みなさんは、連合艦隊「旗艦」と聞けば、大和や武蔵、場合によっては三笠(日本海海戦の時の旗艦)を思い出す人もいるのではなんでしょうか。
その名の通り、連合艦隊司令長官が乗艦する艦のことを指すのですが、太平洋戦争の最中において、この「連合艦隊旗艦」というのは、様々な変遷をたどっています。
最初は長門、そして大和、武蔵と日本海軍を代表する戦艦が連合艦隊旗艦とされていたのですが、戦況の変化に伴い、次第に「連合艦隊旗艦=戦艦」という考え方は徐々に変わってきます。
もともと選管が選ばれていたのは、その戦闘力が高いことと、司令長官自らが戦場に赴き、率先して戦闘の指揮を執るという「陣頭指揮」の精神を発揮するために、戦闘力の高い戦艦を旗艦とする考え方があったからです。
しかし、太平洋戦争において日本海軍が編み出した「空母機動部隊」という戦い方は、戦艦の価値を著しく低下させたのです。
その結果、連合艦隊司令長官が自ら戦場に出向いて指揮をとるというのはなくなり、むしろ通信環境や指揮命令系統が円滑に進む場所において指揮を執るということが当然のようになりました。
つまり、戦場に赴くのではなく、後方で全体を見渡して、的確な命令を下せる状態であること、それが連合艦隊旗艦に求められる使命となっていった結果、それらの新たな条件を満たす軍艦として、なんと巡洋艦が連合艦隊旗艦に命じられることになったのです。今回はそんな旗艦に選ばれてしまった巡洋艦「大淀」について紹介したいと思います。
大淀は、日本海軍の軽巡洋艦であり、その艦名は宮崎県下の最大河川の大淀川にその名を由来する軍艦です。
昭和14年度に着手された第四次軍備充実計画により、阿賀野型軽巡洋艦と共に建造されたのです。
もともと、太平洋戦争開戦前に練られていた日本海軍の対米戦計画では、まず潜水艦部隊が前線に出向き、向かってくるアメリカ主力艦隊の邀撃が予定されていました。
そこで、広大な太平洋上を潜水艦単独で敵艦隊と交戦するのは危険であると判断し、潜水艦部隊専用の旗艦を建造することになったのです。それが「大淀」が生まれた由来です。
当初は兄弟艦として「仁淀」も建造される予定だったのですが、実際に太平洋戦争が勃発すると、空母等の重要艦艇の建造に傾注するため、仁淀の建造計画は中止されました。
大淀に持たされた能力は、索敵のために必要な水上機の離発着機能と、広大な太平洋において通信機能を強化するためのレーダー搭載です。
軽巡であることで航続距離もかなり長くなり、いざアメリカ軍と一戦交えようと構えていたのですが、その時にはすでに思い描いていた「潜水艦が前線に出向いて邀撃」という戦術は過去のものとなり、大淀に課せられた使命も無くなってしまい、実際の運用面においては「無駄な水上機ばかり搭載する軽巡」という位置づけでしかなかったのです。
実際、ミッドウェー海戦後の空母不足に際し、大淀も空母改造の対象艦艇として選定されています。
ですが、改造に要する時間がかなりのものとなることが見込まれたため、この時は建造中であった巡洋艦「伊吹」を空母として建造することにして、大淀は改造をまのがれています。
そんな大淀に新しい価値が見いだされたのが、なんと「連合艦隊旗艦」という勝ちだったのです。
もともと水上機格納庫が存在しており、それがそのまま連合艦隊司令部として用いることができるという見込みと、潜水艦との通信のためにレーダーを搭載済みであったことが、大淀を連合艦隊旗艦とすることになった要因だったのです。
そして大淀は昭和19年3月に水上機格納庫を改装し、司令部施設とし、格納庫を三段に仕切って、幕僚寝室や作戦室などの司令部機能を付加して、連合艦隊旗艦として横須賀港に停泊することとなったのです。
