重量1,900kg、エンジン イスパノ・スイザ、最大速度480km/h、上昇時間5,000mまで6.5分、航続距離800km、武装 20mmモーターカノン×1、7.7mm×2、乗員1名。
1935年陸軍はフランスからドボアティンD-510を輸入してテストを行い、当時世界的に流行のきざしを見せていたモーターカノン付きエンジンについて陸軍は大いに注目したのです。
このため中島に同エンジンを搭載したキ12を試作させることにし、同社ではフランスから招いたロベール、べジョー両技師の指導のもとに設計を行いました。
キ12はモーターカノンに加えて日本陸軍初の引込み脚を採用したほか、全金属製セミモノコック構造、片持式低翼単葉形式など、多くの新しいデザインを取り入れて、1936年10月に完成したのですが、本機は速度では当時の陸軍の実用・試作戦闘機中トップを記録しましたが、陸軍がもっとも重視していた運動性が劣っていたため、1機のみの試作に終わってしまいます。
三菱キ18試作戦闘機
今度は三菱重工製の戦闘機を見てみましょう。まずはキ18試作戦闘機についてです。
スペックは全幅11.0m、全長7.7m、翼面積17.8㎡、自重1,110kg、全備重量1,420kg、エンジン 寿5型、最大速度445km/h、上昇時間5,000mまで6.4分、航続距離800km、武装 7.7mm×1、乗員1名。
1935年(昭和10年)1月に完成した海軍の9試単戦(後の九六式艦上戦闘機)は、テストが開始されるや画期的高性能を発揮し軍関係者を驚かせましたが、陸軍も本機に注目し、海軍の了承を得て同期の陸軍版をキ18として1機試作させます。
主な改修点は、スロットルレバーの操作方向や兵装などの陸軍方式への変更で、外見的に9試単戦とほとんど変わらない機体でした。
キ18は1935年8月に完成し、陸軍側技研、明野飛行学校などでテストされ、一部に増加試作を行うべしという意見も出ましたが、結局海軍機採用では陸軍の面子が保てないという考えが大勢を占めたため、本機の採用は見送られ、改めて1936年4月に新戦闘機試作が3社に指示されることになったのです。
三菱キ33試作護衛戦闘機
次はキ33試作護衛戦闘機について。
スペックは全幅11.0m、全長7.5m、全高3.2m、翼面積17.8㎡、自重1,130kg、全備重量1,460kg、エンジン ハー1甲、最大速度475km/h、上昇時間5,000mまで6分、航続距離1,100km、武装 7.7mm×2、乗員1名。
陸軍は1936年4月、中島、三菱、川崎の3社に時期主力単座戦闘機試作を命じました。
三菱は海軍の96艦戦を陸軍向けに改造したキ18を前年の8月に陸軍に引き渡し、テストを受けましたが採用に至らなかったため、同期のエンジンを強化し、半密閉風防とするなどの改良を加えたキ33を、1936年8月に早くも完成させて陸軍側に引き渡します。
1936年11月から立川で行われた軍の審査では、格闘戦向きでなかった川崎キ28が最初に失格になり、キ27とキ33の一騎打ちとなりましたが、中島側が次々に改良を加えて来たのに対し、三菱側はキ18の経験から、海軍機から発達した機体を陸軍が採用する可能性はほとんどないと予測して全く手をかけずに推移を見守るだけとしました。
この結果1937年12月、キ27が97戦(九七式戦闘機)として制式採用されることになったのです。
川崎キ28試作戦闘機
最後に川崎航空機の機体を紹介します。まずはキ28試作戦闘機です。
スペックは全幅12.0m、全長7.9m、全高2.6m、翼面積19.0㎡、自重1,420kg、全備重量1,760kg、エンジン 川崎ハー9-Ⅱ甲、最大速度485km/h、上昇時間5,000mまで5.2分、実用上昇限度11,000m、航続距離1,000km、武装 7.7mm×2、乗員1名。
キ28は1936年4月に陸軍が提示した時期単座戦闘機試作要求に応じて川崎が試作したもので、競作された中島キ27、三菱キ33がいずれも空冷エンジンを採用したのに対し、川崎伝統の水冷エンジンを採用したのが最大の特徴です。
