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史上稀な被撃墜王とは

Trønderbataljonen under Nøytralitetsvakta (1940)

第二次世界大戦の中で最北の戦い「冬戦争」「継続戦争」は、超大国ソ連に、小国フィンランドが独立を賭して挑んだ戦いでした。

その中で、白い死神ことシモ・ヘイヘや、無傷の撃墜王 エイノ・イルマリ・ユーティライネンなど一騎当千の勇士が生まれました。

ユーティライネンはその名の通り、一度も撃墜されたことがなかったどころか、被弾すらしなかったといいます。(実は一発食った、と彼自身が語っています。)
ところが、それとは反対に撃墜された回数において記録的なパイロットがいるのです。

撃墜数35機余りの超エースでありながら、「ついてないカタヤイネン」というありがたくもないあだ名を頂戴した、ニルス・エドヴァルド・カタヤイネンです。

1941年初め、「冬戦争」で休戦したものの、フィンランドはいつまたソ連の侵攻をうけるかわからない状態にありました。

「強国とは、戦争も平和も思いのままになる国のことであります。」という言葉がありますが、まさにいつ戦闘を再開するかどうかは、ソ連に決定権がありました。

無論、フィンランドもその日に備えていたのです。

そのような中、カタヤイネンは米国からやってきたブリュースターB-239(英国名 バッファロー)に乗る初めての訓練に臨みました。

ところが離陸の際にタキシングしたのか、着地した衝撃で片輪が脚ごと壊れて吹き飛ぶついでに、昇降舵をもぎ取ってしまいました。

しかし機はそのまま離陸、カルフーネン編隊長の適切なアドバイスもあって片輪着陸に成功、カタヤイネンにケガはありませんでした。

そして44機しかない大事なバッファローは、数日後には飛行可能な状態に修理されました。

ところが、この事故は彼のこれからに待ち受ける運命を暗示しているかのような出来事だったのです。

その後間もなく、ドイツに与したフィンランドにソ連が再び侵攻し、「継続戦争」の口火が切られたのです。

6月28日、カタヤイネンはソ連のSB爆撃機を見事撃墜して初陣を飾った・・・まではよかったのですが、敵機の「イタチの最後っ屁」の一弾がバッファローのエンジンに命中。

基地に帰投するまで彼はエンジンをなだめ、すかし続け、着陸態勢に入った時、遂にエンジンは力尽きました、しかし何とか不時着に成功します。

8月12日、複葉機ながら俊敏で侮れないポリカルポフI-153「チャイカ」の一群と空戦になり、彼は2機を撃墜します。

しかし今度は燃料タンクに被弾、ガソリンの霧が曲芸飛行の煙幕よろしく長い尾を引きますが何とか帰投しました。

9月に撃墜数を6機と伸ばしてエースの仲間入りを果たしたカタヤイネンでしたが、不幸の女神(?)は情が厚いらしいとみえ、なかなか彼を抱擁して離そうとしません。

同じ月、彼は偵察飛行で対空砲火を受けて炎が出ますが、彼は慎重にスロットルを開けたり絞ったりしながらまたもや帰投に成功します。

フィンランドほど戦闘機を大事に使った国はなく、墜落しても、使える限りは修理して徹底的に使いました。

自国で作った戦闘機はこの戦争に間に合いませんでしたが、(バッファローのコピー「フム」や「ミルスキ」は戦闘には間に合いませんでした。)修理や改造の技術は非常に高いレベルになっていました。

特にバッファローは貴重だったので、ソ連領に墜落しても、陸軍が決死の覚悟で回収に向かうのでした。

1942年7月、そうやって必死に回収して修理したバッファローのテスト飛行をカタヤイネンが担当しました。

ところがここでも無事では済まず、離陸直後からエンジンが異常をきたしたのです。

何とか着陸したものの、柔らかい草地に脚をとられて機体はひっくり返ってしまいました。

彼は無事でしたが、バッファローはもちろん修理工場行きです。

ここまでカタヤイネンは撃墜数12とスコアを伸ばしていましたが、被弾や事故は少なくとも七回。

ここで彼を違う種類の不幸が襲います。

エースであるにもかかわらずバッファローを壊しすぎたためか、彼は何と爆撃隊に転属を命じられてしまいます。

無論、彼自信も、彼が所属する通称「山猫戦闘機隊」のマグヌッソン隊長も、この命令に抗議しますが受け入れられません。

彼は鹵獲したSB爆撃機でソ連の潜水艦を攻撃するモグラたたきのような任務に就きました。

この間も元の戦闘機隊に戻してくれるよう何回も請願を行いますが、これがかえって上官の機嫌を損ねたか、こともあろうか爆撃機からも降ろされて爆撃機基地のハンガー掃除を命ぜられてしまいます。

