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名は豪華でやがて悲しきイタリア海軍

イタリア海軍の艦艇は、艦名の華やかさは世界一です。

無論、戦艦「ローマ」のように他国と同じく地名がつくことも多いのですが、世界史の教科書(と塩野七生の著作)に登場する人物名を戴く艦名には枚挙に暇がありません。

第一次大戦当時の戦艦には「ダンテ」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「ジュリオ・チェーザレ」(ユリウス・カエサルのイタリア語読み)、1800年台末の装甲巡洋艦には「マルコポーロ」、「ジュゼッペ・ガリバルディ」(現用艦艇の軽空母にも同名あり)など。

第二次大戦時の潜水艦には「アルキメーデ」「ガリレオ・ガリレイ」「エヴァンジェリスタ・トリチェリ」、1800年台の巡洋艦には「クリストフォロ・コロンボ」(コロンブスのことです)「アメリゴ・ヴェスプッチ」などがあります。

政治家や軍人はともかく、科学者や芸術家がこれほど登場する海軍は世界に例を見ないでしょう。
(日本で、軍用艦艇に「うたまろ」「うんけい」「つらゆき」「ただたか」などと命名したらどのような反響があるでしょうね。)

いい加減食傷気味でしょうが、トドメは第二次大戦の「カピターニ・ロマーニ(ローマの司令官)級軽巡洋艦」の豪華ラインナップです。
(建造中止も含みます。)

「コルネリオ・シッラ」(コルネリウス・スッラ)、「ジュリオ・ジェルマニコ」(カエサル・ゲルマニクス)、「オッタヴィアーノ・アウグスト」(オクタビアヌス)、「ポンペオ・マーニョ」(ポンぺイウス)、「シピオーネ・アフリカーノ」(スキピオ・アフリカヌス)、「ヴィプサーニオ・アグリッパ」(アウグストゥスの腹心ガイウス・ウィプサニウス・アグリッパ)と、塩野七生の「ローマ人の物語」の第3巻までの主要人物が目白押しです。

それでは、このような華々しい名を持つイタリア海軍の活躍は、と言うと少し伏し目がちになってしまいます。

ローマ時代には地中海を「マーレ・ノストラム(我々の海)とまで豪語していたのですが、まずは1940年7月、イタリア本土からわずか50海里のカラブリア岬で敗戦に等しい痛み分けとなり(戦艦ジュリオ・チェーザレ中破)そのすぐ10日後、クレタ島近くのスパダ沖海戦でイギリス駆逐艦隊に全く損傷を与えられずに軽巡「バルトロメオ・コレオーニ」を失ってしまいます。

この後、「戦力温存」の名のもとに、イタリア最大の軍港タラントに戦艦6隻、重巡8隻、軽巡6隻が集結していました。

何せ先の2つの海戦では援護してくれるはずの空軍が全くアテにならないことが判明し、うかつに活動できなくなってしまいました。

かくて、イタリア海軍の主力は防雷網と阻害気球でまもられてひっそりと暮らす日々が続きましたが、この「我が家」でさえも安全ではなかったのです。

イギリス海軍は、潜在的脅威であるこれらのイタリア海軍艦艇に殴りこみをかける作戦を練っていました。

1940年11月11日21時、タラント軍港から約270キロまでそーっと近づいた英空母「イラストリアス(真希波ではありません。)から攻撃隊21機が颯爽と発進、と言いたいところですが、何せ例の「フェアリー・ソードフィッシュ」ですから、本人たちは必死でも、傍目には夜の散歩、という速度で敵の一大拠点を目指します。

イタリア側にも色々油断があったにせよ、「ガタピシのおばさん」「ストリング・バグ(ヒモで編んだ袋)」などと親しまれた(?)旧式機がもたらした戦果は驚異的なものでした。