また、風防はスライド式半密閉型、冷却器は手動引込み式を採用、主翼アスペクト比を7以上とし、捩り下げを付けるなど、高速、運動性の双方を狙ったデザインでした。
そして1936年11,12月に2機完成し、立川でキ27、キ33と共に比較審査に参加します。これら3機は一長一短があり実力は拮抗していました。
キ28は3機の中で最大速度、加速力、上昇力が最も優れていることを示しましたが、近接格闘戦を最重要視する陸軍の方針に合致しなかったため、翌年3月、本機は不合格となり、上記にも書いたようにキ27が制式採用となったのです。
川崎キ60試作重戦闘機
次にキ60試作重戦闘機を見てみましょう。
スペックは全幅9.8m、全長8.4m、翼面積16.2㎡、全備重量2,750kg、エンジン ダイムラーベンツDB601A、最大速度560km/h、上昇時間5,000mまで6分、実用上昇限度10,000m、航続距離800km、武装 20mm×2、12.7mm×2、乗員1名。
1940年2月、陸軍は川崎に対し、ドイツ型DB601A液冷エンジンを搭載する防空用高速重戦闘機キ60の試作を命じました。
DB601Aはハ40として川崎でライセンス生産されることが決まっていて、同エンジン搭載の軽戦キ61も同時に発注されたのですが、川崎ではキ60の設計を優先させ、1941年3月に試作1号機を完成させます。
短めの胴体に16.2㎡という小面積の主翼を組み合わせ、当時としては172kg/㎡という高翼面荷重を採用し、何よりも一撃離脱戦法に徹したデザインが特徴でした。
キ60は3機試作され、1941年6月各務ヶ原において、当時ドイツから輸入したメッサーシュミットBf109E、及び中島が開発した重戦キ44(二式戦闘機)との比較審査にかけられ、性格的に共通しているBf109E相手には良い勝負をしたものの、蝶型フラップを持つキー44には旋回性能で及ばず、ダッシュ性能でも劣ることが明らかになったのです。
しかし20㎜×2、12.7㎜×2という武装は3機種中もっとも強力だったことは特筆に値します。
結局キ60は重戦としてはキ44に劣り、続いて開発されたキ61が予想外の高性能(とくに速度は30km/hも速かった)を発揮したため試作のみに終わりました。
川崎キ64試作高速戦闘機
次はキ64試作高速戦闘機についてです。
スペックは全幅13.5m、全長11.0m、全高4.0m、全備重量5,100kg、エンジン ハー201、最大速度690km/h、上昇時間5,000mまで5.5分、実用上昇限度12,000m、航続距離1,000km、武装 20mm×4、乗員1名。
川崎では前面面積の小さい液冷エンジンの特性を生かした高速戦闘機の研究を続けてきましたが、ドイツのDB601Aをライセンス生産することが決定した後、これを串型配置としてコントラぺラを駆動することにより700km/h以上の高速を狙うプランを作りあげました。
1940年8月に陸軍はこの計画を認め、高速重戦闘機キ64として試作することを命じます。
川崎では串型双発に加えて、ラジエーターの抵抗減を図るため表面蒸気冷却法採用を決め、ドイツからの輸入機ハインケルHe100を参考にしました。また、来日していたハインケルのツェンガー技師から技術指導を受けます。
キ64は、東大航研の開発したLB層流翼型を採用し、全体のアレンジはキ61の拡大という形で進められましたが二重反転プロペラの双方を可変式とすることが技術的に困難だったため、試作1号機は前方プロペラのみ固定ピッチで作られることになりました。
1号機は1943年12月に初飛行しましたが、5回目のフライトで後部エンジンのオイル系から火災を発生、緊急着陸の際に脚を破損。その後修理と同時に前方プロペラを可変ピッチとする作業も行われる計画でしたが、戦局の悪化により本機のテストは中断されたままになってしまったのです。
このように様々な理由から正式に採用されることはなかったものの、高いスペックをもった戦闘機は多数存在し、これらがあったからこそ、現在名機と呼ばれる数々の戦闘機が生み出されたと言えるでしょう。