しかし遂に彼は半年ぶりにバッファローの操縦桿を再び握ることができたのです。

1943年4月に復帰したカタヤイネンは、強敵 ヤッケこと、Yak-7bを含む3機を撃墜して再びスコアを伸ばし始めますが、6月の戦闘で翼に被弾、しかし損傷したバッファローの操縦の名人(?)である彼はまたも無事帰投。

ところが今度は彼自身が大丈夫ではなかったのです。

機銃弾の破片がすねにめり込んでいて、これが以外に重傷で、数週間の入院を余儀なくされてしまいます。

退院したところ、またもやバッファローの壊し屋と思われたのか「長期休暇の要あり」と戦場から遠ざけられてしまいます。

しかしこの休暇の間に彼は生涯の伴侶のハートを射止めるという公式には残らない撃墜スコアを挙げています。

さて、1944年2月に復帰したカタヤイネンを待っていたのはドイツから供与された、Bf109G「グスタフ」でした。

まずはあいさつ代わりの慣熟飛行、と思ったらダイムラーベンツエンジン605エンジンが突如黒煙を噴きます。

もちろんカタヤイネンのことですから無事に着陸しましたが、その一週間後に出撃しようとしたところ強風で全く視界が効かなくなり、彼のメルス(メッサーシュミットのフィンランドでの愛称)は、もんどり打って大地に激突して粉々になってしまいます。

今度こそ彼の不死身の称号も終わりかと思われましたが、何と彼は生きていました。

退院後にはソ連空軍の6月大攻勢に立ち向かい、10日間で18機を撃墜するという鬼神ぶりを見せました。

7月3日にもイーエル・カッコネン(シュトルモビクのフィンランドでの呼び名)2機を落としたところで、またも被弾、メルスは壊れましたが彼は無事でした。

4日後にも別のメルスで飛び立ちましたが、これが戦闘機乗りとしての最後の飛行となりました。

対空砲火を受けて主翼が破損。

しかし火が収まったので彼はいつものように(?)傷ついたメルスを飛ばして帰ろうとしましたが、これが裏目に出ます。

燃料が気化してコックピットに吹き込んで、そのガスでカタヤイネンは基地を目にしたところで意識を失い、脚も出さずに時速500kmで胴体着陸・・・と言うより、これは角度が浅い墜落ですね。

その衝撃で機は部品を撒き散らしながら分解し、エンジンは吹っ飛び、胴体は基地の屋根の上、主脚は近所の民家の屋根を串刺しにします。

血まみれ、骨折だらけながらカタヤイネンはかすかに息があり、病院に運ばれましたが誰の目にも死神が彼を捉えようとしていました。

駆けつけたマグヌッセン戦隊長は、自分の胸から勲章を外すと、そっとカタヤイネンにかけてやります。

それは「マンネルヘイム十字勲章」という、フィンランド最高の武功勲章でした、この勲章は、死んでからの追贈が多いことで有名なイギリスの「ビクトリア・クロス」よりももらうのが難しいとされていました。

マグヌッセンは、死にゆくカタヤイネンに最もふさわしいものとして手向けとしたのです。

しかし、「ついてないカタヤイネン」は「不死身のカタヤイネン」でもありました。

何と彼は奇跡的に回復し、生きてマンネルヘイム十字勲章を授与され、1997年に77歳で天寿を全うしたのです。

フィンランドのような小国は、何よりも人が大事な存在です。

兵器は失われてもまた手に入れることができますが、人間はもちろんそうはいきません。

国を守るためにはまず自分が生き残って戦い続けることが最も大事なことだ、ということをカタヤイネンの逸話は示しているのかもしれません。

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