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冬戦争 – 小さな国の大きな勝利

送り届けられた若者の遺体にすがりつき泣く老婆・・・・以前NHK「映像の世紀」で、バルト三国のこのような映像があったことを思い出します。

若者に取りすがって泣いているのは、母親でなく実はかつての恋人や妻でした。

若者はソ連に強制連行されてシベリアの地で亡くなり、永久凍土に埋められたため、シベリアで発見されたマンモスと同じく、若々しい姿を保っていたのです。

ソ連の恫喝でバルト三国は、1940年9月末から10月にかけて12日間の間に相次いで、ソ連軍の駐留を認めます。

事実上の占領でした。

そして、ソ連はすぐさまフィンランドにも同様の要求をしてきますが、フィンランドはこれを拒否、ソ連が11月30日に侵攻を開始し、(名目はフィンランド国内に出来た傀儡政権を支持し、フィンランド国民を資本主義の魔手から解放するため、とされていました。)いわゆる「冬戦争」の火蓋が切って落とされました。

絶望的な戦力差

フィンランド軍は戦争に備え、歩兵19万人に増強。

しかし装備は、対戦車砲120門、ビッカース6トン戦車が20両足らず、機関銃が4500丁、航空機160機でしたが、その中で1線級はフォッカーD21が36機だけであり、他は第一次大戦の装備の域を出ていませんでした。

対するソ連軍は、兵員数でも45万人と大きく上回っていましたが、それよりも大きかったのは砲1900門、戦車2400両、航空機670機という、圧倒的な装備の差でした。

当初ソ連は、戦闘は3日間で終わると本気で考えて、兵には外套さえ支給していませんでした。

ちなみに当時の人口は、ソ連が1億7000万人、フィンランドは370万人でした。

自然はフィンランドの味方

大軍で攻め込んだソ連軍でしたが、幅の広い道路も少ない上に、森と湖の国であるフィンランドでは、大軍も一気に進軍することができませんでした。

しかも、この12月前半は気温が平年を約1度上回っていたため、その1度の違いのために、沼や湿地には薄い氷しか張っておらず、戦車など車両の通行を妨げました。

フィンランドは自国をスオミと呼びますが、これは部族の名前だという説がある一方、「湖沼の国」という説もあるのです。

その名にふさわしく、ソ連軍が攻め込んだカレリア地峡だけでも大小2万余りも湖沼があり、ソ連軍の足を絡めとりました。

しかも、兵の多くはソ連邦の中でも当時のキルギス、ウズベク、タジクなど雪など見たこともない地方から来ていました。

スターリンにとっては、これらの地方の兵は敵を倒してくれれば犠牲になっても構わない、と考えられていたのです。

かつてオスマン・トルコ帝国が、征服した地の兵を次の戦いの尖兵として使い捨てにしたのと似ています。

正規軍によるゲリラ戦

先程も書いたような戦力差があり、フィンランド軍は「マンネルヘイム線」を防衛ラインとしたゲリラ戦を展開しました。

防衛戦の内側に退却しつつ、フィンランド軍は建物を破壊する焦土戦術を取り、ソ連軍が休息する建物を残しませんでした。

一方、救国の英雄カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が「呪われた物だけ敵の手に残るであろう」と言ったように、ソ連軍が手に取りそうなあらゆるものには爆弾が仕掛けられました。

