レプマートのお知らせ、情報を発信しています。

ゼロ戦はなぜ世界最強と呼ばれたのか

零戦 五二型 復元機 第七葉

一般にゼロ戦と呼ばれている、旧日本海軍の零式艦上戦闘機。

日本を代表する戦闘機であり、テレビゲームは全てファミコンと言ってしまうオジサン世代のように、軍用機であれば何でもゼロ戦と言ってしまう人が多い、名実ともに日本を代表する戦闘機です。

ゼロ戦に関しては様々な評価が為されており、評価をする人の立ち位置によっては駄作とも酷評され、また世界最強の戦闘機との称号が与えられることもあるなど、兵器や軍事に関する近現代史に詳しくない一般の人にとっては、漠然と「なんとなく有名な兵器」という程度の認識しかないものかもしれません。

ではそのゼロ戦。

なぜこれほどまでに日本人の心に焼きつき、日本を代表する戦闘機として未だに「伝説」となっているのでしょうか。

ゼロ戦が産まれた時代

ゼロ戦が初めて日本海軍に制式採用(装備として正式に採用)されたのは皇紀2600年こと。

昭和15年で、西暦1940年のこととなります。

Mitsubishi A6M Zero

By: Cliff

皇紀とは、日本の初代天皇とされる神武天皇が即位した年を皇紀元年とする暦の数え方で、戦前は今の西暦と同様の役割を持ち、広く日本に普及していました。

海軍では、兵器を制式採用した年の下2桁を航空機の名称とする慣例があったために、皇紀2600年の採用であることから、零式艦上戦闘機、すなわち零式と命名されました。

なお、皇紀2599年に制式採用された、日本を代表する爆撃機の名称は、九九式艦上爆撃機と言います。

この時代はまさに、日本は対米英との戦争に踏み切るのか、和平を模索するのかという緊迫した時代。

その一方で、中国大陸では日本は中華民国と日中戦争で激しい戦争を繰り広げている最中であり、中華民国は米英ソ連などから武器や兵器、弾薬や将校による戦争指導の支援を受けるなどしていたことから日本は大変な苦戦を強いられていました。

特に中国内陸部への爆撃任務を行っていた九六式陸上攻撃機は、ゼロ戦の誕生以前、日本海軍には航続距離の短い戦闘機しか存在しなかったことから護衛戦闘機無しで中国大陸奥地まで爆撃任務につくことが多く、結果として撃墜されることが多くなるなど、被害を累積させて行きました。

そのような時、日本海軍から三菱の堀越二郎氏に出されたのが、新型戦闘機の開発要請。

すなわち、格闘戦(戦闘機同士の戦闘)に強い強力な武装、日本から離陸して中国大陸の奥地まで爆撃機の護衛任務につき、しかも帰還できる長大な航続距離、旋回性能などの常識はずれな運動性能などを要求する、当時の日本では実現不可能とも思われた戦闘機の開発要請です。

当然のことながら、強力な武器を搭載すれば機体は重くなり航続距離と運動性能が犠牲になります。

逆に航続距離や運動性能を高めるためには機体を軽くする必要があるため、重武装など詰めるはずがありません。

しかも当時、日本には強力な航空機用のエンジンがなく、欧米の航空機に比べエンジンの出力は技術的に極めて劣っており、欧米の戦闘機と互角に戦うだけの出力も速度も機体できないことから、そもそも格闘戦で敵戦闘機を一撃必殺にする、重武装を積むというだけでも無理筋の話でした。

なお、日本の航空機エンジンの劣勢は結局戦後まで解消すること無く、21世紀の現在においても日本は航空機エンジンの技術的劣位は解消しておらず、初飛行で話題になったMRJ(三菱・リージョナル・ジェット)も、エンジンには米P&W(プラット・アンド・ホイットニー)社のエンジンを搭載しています。

堀越技師はどう応えたか

このような日本海軍からの無理筋な要請に、三菱の主任技師だった堀越二郎氏はどのように応えたのでしょうか。

それは、「全ての防御と耐久性を犠牲にすること」でした。

すなわち、出力的に劣ったエンジンで航続距離を叩き出すために機体重量を極限まで軽くすること。

これはもちろん運動性能の向上とイコールになります。

そして機体を極限まで軽くした分、敵の軍用機を一撃必殺にできる強力な重武装も搭載できるようにすること。

このような答えを用意して、新型戦闘機の設計・開発に取り組みました。

そしてこの回答から産まれた戦闘機が「ゼロ戦」。

当然のことながら、敵の攻撃に対する防弾設備など一切ありません。

それどころか、戦闘機の骨組みに至るまで穴を開け機体の軽量化をg単位で追求した結果、戦闘機本体の耐久性も非常に脆弱なものとなり、水平方向の運動性能(旋回)は極めて優秀なものでした。

