戦争は始めるのは簡単ですが、終わらせるのは非常に困難であるのはいつの時代も同じです。
1939年の「冬戦争」に始まり、ようやく1944年9月に何とか独立を保つ形でソ連との講和を結んだフィンランドでしたが、困難な「宿題」が残っていました。
講和の条件の中に「フィンランドの領内に存在する全ドイツ部隊を武装解除する」というものがあったからです。
これはフィンランドにとっては物理的にも厄介でしたが、それ以上に精神的にも困難な作業でした。
歴史的に見れば帝政ロシア時代から抑圧を受けてきたロシアと、「継続戦争」で一緒に戦ってくれた(それが国益に叶うから、という理由であったにせよ)ドイツのどちらに親しみを覚えるかは言うまでもありません。
ロシアは、「俺と仲良くしたいというなら、今まで仲良くしてきた友達をぶん殴って見せろ」と言ったのです。
しかし、同じく枢軸国側からソ連と休戦協定を結んだルーマニアはソ連に占領されてしまいました。
このように大国のエゴは、場合によっては約束を鴻毛より軽くしか見ないことも知り抜いているフィンランド首脳は、ソ連軍が進駐してきた場合に備えて大量の兵器を隠していました。
また、これとは別に愛国主義者1万人余りが、少なからぬ武器弾薬を隠し持っていたことが2年後に明らかになりました。
ソ連がルーマニアと同じ挙に出なかったのは、「冬戦争」「継続戦争」の戦闘を通じて、フィンランド人を追い詰めた場合の、必死の抵抗の恐ろしさを思い知らされたからだ、とも言われます。
さて、ドイツも戦力を温存しつつ撤退したいとの思惑から、さしたる抵抗を見せませんでした。
実はこの日があることを想定して、ドイツ軍はフィンランド北部からノルウェーに道路を整備しており、部隊を速やかにノルウェー経由で移動させる計画を立て、フィンランドがソ連と講和を結んだ頃には、移動の準備は完了していたのです。
そして当初はフィンランド軍の指揮官が、ドイツ軍の指揮官に電話して次の日の進軍予定を知らせ、ドイツ軍はそれに合わせて撤退する、というある意味牧歌的なことが行われていたというのです。
ドイツ軍としても昨日までの戦友と本気で戦う気にはなれなかったのかもしれません。
しかし、遂に昨日までの戦友は殺し合いをする状況に追い込まれます。
フィンランドはソ連側から、2ヶ月半以内にドイツ軍を領内から追い出すように迫られていました。
一方ドイツ軍にも「裏切り者」のフィンランドを撤退時には焦土と化するようにとヒットラーの命令が下されたのです。
戦闘が始まったのは9月中旬、フィンランド湾に浮かぶ「スールサーリ島」が舞台でした。
この島を制圧してフィンランド湾の機雷原を保持すれば、クロンシュタットにいるソ連艦隊を釘付けにできるのです。
それまでのいきさつから、ドイツの指揮官は話し合いでこの島を明け渡してもらおうとしました。
しかし意外なことに、フィンランドの指揮官は島の明け渡しを拒否、やむなくドイツ軍は侵攻を開始しますが、フィンランドの守備隊の規模はドイツ軍の予想を上回っていました。
フィンランド軍の抵抗に加えてソ連空軍の攻撃も加わり、ドイツ軍のこの「タンネ・オスト作戦」は、完全な失敗に終わりました。
同時にこれはフィンランド軍とドイツ軍、昨日までの戦友同志が「仁義無き戦い」に突入した瞬間でもありました。
当然、フィンランド軍の兵士にも葛藤はありました。
昨日までの戦友を攻撃するなど、戦争とはいえ人間のすることではない、と憤りを隠せない兵士もいたといいます。
ドイツから供与されたJU88でドイツ軍の爆撃を命じられた、ある爆撃手はわざと照準をはずして爆弾を投下したのです。
ところがその帰路にドイツ軍のBf109に補足されて、ほうほうの体で帰還したものの、乗機は穴だらけにされてしまいました。
その時に、やはり命令通りドイツ軍を本気で攻撃しなければならないのか、としみじみ感じたといいます。
