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騎兵から戦車へ

古来より、戦場における移動速度は火力や防御力と並び、そして時にはそれらを上回る価値を持つ重要な要素でした。

まず単純に、速度の乗った一撃はその威力を大幅に増しますし、高速で動く敵は攻撃を当てるのも困難になります。

また、集団戦闘において隊形は、ほぼ必ず弱い面や苦手な方向を持ちますので、そうした側面・背面に戦力を素早く届けることができれば、正面からぶつかるより大きな打撃を期待できます。

加えて、速度が優勢であるということは、勝てる時に攻め、不利なときに退くというイニシアチブを自分で握れる、ということも意味します。

いずれにしても、移動速度というのは軍において非常に重要なファクターでした。

しかし、人間はその構造上、いくら鍛えても走力に限界がありますし、重い武器防具を装備したまま、走り続けるというのは至難です。

そこで、大型の哺乳類が棲息する地域では、それを利用して兵士の移動力を強化する方法が考えられます。

こうした動物力の利用、速度の関係で大概は馬でしたが、これを行って移動力を大幅に引き上げた兵士は、恐らく遊牧民族の騎兵だったと推測されます。

ただし、この年代(紀元前3000年頃)の騎乗とは、まだ裸馬に最低限のクッションなどを付けて騎乗していたと思われるため、移動だけならともかく戦闘をこなすのは至難でした。

このため、幼い頃から騎乗に慣れ親しんだ遊牧民族、その中でも特に技量に優れた戦士が、騎兵として戦うこともある、という程度だったでしょう。

兵種として確立されていたものではなく、詳細な記録も残っていないため推測の域を出ないものでも有ります。

さて、明確な記録に残る、確立した兵種としての騎乗兵が最初に登場するのは紀元前2500年頃のメソポタミアでした。

ただしこれは、馬に直接乗って戦う騎兵ではなく、二輪立ての馬車を引かせて、そこに乗って戦う「戦車兵」でした。

ギルガメシュ叙事詩で知られるウルクなどを中心として、文明が生まれたこの地域は、チグリス・ユーフラテス堆積域で広く平らな地形が広がっていました。

人口を支える主要産業は小麦の栽培で、それを各地輸出して、特産品を得るというバリバリの農耕民族であり、生まれた時から騎乗に馴染んでいるような人間は少数でした。

ですので、馬に乗って戦えるような人間をまとまった数用意するのは無理、しかし先程も述べたように戦場での機動力は欲しい、そうした制約と要求の中から生まれてきたのが、戦車兵という兵種だったわけです。

ちなみに、馬と言ってますが、この時代のメソポタミアでは馬がまだ知られておらず、ロバがその役割を果たしていたとか・・大変ですね。

この「戦車(チャリオット)は、二輪だったり四輪だったりする馬車を引かせた上で、そこに御者と戦闘担当の兵士を乗せて行動します。

当時の技術では、馬を制御しながら武器を扱うというのが非常に困難であったため、武器を使う担当が別に必要だという話になってこの形式となったのでしょう。

それを裏付ける話として、もう少し時代が下った同地域には、一頭の馬に二人乗りして戦う騎兵という兵種も出現していたようです。

ただし、それをやってしまうと馬の負担が非常に大きくなりすぎたため、複数の馬で複数の人間を運搬する「戦車」という形に収まったのだと推測されます。

形としては、兵士の上半身が露出するオープントップの構造で、主な兵装は弓矢、サブの兵装としてすれ違いざまに攻撃できるポールウェポンが装備されたようです。

中には、頭立てと車の大きさを増して、御者・兵士・兵士の3人乗りにしたものも有りました。

速力を犠牲にして火力アップを図った、さしずめ重戦車というところでしょうか。

動力は馬で、戦車自体は引っ張られているだけという構造上、旋回性が直接騎乗に比べて著しく悪く、段差や障害物にも弱かったため、総合的な機動力では騎兵に大きく劣ります。