戦艦「カブール」は着底(つまり沈没)、戦艦「ジュリオ・チェーザレ」「リットリオ」は大破して半年もの間戦線離脱を余儀なくされました。

生き残った艦艇はナポリ港に後退、地中海はイギリス海軍にとっての「マーレ・ノストラム」になってしまいました。

こうして目立った動きができなくなってしまったイタリア海軍ですが、そうも言っていられない事態が持ち上がります。

北アフリカ戦線のドイツ軍とイタリア軍への海上輸送が、マルタ島のイギリス基地に阻止され続けたため、遂に燃料輸送に快速の軽巡を使おう、ということになりました。

この任にあたったのが「アルベルコ・ダ・バルビアーノ」と「アルベルト・ディ・ギュッサーノ」、いずれもルネッサンス期の傭兵隊長の名です。

しかし、制空権を握っていたイギリス軍偵察機に発見されたため引き返す途中、イギリス駆逐艦隊と遭遇、というより気づく前に一方的に攻撃を受け、完全な奇襲の上に燃料を満載していた2隻は2分間の戦闘(?)で爆沈してしまいました。

一方、遠く紅海に面するマッサワの紅海艦隊は、開戦と同時にスエズ運河を封鎖されて孤立し、次々と撃沈され、先に書いた科学者潜水艦隊「アルキメーデ」「エヴァンジェリスタ・トリチェリ」も同様の運命をたどります。

中でも「ガリレオ・ガリレイ」は、艦内で塩素ガスが発生して浮上した所を、軍艦ではなく何と武装したトロール漁船の10センチ砲に艦橋を吹き飛ばされ、指揮官クラスが全員戦死して降伏するという結末を迎えました。

さて、イタリアが降伏した後もイタリア海軍の悲劇は続き、連合軍に降伏後、その傘下に入るべく戦艦3、軽巡3、駆逐艦8で隊伍を組んで航行していました。

しかし、イタリアの「裏切り」を許さないヒトラーによって、ドイツ空軍にはこの艦隊への攻撃命令が出ていました。

6機のドルニエ217Мは、その細い機体には不似合いな大きな爆弾、通称「フリッツX」と呼ばれる誘導爆弾を抱いており、当初イタリア艦隊は、このドルニエを連合軍機の出迎えと誤認しました。

気がついた時にはフリッツXは放たれ、回避行動をとる戦艦に、目でもあるかのように追いすがり、1発は戦艦「イタリア」の艦首に大穴を開けます。

「イタリア」は何とか免れて終戦を迎えますが、「ローマ」はそうは行きませんでした。

命中した2発のフリッツXのうち、艦橋と二番砲塔の間に命中したものが致命傷となり、排水量45000トンの巨艦がわずか20分で、ベルガミーニ長官以下1200名余と共に沈没、これが史上初の誘導爆弾による実戦での戦果となりました。

このような事実はあくまで結果であって、イタリア海軍の軍人は概して勇敢で敢闘精神に富んでおり、1941年12月にはイギリス海軍のアレキサンドリア軍港で、戦艦「ヴァリアント」「クイーンエリザベス」が大破・着底するという事件が起きました。

この大戦果は特殊小型潜航艇「マイアーレ(何と「豚」の意味)」に乗って決死の覚悟で戦艦の底に時限式爆雷を仕掛けた、たった6人によってもたらされます。

この中の一人、デ・ラペーネ大尉は爆雷を仕掛けた後に捕虜となってしまい、何と「ヴァリアント」の中でモーガン艦長の尋問を受け、2時間半黙秘を守った後、おもむろに「艦長、あと5分でこの艦は爆発します。」と彼は口を開いたそうです。

イタリア降伏後、彼は今度は連合国のフロッグメン部隊に協力して戦功を挙げ、「黄金勲章」を受けることになりましたが、その授与式には「ヴァリアント」の当時の艦長であったモーガン少将も出席して、自分の艦を沈めた大尉に拍手を送りました。

イタリアが最強だったのは、陸軍はユリウス・カエサルの頃で、海軍はベネツィア共和国の頃、などと口さがない人は言いますが、それでも、まだまだ艦艇の名前で登場していない歴史上の人物は数多くいるので、そういった意味でもイタリア海軍から目が離せません。

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