馬に乗って戦う兵種である「騎兵」。
この兵種は、馬に乗りながら戦うことで徒歩の兵士ではあり得ない機動力と、徒歩では難しい移動射撃などを可能にした強力な兵種です。
しかし、強力だからすぐなろう!と思ってなれるものではなく、騎兵として行動するにはコストの面でも、技術の面でも一段高いハードルが存在しました。
特に古代世界において高いハードルとなったのが騎乗技術で、裸馬にまたがって操作しながら戦闘を行うというのは至難の業という他ありませんでした。
このため、古代世界においては騎兵=騎馬民族と言っても、だいたい間違いではないぐらいの感覚でした。
(専業軍人階級が存在できた大帝国では例外も有りました)
この騎乗技術のハードルが大幅に引き下げられる発明が為されるのは、四世紀頃の中国で、鞍とセットで馬体に固定し、足を引っ掛けて乗ることで乗り降りだけでなく騎乗中の「踏ん張り」も格段に効くようにする「鐙(あぶみ)」の登場です。
それまでの騎乗戦闘では、敵と接触した反作用がそのまま返ってくるような近接武器は、落馬の危険性が高くてあまり積極的に使用できず、あくまでも弓矢や投槍などの投射武器をメインに、一応槍などでも武装するという程度でした。
しかし、この鐙という馬具の発明によって馬上でしっかり踏ん張ることが可能になり、兵士と馬の体重をそのままぶつけるような武器の運用も可能になっていきます。
実際、発明元の中国では鐙がすぐに普及し、このあたりから馬に乗ったまま、長柄の斬撃武器を振り回す戦いが増えていきます。
さて、この鐙がヨーロッパに入ってくるのは7世紀の頃。
当時のヨーロッパは東西分裂したローマ帝国の内、西ローマ帝国がゲルマン民族の流入で崩壊・滅亡し、そのゲルマン民族が各地に国を興していたタイミング。
特に急速成長していたのがフランク族による「フランク王国」、後の西ヨーロッパ諸国の原型となる国でした。
また、後のスペインへとつながっていく西ゴート王国もこの時代に成立しており、まさにゲルマン群雄割拠の状態。
当然、各地で勢力争いと領土戦争が繰り返される状況であり、強力な戦力はどこでも引っ張りだこでした。
そんな中で鐙によって可能になった「人馬一体の戦闘」は、騎兵に強力な戦闘力を与え、戦場の花型としていきます。
特に、この時代から中世にかけて花開く「重装騎兵」のスタイルは歩兵を圧倒し、騎兵が主で歩兵が従という状況を作り出します。
騎乗戦闘の技術面に関しては、こうして大幅にハードルが下がり、騎兵が主力となる道が開かれたのですが、騎兵にはもう一方、コストというハードルも存在します。
当時の農業生産力は、まだまだ人間を養うのすら辛い水準であり、家畜を好き放題養うというのは無理な相談でした。
そうした背景の中で、割合大食らいな馬という家畜は、維持コストだけをとっても現在の高級車を上回る存在でした。
まして、開墾・運搬などの生産活動に参加させず、戦場で怯えずに動ける「軍用馬」の育成・維持コストは飛び抜けたものが有り、現在における軍用車両と考えて問題ありませんでした。
近現代では国家というものが国民の生産力を結集して高価な兵器を維持・運用しますが、当時のヨーロッパでは「軍費は自弁」という封建制度の軍制が普通でしたので、軍用馬とそれに合わせた騎兵装備を賄えるのは、ある程度以上の領地を有する領主かそれに匹敵する給金を支払われる戦士だけです。
卵が先か鶏が先か、自然と騎兵は同時に経済力も保持する有力者とイコールになっていきました。
ちなみに、ローマ帝国の頃は優秀な馬を品種改良する技術が有ったのですが、ゲルマン民族の流入による混乱で一時途絶、再度技術が復活して安定した軍馬を調達できるようになったのもこのぐらいの時期からだったようです。
戦場での強力無比な戦力であることと、経済的な意味でも一定の力を持つこと。
