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勇気1つを友に。ヴィクトリア十字賞

コミック「サイボーグ009」の中で、印象に残っているシーンがあります。

BRITISH - CIRCA 1990: mail stamp featuring the Victoria Cross gallantry medal, circa 1990

BRITISH – CIRCA 1990: mail stamp featuring the Victoria Cross gallantry medal, circa 1990

主人公009と、同じく加速装置を持つ上に他の能力も持つ強敵のサイボーグ「アポロン」との会話です。

「君の能力はまさか加速装置だけじゃないだろうな」「あとは・・・勇気だけだ!」「なにっ」。

どこの戦場においても、兵士の勇気は大きな武器の一つと言えるでしょう。

ヴィクトリア十字章(Victoria Cross)は「敵前において勇気を見せた軍人」に対して授与され、英国連邦の軍人の最高の戦功賞とされています。

しかし、この勇気のハードルは、他国の戦功賞に比べると異常なまでに高いのです。

ジェームズ・ニコルソン大尉

戦闘機パイロットとして、第二次大戦で最初にこの十字章を受けたのは、ジェームズ・ニコルソン大尉です。

バトル・オブ・ブリテンが本格化し始める1940年8月、彼のハリケーンはメッサーシュミット Bf110の強力な機銃弾を浴びました。

ハリケーンは火を噴き、ニコルソンはふくらはぎの肉を削がれ、踵を吹き飛ばされ、出血で一時的に片目が見えないという状態で戦い続け、自分を撃った敵機を撃ち落とした後、やっと脱出して一命をとりとめました。

このとき、熱で腕時計のガラスが溶けていたということです。

チャスタイズ作戦」は、ドイツ工業力の源であるルール工業地帯にある3つのダムを破壊しようというもので、1943年5月に実行されました。

名機アブロ・ランカスター19機は、ダム破壊用の専用爆弾を抱いて超低空で反跳爆撃を行うという危険な任務に赴き、ダム2つの破壊に成功しましたが、8機が未帰還機になるという、大きな被害を出しました。

その作戦の隊長を務めたのが、弱冠25歳のガイ・ギブソン大佐でした。

彼は生還してビクトリア・クロスを受けることが出来ましたが、強運を使い果たしたのか、翌年戦死してしまいます。

ここまでは、このハードルの高いヴィクトリア十字章を、五体満足で(?)十字章を受けられた例です。

次からは徐々に凄惨の度を増していきます。

ロバート・シャーブルック大佐

1942年12月、商船14隻と護衛の駆逐艦など11隻からなるJW51B船団が、厳寒のバレンツ海へと出港します。

目指すはソ連で、商船は連合国から、ソ連への武器など支援物資を満載していました。

しかしドイツはこの船団の壊滅を「レーゲンボーゲン」の作戦名で画策、重巡 アドミラル・ヒッパー(60口径20.3cm連装砲4基)、>リュッツォウ(28.3cm52口径3連装砲2基)と駆逐艦5隻という、艦砲の力において護衛にはるかに優る艦隊を差し向けます。

荒天で航空支援も受けられず、戦力も圧倒的に不利な中でも、護衛艦隊は果敢にこの大敵に立ち向かい、多大な犠牲を払いながらも商船には1隻の犠牲も出さずに守り抜いたのです。

しかし旗艦オンスロウは、アドミラル・ヒッパーの主砲を被弾して大破、乗員の3分の1が戦死し、この船団の指揮官であるロバート・シャーブルック大佐は、ほとんど失明する重傷を負います。

ソ連に着くと彼にヴィクトリア十字章授与のニュースがもたらされますが、彼はこの十字章は全員のものだ、というメッセージを負傷の床から乗組員に送ったのでした。

J・W・ハーヴェイ海兵少佐

1916年に行われた「ユトランド沖海戦(ドイツ側呼称 スカゲラーク沖海戦)は、イギリス150隻、ドイツ99隻という空前絶後の大海戦で、双方合わせて戦艦・巡洋戦艦だけでも58隻というスケールでした。

イギリスの旗艦 ライオンは、ドイツのリュッツォウ(これは先代です。)からの主砲が中央砲塔を貫通して、そこにいた要員のほとんどを吹き飛ばし、弾薬庫で火災を発生させます。

このまま誘爆が続けば、一瞬で轟沈したクイーン・メアリーや、インデファティガブルと同じ運命をたどったかもしれません。

しかしこの時、弾薬庫指揮官 J・W・ハーヴェイ海兵少佐は、誘爆を防ぐために弾薬庫への注水を命じました。

しかし、この命令は、足を砕かれて動けくなっていた彼にとっては自らの死をも意味するものでした。

ためらうことなく、自分の命と引き換えに艦を救った彼に十字章が追贈されたのでした。

ロバート・グレー大尉

少し変わったところで日本に慰霊碑がある授与者の話です。

1945年8月9日、宮城県女川町には日本海軍の軍用艦艇が残っており、それを目標にして空母「フォーミタブル」から爆装した、8機のF4Uコルセアが飛び立ちます。

この隊を率いるカナダ海軍のロバート・グレー大尉は対空砲火により被弾しながらも、海防艦 天草に250キロ爆弾を命中させますが、そのまま機は墜落して戦死し、この大戦でのカナダ人最後の戦死者となりました。