しかし、垂直方向(上昇・降下)の荷重に耐えられない機体となり、急降下時には主翼がもげるなどしたため、敵との戦闘中であっても、急降下による攻撃・離脱が出来ない機体となりました。

もちろん、防弾性能がないことから敵の機銃弾が主翼をかすめただけでも火だるまとなり、またパイロットの座席背後にすら防弾板もないため、一度敵に背後を取られたら最後、確実に撃墜される極めて極端なスペックの機体となりました。

某人気マンガの敵役がつぶやき有名になったセリフ、「(あた)らなければどうということはない」という、ある意味で誰もやらなかった恐怖の考えを何のためらいもなく貫いた思想。

その姿はまるで、切れ味鋭い一撃必殺の日本刀一本だけを片手に、もろ肌を見せながら敵の集団に突っ込むような、時代劇の剣客のような思想の戦闘機で、「日本的美意識」が生み出したとも言える、他人事であれば美しく思えるものの、我が事として捉えれば恐怖が先走るような、非常な決意のもとに産まれた戦闘機でした。

ゼロ戦の栄華と壊滅

このようにして産まれた日本を代表する戦闘機、「ゼロ戦」。

その初陣はとても華々しいもので、1940年中国大陸における空中戦でした。

中国大陸上空を飛行していた、編隊飛行中のゼロ戦13機。

そこに中国軍のソ連製戦闘機、I-15、I-16が襲いかかります。

陸上戦闘以上に数がモノを言う当時の空中戦。

日本の戦闘機に比べ倍以上の数であった中国軍機はかさにかかってゼロ戦に襲いかかりました。

当時の常識では、日本側の惨敗が予想される極めて劣勢の状況でしたが、結果としてゼロ戦の13機編隊は、中国軍機27機を全機撃墜。

しかも日本側には被害は皆無という奇跡的な戦果を収めました。

練度の高さもさることながら、ゼロ戦という日本的思想が結実した、信じがたい戦果を上げることとなったのです。

このような中国大陸での信じがたい戦果を、欧米は当初一切信用せず、日本にそんな戦闘機が造れるわけがないと、情報を軽視したことから対応策が遅れ、そのまま1941年、昭和16年の太平洋戦争の開戦まで、米軍を始めとした連合国側は、これといった対抗策を採ること無く開戦を迎える失策をしでかすこととなります。

そして太平洋戦争の回線劈頭。

熟練パイロットの神業のような操縦技量にも支えられた日本海軍のゼロ戦は連合国側の戦闘機、爆撃機、攻撃機を次々と撃墜し、「ゼロショック」で世界を震撼させることとなりました。

特に、日本軍と正面からあたることになった米軍にはそのショックが大きく、「ゼロと低気圧に遭遇をした場合、命令に反してでも逃げて良い」という通達が為されたという逸話を残しています。

しかしながら、その状況も長くは続きませんでした。

すなわち、防御性能が低いということは、まぐれの一発が命中するだけでもベテラン搭乗員が命を失うという、何にも代えがたい技量豊富なパイロットを失うという現実。

また、どれほど運動能力に優れていても、ゼロ戦は急降下が出来ない脆弱さを持っていることが判明してしまえば、ゼロ戦に遭遇すれば急降下で逃げてしまえばいいだけであり、次第にゼロ戦は全く戦果を上げることができなくなりました。

それどころかパワーに勝る米軍戦闘機に格闘戦すら相手にしてもらえない「一撃離脱」戦法の導入により、開戦から1年後には、全く戦果を挙げられない状況に追い込まれ、やがて旧式化し米軍の「スコア稼ぎ」の的になっていきます。

ゼロ戦が日本人に残したもの

一方で、米軍の戦闘機開発思想は当時、どうのようになっていたのでしょうか。

当時、日本の兵器開発思想に対して、アメリカ軍が最も大事にしたものは、パイロットの命でした。

それは決して安っぽいヒューマニズムや人情などという非合理的な思想の結果ではなく、国家同士の全面戦争において、兵器は簡単に得られるが熟練パイロットは一朝一夕には得られないという結論に達していた米軍にとって極めて合理的な帰結であり、敵の攻撃の1回や2回で熟練パイロットが死ぬのは割にあわないと考えたことに因るものです。

