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日本における軍用手票(軍票)

50 Sen Military Currency from the 1940s (front)

軍用手票とは

一般には軍票という略称で知られている軍用手票は、戦争時に発行される戦地で用いられる臨時紙幣の一種である。

旧日本軍が太平洋戦争で使った軍票は、経年劣化こそ進んではいるが、現在でもネットオークションや骨董品市場などで、それなりに見かけることもできる。

戦争をするに当たり、攻め込む側の前線部隊は、本国から必要物資が潤沢に届けば問題はないのだが、多くの場合はなかなか必要な量を満たせず、ある程度の現地調達が行われることが一般的である。

その際、近代以前は軍事力を背景に強制的に現地住民から巻き上げる、いわば強奪の形で行われることが多く、代金を支払って購入することはほとんど行われなかった。

しかし、当然のことながら、強制的に物資を徴発することは住民の反発も大きく、仮に占領した際も統治がうまくいかなかったり、最悪の場合だと怒った住民がゲリラ化して、後方を脅かされることも考えられた。

実際にそれが表面化したのが19世紀初頭のナポレオン戦争であったが、その反省を踏まえて1815年、ワーテルローの戦いにおいてイギリス軍は、物資を現地調達する際に、金額を書いた領収証を切って渡し、後日に改めて領収証をもとに現金を支払う方式を導入した。

いわばツケなようなものだが、この領収証が世界史的に軍票の起源であるとされる。

すぐに物資を現金で払わないのには理由があり、戦時に必要な物資は膨大な量にのぼるため、いちいち現金で支払っていると通貨の流通量が追いつかないためである。

ならば通貨を増刷すればいいようにも思えるが、戦地で使われた通貨は最終的には回り回って自国へと還流してくるため、貨幣価値が下落して極端なインフレを引き起こしてしまうことになり、自国経済の混乱と、自国通貨の物資購買力の低下を招いてしまうことになる。

現金ではなく期限付きの軍票で仮払いしておけば、その都度で精算すればよいため、急激に通貨を大量発行することを抑えることができる。

また軍票の精算を忘れてしまうこともあるため、実際に発行した軍票の量よりも支出は抑えられることも見込める。

このように通貨を増刷する量などをコントロールできることが、軍票のメリットとなるため、軍票はプリペイドカード型(現金ではなく一種の電子マネーやポイントのような使い方をするもの)などバリエーションを増やしながら、現代においてもしばしば用いられている。

日本における軍票のはじまり

日本における軍票のルーツは、西南戦争時に薩摩軍が発行した西郷札であるとされる。

西郷札は布を貼り合わせて漆にて印刷をした簡素な紙幣で、有効期限は3年であるとされた。

薩摩軍はこの西郷札でもって物資の調達を行ったが、そもそも現金が不足しているために発行したものであるため、正規の政府機関が発行する軍票のように財務的な裏付けはなく、後日支払いの保証はほぼ何もない悪質な借用書に等しかったことから、住民からは嫌われたという。

日本の政府と軍が正式に軍票を発行したのは、1904年勃発の日露戦争のときである。

日本側は縦長方形で、印刷のクオリティも正規の日本銀行券よりやや簡素な軍票を発行し、大陸で使用した。

現地での利便性を考えて、ハングルでの但し書きが書かれているのが特徴であった。

続く第一次世界大戦における青島出兵では、同盟国のイギリスのために英語の但し書きが、シベリア出兵ではロシア語の但し書きが加筆された、日露戦争とほぼ同じデザインの軍票が使用された。

日中戦争での軍票

日中戦争は当初は短期間で終了させる見込みをしていたため、日本側は軍票を本格的に用いる予定はなかったが、想定外なほど戦線が拡大し長期戦の様相を呈したことから、軍票が用いられることとなった。