この空襲では湾内の軍用艦艇が全滅、10名以上の民間人を含む百数十名の死者を出しましたが、その指揮官であるグレー大尉のために女川の人々は自主的に慰霊碑を作ったのでした。

多くのヴィクトリア十字賞受賞者を生んだ、マーケット・ガーデン作戦

The Victoria Cross medal

オーバーロード作戦が史上最大の作戦とすれば、「マーケット・ガーデン作戦」は史上最大の失敗作戦と言えます。

空挺師団によって4つの橋を確保し、しかるのちに機甲師団が進軍するというこの計画は、タイミングのズレが致命的な結果を招きかねませんでした。

事実、さまざまな要因から連合軍の攻撃は遅滞し、降下して最後の橋、アーンエムを攻撃したジョン・フロスト中佐の部隊は孤立して救援も得られないまま、ドイツ軍守備隊に圧倒されていきます。

こういった中で多くの兵にビクトリア十字章が授与されましたが、これは逆に戦況を物語っています。

ジョン・グレイバーン中尉は、ドイツ軍からアーンエム橋を奪取しようとした攻撃に参加しますが攻撃は頓挫。

中尉は顔面に重傷を負いながらも、味方全員が撤退するのを見届けるため橋の上に留まって戦い続け、戦死を遂げます。

L・E・ケイリペル大尉は、腕と顔を負傷しながらも、投げつけられた手榴弾を投げ返すなどして味方が退却するのを援護し、戦死するまで手榴弾を投げ続けました。

ジョン・ダニエル・バスキーフィールド軍曹勤務伍長は、敵戦車数両を撃破するも味方の砲兵が全て戦死、自らも負傷しますが後退せずに戦死するまで対戦車砲を撃ち続けました。

故郷には、対戦車砲の砲弾を持った彼の像が建っています。

空ではダコタ輸送機の操縦手デイビット・ロード大尉が、フロスト中佐の部隊に救援物資を投下しようとして、機が火ダルマになっても最期まで操縦を続けました。

ユージン・エスモンド少佐

戦艦 ビスマルクを沈められた後にドイツ海軍は命運を賭け、英仏海峡を突破してノルウェーに向かおうと「チャンネル・ダッシュ作戦」を行います。

しかし、その時点でロイヤルネイビーともあろうものが旧式艦しか動員できない状態で、「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」「プリンツ・オイゲン」とまともには撃ち合えません。

そこで航空兵力が頼りにされ、ビスマルク攻撃にも参加した825飛行隊の「ソードフィッシュ」6機が出撃しました。

しかし、必須である味方戦闘機の護衛がなく、逆に敵には直衞機が雲霞のごとしでした。

対空砲火と戦闘機の攻撃に晒され、旧式のソードフィッシュは1機また1機と落とされ、遂には全滅の憂き目に会います。

この光景を見ていたシャルンホルストのホフマン艦長に「ああ・・・かわいそうに。あんなにのろくては自殺同然だ」と同情されるほどの惨劇でした。

その代償に投下した魚雷も全てかわされてしまった上に、生存者は18人中わずか5人でした。

隊長であるユージン・エスモンド少佐には、軍の失態を覆い隠すかのようにビクトリア十字章が授与されました。

その時は少佐の遺体は見つかりませんでしたが、授与式から約40日後にテムズ川河口に流れ着いているのが発見され、無念の帰国を果たしました。

ロバート・ケイン少佐

余りに陰惨になったので、一人くらい生存例を。

ロバート・ケイン少佐は対戦車火器を撃ちまくった挙句、対戦車兵器PIATの暴発で一時昏倒しましたが、無数の破片が顔に食い込んでいるにもかかわらず、モルヒネ注射を断ってまた戦い始め、戦車だけでも6両を仕留めたのです。

彼と日本軍の舩坂弘軍曹、ドイツのハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐、フィンランドのシモ・ハウハ少尉と、この4人だけで世界征服可能かもしれません。

どんなに劣勢であっても、ひるまずに戦うイギリス軍人の「見敵必戦」の精神がこの勲章には体現されているのですが、絶望的な状況で絶望的に戦い、その挙句に死んでから追贈されることが多く、生きて受けることは難しいのです。(第二次大戦中空軍の受賞者はわずか32人で、さらに生きて貰ったのは7人だけです)

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