そして多くの人が知るように、熟練パイロットの多くを失ったことと呼応するように、日本海軍は攻勢から守勢に転じ、やがて1944年、終戦に先立つこと1年前のレイテ沖海戦において、日本海軍は組織として完全に壊滅しました。

物量や兵器の性能、あるいは組織力といった総合力でも劣っている戦いを、個人の属人的な努力や能力で補おうとする思想。

そのような日本人の文化や思想の結実して産まれたゼロ戦は、超人的な先人の活躍で世界を代表する兵器として名を残しましたが、それは属人的であったがゆえに、極めて短期間のうちに、まるで春の陽の桜のように、とても短期間のうちに歴史上から姿を消しました。

このような儚い強さと美しさを好む日本人の美意識に合致したゼロ戦は、結果として今でも日本人に愛される戦闘機となったような気がしますが、そこから得られる教訓を正しく抽出すること。

それこそが、今を生きる日本人にとって、「ゼロ戦」が残してくれたものなのかもしれません。

16 COMMENTS

零戦が急降下攻撃出来ない理由は機体強度ではなく、エンジンなんだが…
実際、急降下攻撃自体はやってるし。

返信する
ジャッキ―

零戦は時速600km付近で舵が全く効かなくなり、米軍機は時速800km付近でも舵が効きます。
急降下制限速度と言うのがあり零戦は著しく低い。
それは機体の強度がぺらぺらに薄いためです。
ただ単に機種を真下に向けても制限速度内ならば問題が、零戦の場合時速500kmから舵が重くなり600km付近で効かなくなり、そのまま地面に突っ込むか空中分解のいずれかです。

返信する
まるゆ

あまり詳しくはないものの、そもそも同じ環境・国力があればあるいは新型機において重装甲な機体も作れたかもしれないが、文中にもあるようにエンジンが弱かったし資源も乏しい状態で作れる物にも限界があったとも言えるのではないか。
別に人の命を軽視していたわけではなく、戦うのにそれしかなかった。
それが最終的に国と国民の命を守ることになると信じて戦っていた、だから終戦間近のほとんど新兵だらけな状態でさえ指揮が高く守るために死んでいった。
でも、そんな無いものが多い中でもやりくりしてゼロ戦を作り出し、登場時には世界最高の戦闘機を作り上げることに成功している所が凄い。
聞くところによると、オーストラリアにおいて英最新鋭機スピットファイア(ドイツ最新鋭機を撃退したほどの機体)との戦闘があり、英側50余機を投入、日本側は45機投入したようで、撃墜された数は日本側3~5機、英側23~45機(諸説あり?)とほぼ圧勝、英側が格闘戦にこだわったこともあったそうですが、格闘戦で強かったことに間違いはないという証明にもなります。
米も一撃離脱先方に変えざるを得なかったとも言え、それほどゼロ戦の格闘は強かったんでしょう。

返信する
通りすがり

零戦を始めとする日本軍機が使用した増槽は後の戦闘機の規範になりました。そして零戦の軽量化技術は現在まで米国の航空機に活用されています。エンジンが非力というハンデが皮肉にも零戦という稀に見る傑作機を生み出す原動力になったという点は見逃せません。

また同時期に中島航空機の小山悌氏を主幹とするチームが一式戦闘機隼を完成させています。そしてそのコンセプトは零戦を更に一歩発展させコストダウンにまで踏み込んだものです。つまり零戦より相当安く、同等の性能の機体を作ることに成功しているので、本来ならば隼の方が先に評価されるべきだと思われます

むしろ零戦の生産性はフレームの穴あけ部分を見ても想像できる通り、かなり悪く、工業力の乏しい日本にとってはむしろ足かせになった点を考慮すべきではないでしょうか? あの穴開きフレームの開口部全てにフリンジが立てられ強度補強をしています。見た目の通りその工数は凄まじく、米軍の計算ではF6Fのおよそ4~10倍の手間が零戦1機当たりかけられていたと言われています。現在のクルマでもF1などの特別なレーシングカーでない限りこれほどの手間をかけることは不可能と言われるほどの職人芸です。こういったスペシャルな機体より隼の様な普通の量産機で零戦に匹敵する性能を叩き出していた方がむしろ驚きだと思いますね

返信する
あさひ

相当間違っております。零戦開発当時に、日本には防弾板はありませんし考えられてすらおりません。急降下が出来なかった戦闘機は隼であって零ではありません。また初陣では、反転しての零戦側からの攻撃であって、攻撃を受けた訳でもありません。また攻撃を受けた場合零戦には自動消火装置が取り付けられており、米軍も感心したと言う記述があります。もっとよく調べてから書いてください。