その後、マリアナ沖海戦においてはそのまま横須賀港に停泊し、連合艦隊司令長官他連合艦隊司令部が大淀艦内の司令部にて指揮をとりましたが、結果は燦燦たるもので、入ってくる情報も非常に悲しく、大淀内の司令部は沈黙に包まれたと言われています。
でも、この時になぜ戦場に赴かなかったのでしょう。そもそも、艦隊旗艦として専門に建造された艦ではなかったことで、「やっぱり防御力もないし戦闘力もないから戦場に出すのは危険」だという判断が生じたことは否めません。
結果的に、マリアナ沖海戦で敗北を喫した日本海軍は、動く軍艦はすべて次の決戦につぎ込むということになり、様々な地域で待機していた艦艇をすべて南方に向けることにします。
その結果、連合艦隊旗艦となっていた大淀も「君も戦闘に使うから」とあっけなく任を解かれ、第三艦隊に転属させられます。
ちなみにこの時以来、連合艦隊司令部は「通信を重視すればやっぱり陸上に無線基地を作った方がいいだろう」という判断で、陸上に移ってしまい、大淀以降「連合艦隊旗艦」を名乗る軍艦は無くなってしまいました。
なんと大淀は、期せずして「最後の連合艦隊旗艦」という名誉を受ける軍艦となってしまったわけです。
その後、大淀はどうなったのか、機になりますよね。大淀は第三艦隊、つまり空母機動部隊の一部となり、マリアナ沖海戦で生き残った「瑞鶴」他空母群を守るための戦力として期待されることになります。
ですが、その後の出撃はみなさんもご存じのように、レイテ湾に突入する戦艦部隊へ、アメリカ空母部隊が攻撃を仕掛けぬよう、囮となって北方へ誘引する役割を担うことになったのです。
大淀は奮戦しましたが、しょせん多くの敵機を高角砲でやっつけることができるわけでもなく、すべての空母が沈没する最中、それらの乗員を救助して、沖縄まで退避してきます。
それから大淀は連合艦隊司令部の思惑に翻弄されます。沖縄で残存艦艇と合流し、そのまま母港に帰るのかと思いきや、思ったほど被害を受けていないことが分かり、そのままインドシナへの回航を命じられます。
インドシナでは他の艦艇と合流し、ミンドロ島サンホセに上陸しているアメリカ軍への夜間砲撃作戦「礼号作戦」に参加することになります。
飛行機の援護もない作戦で、成功は疑問視されていましたが、なんとこの作戦は大成功で、まさに「連合艦隊最後の戦果」とも言われる海戦となったのです。
さらに大淀には崇高な使命が与えられます。シンガポールに回航し、そこで航空戦艦となった「伊勢」「日向」などと合流し、甲板や格納庫に多数の軍需物資を積み込み、日本本土まで回航するという「北号作戦」に参加することになります。
戦うのではなく、輸送船代わりになれと言う作戦を命じられたわけです。
もともと水上機格納庫、そして連合艦隊司令部が入っていた格納庫が今度は「軍需物資倉庫」として活用されるはめになったのです。
もとより成功すれば奇跡とも言われたこの作戦、なんとすべての艦艇が無事に日本本土にたどり着き、連合艦隊司令部は歓喜に沸いたと言われていますが、結局最後の最後まで連合艦隊司令部の思惑に翻弄されることになった大淀は、その後は外洋に出撃することもなく、呉港外につなぎとめられ、単なる砲台として活用されるだけになってしまいました。
1945年7月末のアメリカ軍機による空襲では多数の爆撃を受けて大破着底し、軍艦としての生涯を終えることになった大淀。
かつては連合艦隊旗艦という名だたる名誉と役割を「いきなり」担わされたという軍艦ではありましたが、戦争の終盤において、思わぬ活躍を成し遂げた軍艦として、今後も名前は受け継がれていくのでしょう。