また、ソ連軍が多くの道を分列進軍しようとしても、巨大な石の障害物が道を塞いでいるのです。

この石は「キヴィ」と呼ばれる氷河の漂石であり、この国はコンクリートの原料は乏しくともキヴィは豊富にあったのです。

こうして、ソ連軍はカレリアの細い道を1列で進むしかありません。

そしてこの長い長い蛇は、頭がつっかえると前に進まなくなってしまうのです。

そうするうちに、この12月は上旬とは打って変わって記録的な寒波に見舞われます。

夜の極寒に耐えるために焚き火に集まったソ連兵は、突如森の中から飛来した銃弾に斃されます。

その方向に撃ち返そうとしても銃のオイルが凍っていることが多かったのです。

フィンランド軍は武器の冷却水にアルコールやグリセリンを混ぜて氷点を下げて銃を作動させていました。

そしてほとんど損害なく、この季節に最も適した移動手段、慣れ親しんだスキーに乗って音もなく闇に消えるのでした。

巨像を倒す蟻

明るくなれば装備にまさるソ連軍が圧倒的に有利のはず、ですが、フィンランド兵は昼も勇敢に戦いました。

ソ連はこの戦いに、実戦試験も兼ねて多くの種類の戦車を投入しました。

多砲塔戦車であるT-28,T-35、SMK,試作重戦車T-100、他には「怪物」「ドレッドノート」と呼ばれすKVⅡまでありました。

しかしフィンランド兵は歩兵の支援がない状態のこれらの戦車に肉薄し、「カサパノス」として知られる手榴弾に、更に爆薬を巻きつけた集束爆弾や、火炎瓶「モロトフ・カクテル」で撃破していきました。

彼らは敵戦車の弱点を見つけるのに長けており、肉薄攻撃に備えた追加装甲を施しても更に弱点を見つけては攻撃したと言います。

そこで歩兵が支援しようとすると、白い戦闘服で所在を隠した狙撃兵の餌食になります。

フィンランドの狙撃手といえば、白い死神(ソ連軍の主観による)シモ・ハイハが有名ですが、彼以外のフィンランド狙撃手も技量は高く、800m以内なら標的をはずすことはほぼなかったそうです。

更に技量が高い狙撃手は、マキシム機関銃の防楯に空いた証明写真大の隙間から敵銃手を倒すこともできた程です。

こうして、装備が貧弱なフィンランド軍にとっては鹵獲武器は貴重な戦力となりました。

一人のフィンランド兵は「我々にはもっと沢山の機関銃が必要なので、ロシア人はもっと持ってきてくれないものか」などと語っていたということです。

中には鹵獲したT-28を1944年まで使っていて、何と「継続戦争」でT-34/85と撃ちあって、勝ったというのです。

T-28の16.5口径76.2mm戦車砲で、どこを撃って勝てたのか知りたいところです。

同じ武器でもフィンランド兵が使うと性能に補正がかかるのか、と思いたくなる程です。

雪中の奇跡

長く伸びた隊列の最初と最後を撃破して動けなくなった敵部隊を包囲殲滅するという、いわゆる「モッティ」戦術はフィンランド軍の得意技となりました。

包囲して補給を断って放置しておくことで、マイナス40度の極寒が多くのソ連兵を始末してくれるのです。

中でも名高いのは、ソ連の第163・第44機械化狙撃師団を包囲した戦いです。

しかしこの間、数的に圧倒的に優勢なソ連空軍は何をしていたのでしょう。

もちろん支援に飛来していたのですが、フィンランド軍は上空から見えないように巧みに陣地を偽装していました。

おかげで上空からはなぜか進軍しない友軍が、無為に8kmの長さに連なっているようにしか見えなかったのです。

そしてこの時、マイナス46度という数十年ぶりの寒気が、テントさえ不足し始めたソ連軍に致命傷を与えるのです。

戦力があるうちに、戦力をある方向に集中して突破を計ればあるいは損害が少なくて済んだかもしれません。

しかし、スターリンが撤退を許していないことが決断を遅らせ、司令官が退却を決意した時には最早手遅れでした。

この壊滅の後には、氷ついた戦車、自動車、大砲、馬、そしてソ連兵が8キロもの長さにわたって連なりました。

両師団の7割が撃たれた死体か、空中へ手を差し伸べた凍った死体かのどちらかになっていました。

フィンランド軍は3倍の敵と戦って10倍の損害を与えました。

海外メディアはこれを「雪中の奇跡」などと褒めそやしましたが、フィンランドが本当に欲していたのは支援の物資と兵士でした。

そして次の戦いへ

各戦線でフィンランド兵は自分たちは負けていない、という実感を持っていたかもしれません。

しかし小国フィンランドには、戦いを続ける力はなくなっていたのです。

ソ連が3日で終わると考えた戦闘は、4ヶ月でフィンランド2万6000人、ソ連12万8000人(フルシチョフに至ってはスターリン批判の席上で100万人と言いました。)の戦死者を出し、停戦条約が結ばれました。

フィンランドは勝ちはしませんでしたが、他のバルト三国と異なり、自国をソ連に蹂躙されませんでした。

しかし家族・友人を失い、国土の約1割を割譲せざるを得なかったフィンランド国民の心の奥にはソ連への怒りが刻み込まれたことでしょう。

この戦いの終わりは、次の戦いへの予告編に過ぎなかったのです。

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