返信する
あさひ

通りすがりさん、隼がお好きなようですが、事実を曲げてよい物ではありません。1式も2式も重大な欠陥を抱えた欠陥機です。2式は今回は言いませんが、1式は、急降下に入れば即座に空中分解を起こす事実上の空飛ぶ棺桶でした。しかも零戦より貧弱な武装に関らず、全ての性能面において零戦に劣りました。連合軍からの評価も辛辣で、陸軍機は海軍機よりも劣っていると評価されています。隼の代わりを零戦は努める事ができますが、隼が零戦の代わりを務める事は出来ません。

返信する
あさひ

もう1つ書き忘れておりました。日本が敗勢に陥った最大の原因は零戦パイロット減少ではありません。熟練攻撃機搭乗員の減少です。日本の爆攻撃機は、一式陸攻に象徴されるように、防弾板も何もなく掠っただけで火を噴きあっと言う間に火だるまになって落ちました。当然搭乗員も助かる訳もなく全滅しました。これにより、対地、対艦攻撃力も一気に減少し如何に空中戦で優位に立っても相手に大きなダメージが与えられなくなりました。空中戦の主役は戦闘機ですが、実際の勝敗を分けるのは、爆撃機です。これの勘違いが非常に多いので気を付けましょう。

返信する
プラモデラー

実際は、戦闘機同士の空中戦では、ほとんどアメリカも日本も戦果を挙げていません。戦果を挙げたと言えるのはドイツだけです。
特攻作戦により、戦艦等の砲弾を受けて9機が墜落1機が、命中しました。ほぼ特攻作戦で撃墜されています。米兵も死にたくないので防ぐのに必死でしたから。

返信する
サステナブルエンジニア

まあダイセルの久保田博士の材料物理数学再武装読んでごらん。全体最適のトレードオフに関する日本的な数学理論が展開されているから。

返信する
マルテンサイトトライボロジー

DX教育の真の目的が語られている奴ですね。噂によると今ではとてもポピュラーになったマテリアル開発の社会実装の栄えある成功者らしいですね。ナノテクノロジー関係者はもっと賞揚すべきだと思いますが。

返信する
グリーン経済

SLD-MAGICというマルチマテリアルのコア技術を社会実装されているかたですね。

返信する
戦闘物オタク

当時の戦闘機としては、超ジェラルミン製?の機体としては、凄い物だったと思うが、さすがに至近距離からの銃撃には、ワンショットライターの渾名がつけられてしまった。まぁ…江戸時代終焉から70年余りで、ここまでやり、(ロシアを破ったのも奇跡だが)アメリカに挑む(戦わざるを得なかった)だけでも凄い(悲劇)。零戦開発、少し前迄、布張り製複葉機ばかりだったから大変な進歩だったのだが、戦場に出された兵員にはたまったもんじゃ無かった…戦死された方々には敬意を払うと共に今の日本は、まさに軽さ小型化が正義になった世に感謝して、平和が続いて欲しい。👮

返信する
平和利用したい飛行機好き

太平洋戦争初期のほんの一時だけ、零式戦闘機が、華々しく見えていただけ。例えば腕相撲世界一の猛者が、テーブルに腕を立てたまま酒で泥酔してるところへ決起盛んな中学生が、隙ありと一気に全体重を乗せて倒したに過ぎない。ここまでがハワイ真珠湾奇襲攻撃。しかし目覚めた猛者は、怒り狂い、本気モードに…後は、御存知の通り。戦艦大和も然り…パナマ運河やスエズ運河を大型艦船通過の制限上で、大和の様な弩級戦艦が、建造出来なかった米英欄等、連合国を尻目に日本海軍は、弩級戦艦大和及び武蔵を建造。(ワシントン条約で軍艦保有率制限等もあったが為)世界最大主砲46インチ砲を備えて、制海権を狙った日本だったが、敵は高性能レーダーを備え、33ノット以上出せる高速巡洋艦を多数備え、大和と正面撃ち合いを避け、消耗戦で、最後は燃料さえジリ貧、勝負にならなかった。司馬遼太郎氏では無いが、元々、工業力、資源が、100倍の敵と対する力等無かっただけ。しかし戦ってしまった。要は当時の国力で良く、あそこまで戦ったと思う。米英だけは、中露以上だったと言う事。零戦の軽量化は、今の時代なら、正に正義だったろう。

返信する

Lisa へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です