しかし、そもそも騎兵をまともな単位で戦場に投入できない時代において、人の走力の何倍もの速度で移動しながら攻撃可能であった戦車は、非常に有力な戦力として重宝されます。

距離を保ちながら歩兵の隊列に矢を射掛け続けたり、隊列が崩れた所があれば突撃してさらに混乱させたり、また敵の戦車の迎撃にあたったりと、その役割は小さくありませんでした。

ちなみに、戦車が用いられたのはここメソポタミアだけではもちろんなく、接続する地域の古代エジプト、同じく古代インド、そして遠く離れた古代中国でも重要な戦力として活躍しました。

ただし、古代中国に関しては時代がかなり下り、春秋時代(紀元前700~400年)が主な活躍年代となっています。

どれも共通するのは、農耕民族であり、広い平坦地が多い地域であったことでしょう。

こうして活躍する戦車でしたが、騎兵に比べた時に性能面だけでなくコストの面でも大きな問題を抱えていました。

まず、一つのユニットに非常に高価で維持費もかかる馬という貴重品を2~4頭も使うということ。

さらに、戦車自体が当時の工業力からいってかなり「重たい」産物であり、製造にもメンテナンスにも多大な費用がかかったこと。

極めつけに、戦車兵は貴族やそれに近い有力者子弟が務めることが多く、運用する上で多額の手当を用意しなければいけないという三重苦がかかっていました。

3つ目に関しては社会体制的な問題なのですが、最初二つは戦車が根本的に持っている欠点です。

さて、戦車が平野部の大文明で主役を務めるあいだも、直接騎乗して戦う「騎兵」は静かに進歩し続けます。

もともとは個人の技量頼みだった騎乗戦闘技術も、だんだんとノウハウの蓄積が為されて一般化していくと同時に、遊牧民族が工業力に優れる農耕民族と交流する中で馬具も進歩していきます。

一つのエポックメイキングと目されるのが、鞍と鐙のセットが完成したことです。

古代インドにて紀元前5世紀頃原型が登場し、4世紀頃の中国で完成したと考えられる「(あぶみ)」は、馬上で踏ん張って武器を使うことを可能にしました。

これらの進歩により、一定の訓練で実用レベルの騎乗戦闘術を身につけることが可能なっていきます。

そうなってくると、もともと性能面でもコスト面でも負けていた戦車は、その地位を騎兵に譲渡していきます。

西洋においては戦車が廃れた後に重装歩兵・ファランクスの時代が来てしまうため、騎兵への移行ははっきりしない部分があります。

ただ、古代ギリシャの頃にはすでに実用兵器としてカウントされておらず、ローマの時代になると完全に過去の遺物となります。

むしろローマではチャリオット競争という形でスポーツ化して復活するのですが、これは措いておきましょう。

第二次ポエニ戦争ではハンニバルが、ヌミディア騎兵を縦横に使いこなして見事な戦術を成功させており、騎兵というものの有効性が再発見されます。

ただ、鐙が伝わってくるのが遅かったヨーロッパ・地中海世界では有力な騎兵の復活がかなり遅く、7世紀頃になって重装騎兵の「騎士」という形で再登場するのを待つことになります。

東洋においてはそれより早く騎兵の時代に突入します。

まず、匈奴などの遊牧民族と接していた中華世界は、その有効性に目をつけて積極的に遊牧民族から騎兵を募ります。

また、その匈奴の襲撃に対抗するためにも機動力に優れた騎兵が必須であり、コストが嵩んでも騎兵部隊を整えていくことになります。

このように、騎兵にその座を譲り渡す戦車でしたが、中世の終わりごろ15世紀、フス戦争における「戦闘馬車」という形でひょっこり復活します。

機動戦力というよりは移動可能な火砲要塞として運用されたこの「戦車」ですが、ヤン・ジシュカの指揮と相まって、当時の騎士を散々に打ちのめします。

ただ、これはあくまで一時的なものとしてフス戦争後は姿を消します。

しかしまた、時代は下って第一次世界大戦の塹壕戦の中、「戦うための車両」は「戦車(TANK)」として復活することになるのでした。

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