そして、お約束の戦いが遂に本当の戦闘に至ったのが「トルニオの戦い」でした。
この戦闘で、スウェーデンとの国境の町トルニオで、フィンランド軍は撤退するドイツ軍の退路を断ったのです。
双方合わせて1,000人を越す戦死者を出す本格的な戦闘でした。
何より、ソ連にもドイツにもフィンランド軍が、本気でドイツと戦おうとしていることを示した出来事だったのです。
一方でドイツ軍も、「フィンランドを有史以前の姿に戻せ」というヒットラーの命令に従って、撤退しながらフィンランドを焦土と化していったのです。
トルニオを奪われて窮したかに見えたドイツ軍ですが、密かに他の退却路も用意していました。
それがラップランド戦争の象徴的な意味を持つ「ロヴァニエミ」、ここでの戦闘自体は小規模なものでした。
しかし、戦闘に先立ってドイツ軍はヒットラーの命令を忠実に実行し、ロヴァニエミの町を焦土と化したのです。
これを予測して住民は避難して犠牲者は出ませんでしたが、当時、県都であったこの町で燃えずに残ったのはわずか13軒でした。
これら一連の焦土戦術の指揮官、ロタール・レンドリック(最終階級は上級大将)は、この時の行為などをニュルンベルク裁判で罪に問われて有罪判決を受けました。
このようなドイツ軍の焦土戦術の結果、戦場となったラップランドの荒廃は目を覆うばかり、一例を挙げると、トナカイの飼育数は戦前の半数にまで激減したといいます。
それだけではなく、ドイツ軍はその国民性が示す律儀さでフィンランドに呪われた置き土産を残していったのです。
戦争が終わって故郷に帰った兵士が、我が家が無事だからといって喜ぶのは早計でした。
ドアノブを引いた途端にドイツ軍が残した仕掛け爆弾が炸裂したのです。
このような爆弾はフィンランド全土に30万個以上も残されたと見られ、被害は死者70人以上、負傷者140人以上に上ったのです。
お互いにかつての戦友に対して複雑な思いを残すこととなったのです。
フィンランドの長きに渡った祖国を守る戦いは、ようやく1945年4月に終結、この間の戦死者は約8万5千名。
これは、当時のフィンランドの総人口の1パーセントを優に超えるとともに、自然増加すべき人口の5年分に相当します。
第2次大戦を通じて、ヨーロッパで国土を占領されなかった国は、イギリスとフィンランドだけだったのです。
しかし、これほどの犠牲を払って祖国は守るのは本末転倒ではないか、という考えもあるかもしれません。
それに対する明確な回答とはなりえないかもしれませんが、バルト3国と比較してみるのは1つの基準となるでしょう。
戦わずしてソ連の傘下に入ったこの3国では、数十万人が処刑、シベリアへの流刑、強制移住という運命にさらされました。
また、2度にわたって独ソ戦の戦場となった上に、支配者がドイツになり、再びソ連になることで、以前の支配者に協力した人々は弾圧を受け、その中から数多くの処刑者が出たのです。
「独立を守る」ということを第一義とするならば、フィンランドは勝利したのです。
そして第2次大戦において、ソ連軍が戦略目標を達成できずに終わったのは唯一、フィンランド戦であったのです。
蛇足ながら、遠い国フィンランドが最後まで日本に示してくれた友誼は記憶しておくべきでしょう。
ソ連と講和を結ぶと同時に、フィンランドは枢軸国である日本との国交を断絶しています。
しかし、そのような表向きとは別に、密かにフィンランド軍諜報部は、それまで蓄積していたソ連とアメリカの暗号書類を全て日本に引き渡してくれたのです。
そして、可能な限り東部戦線の客観的情報を日本に送り続けてくれたのです。
しかし、情報をどう生かすかは人間いかんにかかっています。
これらの情報を希望的観測で曇らない目で分析したならば、日本のソ連の動向の予測も変わっていたことが考えられます。