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明大キャンパスに残る軍事施設跡

Mitchell Monument, Bly, Oregon

明治大学生田キャンパスは、川崎市多摩区生田にの丘の上の、少し落ち着いた雰囲気のある場所ですが、この敷地の中に黒い鳥居を有したが神社があります。

小田急線生田駅を降りて少し歩くと、明治大学生田門に辿り着き、その生田門から右手に向かって進むと、校舎が現れた辺りの右手に生田神社が奉られています。

この生田神社という名称は、戦後、豊饒の神様を奉り直した際に改められたものであり、弥心神社(やごころじんじゃ)という名前が本来のもの。

そしてこの小さな神社の境内には、「登戸研究所跡碑」と記された石柱を見つける事ができます。

登戸研究所と風船爆弾

登戸研究所は、正式名称を「陸軍第九技術研究所」であり、その名が示す通り生物兵器など、いわゆる化学兵器のたぐいから、怪力光線などの少し変わったものまでが研究されていました。

731部隊同様に、ここでも生物兵器などをテーマとした研究が行われ、人体実験なども行われていたと言われています。

その事を示す一つの要素として、弥心神社が建立されたとされる昭和18年に、この丘の上には「動物慰霊碑」が建立されているのです。

動物慰霊の碑として見ると異例の大きさで、表向きは実験に使用された動物の霊を慰めるためという事ですが、さすがに人体実験に使われた人の霊を慰めるためとは言えないからだという見方があります。

研究所本館前のロータリーは当時のまま残されており、敷地内には陸軍のマークが入った消火栓もあり、この大学の敷地と成った丘が、かつて陸軍の研究施設であった事を物語ってくれます。

ちなみにこの「登戸研究所」で開発された物の中で代表的な兵器が「風船爆弾」と呼ばれる物で、当時は「気球爆弾」と呼ばれ、兵器としての識別呼称は「ふ号兵器」とも言います。

和紙をコンニャク糊で貼り合わせた気球に水素ガスを充填して作った気球に焼夷弾を搭載するという、今で考えれば奇妙な感じのする兵器でしたが、しっかり実戦投入され、しかもなんと、重量100Kgにも耐えうる強度がありました。

千葉の一宮や茨城の大津辺りから放たれた気球爆弾は、ジェット気流に乗ってアメリカ本土まで飛ばす計画で、日本からアメリカまで、ジェット気流に乗ってしまえば、およそ50時間ほどで到達する計算です。

記録に因れば、生産された気球爆弾は1万発、そしてアメリカ本土に到達したのは361発という事ですが、この爆弾の特徴としては、紙製であるためにレーダーに引っ掛からない、また、風によって運ばれてくるために飛行音もしません。

ですから、確認されていないだけで、もっとたくさんの気球爆弾が到達していた可能性もあり、その上、当時アメリカはこの爆弾についての報道規制を強く掛けていたために、アメリカで暮らす人々にはほとんどその存在を知られていなかったとさえ言います。

その結果、オレゴン州でピクニック中の民間人6名が、それを爆弾とは知らずに被害に遭うという事がありました、ただ人的被害はこの程度で、重要施設を破壊したりと言った大きな成果は無かったようです。

大きな被害こそ無いものの、一方でこの不審な爆弾はアメリカの軍事関係者にはとても気味の悪いものに映ったと見え、仕組みから錘に使われていた砂の内容にまで細かな研究が為されました。

アメリカ人もまさか、紙の風船が遥か太平洋を横断してやって来るなんて、考えたことも無かったでしょう。

この当時、ジェット気流の存在自体は発表されていたものの、その事について把握していたのは日本だけだったという逸話もありますから、太平洋上に日本の秘密基地でもあるんじゃないかとか、発見できていない潜水艇が潜んでいるのではないかなど、不安要素は大きかった事でしょう。

この気球爆弾を完成させるためにコンニャク糊が必要で、文字通りコンニャクから作る糊ですが、1万個もの気球を作るのですから、相当な量で、たくさん集めるために、当時の日本国民の食卓からコンニャクが消えたと言われるほど、本気でこの爆弾作りに取り組んでいたという事です。

気球爆弾誕生の経緯

また、気球爆弾誕生にはちょっとした経緯があり、この頃の日本の軍隊はと言えば、海軍と陸軍のとても仲が悪いことが知られていました。

そのため、お互いに情報交換をして協力するより、相手を何とか出し抜き、自分の方が優れている所を見せてやろうという、味方同士なのに牽制し合うような関係にあり、当然ながらどんな兵器の研究を進めているかなどは、お互いに隠し合っていました。

そんな中、海軍でも、同じように小型気球による爆弾の開発を進めていましたが、和紙とコンニャク糊ではなく、普通の気球を作ろうとしたため、1つの作成費が大きすぎるため、これを断念。

陸軍はと言うと、当時すでに和紙とコンニャク糊で低コスト大量生産可能な「ふ号兵器」が正式採用、そして陸軍では、これを使って敵国に心理戦のためのビラまきや、兵士を乗せて飛ばして敵の背後に兵を展開するなど、気球をあくまで陸戦場の運用を考えていたものを、海軍が頓挫した小型爆弾の計画を知り、これを陸軍にて展開したのです。

実戦投入された、この「ふ号兵器」はとても変わり種であると同時に、登戸研究所を語る上で欠かせない逸話だと言えるでしょう。

生物兵器などの研究のために行われた、生物を使った実験など非情な部分から目を背ける訳にもいきませんが、風船爆弾という兵器を当時の軍が本気で真剣に考えていたのかと思うと、何だか少し可愛い印象を受けます。

登戸研究所のその後

そんな登戸研究所ですが、日中戦争時に中国経済を混乱させるために大量の偽札が刷られたという5号棟や、その保管倉庫として使用されていた26号棟など、既に解体されてしまった建物もありますが、一方で生物兵器などの研究が行われていた36号棟は外壁の塗り直しなどの改修が施され、平成22年に「登戸研究所資料館」として今も現存しています。

当時の研究内容や、施設の来歴などを目にする事ができますが、建物自体が当時のものなので、ちょっとした備品などに当時の研究所の面影を見ることが出来ます。

また、この36号棟は資料館になる前まで農学部の研究室として使用されており、よくよく生物関連の研究に縁があると言いますか、それに適した施設環境だったようです。

最後に、この施設自体の歴史という事ではありませんが、作家の京極夏彦さんの著書、「魍魎の匣(もうりょうのはこ)」の中にこの施設の事が登場。

作中の登場人物の「京極堂」が、戦時下においてこの研究所で働いていたと語り、この時の上官に当たる研究者と対面します。

この研究者は戦後、自らの研究を続けており、劇中で展開されるバラバラ殺人事件などが絡み合い、この作品でも登戸研究所という研究施設の特異性が描かれています。

物語作品なので現実の施設とのギャップはあるかもしれませんが、戦中の生物兵器研究に関して、彼の「731部隊(関東軍防疫給水部)」などと共に「陸軍第九技術研究所」がどういった色味の施設として語り残されているのかが伺えますので、一読してみるのも良いかもしれません。

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