その際、中国国民党が発行する通貨である法幣と、中国大陸で物資の争奪戦を行う展開となったことから、日中戦争は軍票vs法幣の経済戦の側面を見せていくことになる。

米英の支援を受けてスターリングポンドと密接にリンクした、れっきとした通貨である法幣に対し、日本側は軍票の価値をいかに維持していくかに腐心した。

支那派遣軍経理部上海事務所(七号事務所)は秘密資金を使い、法幣と軍票との交換レートを一定に維持するための介入工作をしばしば行っていたことが知られる。

つまり法幣高・軍票安だと軍票での購買力が落ちる上に、日本円の価値下落にも繋がりかねないため不都合であり、逆に法幣安・軍票高だと好ましいように見えるが、軍票は事実上、法幣との連動によって中国大陸市場での価値が維持されていたため、法幣安が進むと最終的には引きずられるようにいずれ軍票安にもなってゆくことから、レートがどちらかが有利に寄ることを避ける必要性があったのである。

太平洋戦争が勃発すると、上海にあった米英の租界は日本軍に接収され、英国領の香港も占領されたことから、連合国は法幣を支援するための金融拠点を喪失した

さらに、その前後に上海で金融テロ事件も発生したことから、法幣の価値は急速に下落してゆき、法幣と軍票の価値をちょうどいい相場に維持していくことは困難になりつつあった。

すでに日本の傀儡政権である汪兆銘政権の中央儲備銀行が、独自通貨である儲備銀行券を発行するようになっていたことから、1943年には軍票の増刷を停止して市場に流通している分は順次回収し、日本円とは直接的な繋がりを持たない儲備銀行券を軍票代わりに使用していくことになった。

日本が日中戦争で用いた軍票は非常に多くのデザインがあり、日露戦争以来の伝統的な縦長方形タイプの甲号から、次第に横長方形の日本円の札(日本銀行券)のデザインを流用した乙号以降へと変化していった。

香港での軍票と日本の敗戦

中国大陸では軍票から儲備銀行券に取って代わられた後も、香港や海南島では軍票が引き続き使用されることとなった。

当初は香港の基軸通貨である香港ドルと日本の軍票が並行して使われていたが、香港ドルを外貨として獲得し、中立国のポルトガル領マカオでの物品購入に流用する目的もあり、1942年から香港ドルと日本軍票の交換が行われるようになった。

当初は軍票1円につき香港ドル2ドルのレートで交換されていたが、日本側は徐々にレートをつり上げて軍票1円につき、香港ドル4ドルまで上昇。

1943年7月には香港ドルの使用が全面的に禁止し、すべての香港ドルを軍票に交換するように香港住民に義務づけるようになり、いわば香港ドルの強制的な巻き上げが加速していった。

これは香港ドルを所持していた場合は厳罰に処するという、他国ではほとんど例がないかなり過激な規定も加えられており、実際に日本の憲兵隊による香港ドル隠しの捜索は執念深いものだったようである。

財産管理の面から香港ドルを資産として故意に隠し持ったケースもあるが、日本軍がマカオで支払いに使った香港ドルが、マカオ経由で香港の闇市に還流して使われるケースもあったようで、香港ドルの交換忘れなどにより日本の憲兵隊に逮捕され、拷問死してしまった人までいたとされている。

日本が無条件降伏すると、降伏文書の中で法貨に関する覚書が連合国側と日本側で取り決められ、それにより中国大陸・香港・東南アジアなど占領地域で流通していた軍票は通用停止とすることが決められた。

そのため、軍票を保有していた人は一夜にして多くの資産を失うこととなり、とりわけ香港では一般家庭から富裕層まで、一瞬にして無一文になる人も続出するという異常事態になった。

戦後になり、香港住民が軍票の補償を求めて訴訟を起こした背景には、このような事情もあった。

一方で、日本本土を占領下に置いたGHQも、沖縄と同様に米軍のB型軍票(B円)を用いようとしたが、日本政府は必死の説得によりB円の使用を思いとどまられた。

これは戦時中に旧日本軍の軍票が、いかに占領地経済の混乱を招いたのかを政府が熟知していたため、軍票流通による本土の経済混乱を避けたかったためとされる。

そのため、B円は主に沖縄や本土の一部にのみ使用された。

2000年に発行された2000円札が本土では不評ながら沖縄県内で広く流通しているのは、沖縄ゆかりのデザインである以上に、B円には20円札があった名残で、他の都道府県民より違和感なく使用できるためともいわれる。

しかし、日本円を基軸通貨として高度経済成長を遂げていく日本本土に比べ、B円ブロックの影響で沖縄の高度成長は本土よりも立ち後れ、現代にまで続く沖縄問題にも暗い影を落としていくことになる。

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