この二つの要素が合わさり、ヨーロッパにおいてはただの兵種としての重装騎兵ではなく、階級としての「騎士」が出現することになるのでした。
ヨーロッパにおける騎士はほぼイコールで重装騎兵で、その戦い方は馬の豊富なペイロードを活かして重装甲をまとい、騎馬が生み出す速度と重量を乗せた近接武器の一撃を叩き込む。
または、騎乗であるという高所の利点を活かし、敵歩兵の脳天に剣やハンマーを叩きおろす。
初期の頃はいわゆる軽装騎兵の攪乱戦法も用いられていたのですが、冶金技術向上による鎧や武器の性能向上に加え、軍馬の品種改良が進むと重武装化がますます有利になっていき、これが主な戦闘方法となっていきます。
こうした突撃戦法の極北が、馬と人の重量と速度を穂先の一点に集中させてぶつける「ランスチャージ」であり、重量そのままに歩兵を轢殺する戦い方でした。
なお、当然ながらこのチャージ攻撃は速度が乗っていないと意味が無いため、最初の敵陣突撃の際に使用され、そのまま敵陣を分断して再度攻撃を仕掛けるか、乱戦に突入したらランスはとりあえず仕舞っておいて、剣やメイスに持ち替えて歩兵を殴るというのが基本の流れでした。
鐙の登場で騎兵による近接攻撃威力が飛躍的に向上し、重装備化を支える軍馬の品種改良が進んだ7世紀から13世紀ぐらいまでのあいだ、騎士の戦闘力は歩兵にとっての恐怖であり、歩兵による集団戦闘術がまだまだ未発達、かつ、士気の高い一般兵士の調達が難しかった時代背景も合わさって、「質の高い騎士をより多く抱えたほうが勝つ」という状況が作り出されます。
もちろん、数から言って実際に戦っている主役は歩兵だったのですが、騎士の突破力があまりにも戦況を左右したために、こういう意識が生まれました。
そうなると、騎士のステータスというか発言力はどんどん増していき、やがて騎士に向いた戦闘方法が「騎士にあるべき戦い方」として儀礼化していきます。
弓矢や弩などの飛び道具による戦いを卑怯として忌避し、騎士同士が一騎打ちを行うのが華であるという具合に騎士の戦いの儀礼化が進んでいくのですが、これにキリスト教の価値観が合流して「騎士道」という独自の精神論が形成されていきます。
戦士であると同時に経済的制約から必然的に小領主・貴族でも有り、さらに全体がキリスト教世界に収まっているというヨーロッパの事情から生み出された騎士道は、似た響きを持つ武士道などとはかなり異なり、非常にロマンチックな方向性を強めていきます。
私見を大いに交えてごくごく簡単に述べるなら、「ぼくのかんがえたさいきょうにカッコイイ騎士像の集合体」が騎士道だといえるでしょう。
しかし、そうして騎士が高性能化アンドロマンの存在に変わっていく中で、歩兵は着実に戦闘集団としての能力を向上させていきます。
弩の性能が向上し、歩兵射手が重装甲の騎士を射殺することが可能になりつつあった13世紀後半辺りからその徴候はでていたのですが、それが分かりやすい形で表出するのが、英仏百年戦争の中期に起きたクレシーの戦いです。
イングランドのロングボウアーチャーは、高い速射性と十分な貫通力を持つロングボウで、数を揃えて面制圧射撃を行うことで、個々の騎士の速度など問題としない状況を作り出し、突撃戦術にこだわるフランス騎士に壊滅的な打撃を与えます。
また、騎兵のチャージを阻止する長槍を用いた集団戦術も発達していき、それを扱いうる統制を歩兵に保たせることが社会制度や軍制の上から可能になってくると、騎士の突撃は決定打足り得なくなっていきます。
そしてついにマスケット銃が実用化され、訓練期間のはるかに短い歩兵の集団が騎士を打倒できるようになると、騎士の時代は終わりを告げました。
その後も騎兵という兵種自体はその圧倒的な機動力を活かして、機甲部隊や自動車歩兵が一般化するまで命脈を保ちますが、あくまでも戦場の脇役に過ぎませんでした。