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特攻をしなかった芙蓉部隊

昭和20年、残された戦力として温存された航空機は、「特攻」という常軌を逸した作戦に使用されることとなり、まともな訓練も受けることなく、離陸がなんとかこなせる程度の訓練を受けた若者が、沖縄、硫黄島、日本近海など、さまざまな場所で跳躍するアメリカ機動部隊に立ち向かって行きました。

既に日本軍には、一般的な航空作戦を展開できる力が残されていなかったのではなく、それを実践できる搭乗員がいなかったのです。

ですが、数少ない部隊が、通常の航空作戦を展開できるだけの練度を持ち、特攻作戦によらない航空作戦を積極的に実施していたことを、知る人はあまりいません。

特攻を知らない航空部隊

特攻ではなく、通常の航空作戦を実施できる部隊。

つまり、それだけの熟練した搭乗員を有し、アメリカ軍にも太刀打ちできるだけの機材を有している部隊。

既に日本の航空部隊の大半は日本本土、あるいは台湾に存在するのみとなっていましたが、その中でも芙蓉部隊(ふようぶたい)は、かなりの熟練度を維持する貴重な部隊でした。

芙蓉部隊は、日本海軍第131航空隊所属の3個飛行隊(戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊、戦闘901飛行隊)をまとめて組織されている部隊であり、関東海軍航空隊の指揮下にありました。

もともと芙蓉部隊は戦闘機隊として、関東や東海地方における防空任務を主とした舞台だったのです。

とはいいつつも、既に航空兵力の大半を喪失した日本軍にとって、通常の航空作戦を実施できる芙蓉部隊は貴重な存在であり、結局は沖縄方面の敵飛行場や艦船に対する爆撃、機動部隊に対する索敵と夜襲を行うことになったのです。

芙蓉部隊の作戦は「夜間戦闘機といえども対大型機局地邀撃に非ずして専ら侵攻企図を有せるものなり」と述べられているように、夜間戦闘機を夜明けや日没に合わせて出撃させ、銃爆撃を加えることで敵制空隊の漸減を図ろうとしていました。

これは、日中であれば既に優勢な戦闘機を有するアメリカ軍に太刀打ちできないとわかっていたことから、それらの出撃が難しいとされる夜明けや日没に狙いを定めて、攻撃を加えることを意図していたところが大きいです。

そのため芙蓉部隊では、夜間攻撃のために特別な訓練を行っていました。

夜間攻撃の訓練

芙蓉部隊では、夜間攻撃のための訓練として、たとえば搭乗員に対して昼夜逆転生活を取り入れるなどはその実例です。

作戦を行う夜間に身体をならすため、搭乗員は午前0時に起床、1時に朝食、6時に昼食、11時に夕食、午後4時に夜食と言ったように、明らかに昼夜を逆転させるような生活を強いていたのです。

また、夜間の電灯使用を制限して、夜でも目がよく見えるように日々の鍛錬を行うなど、その用意は周到でした。

問題となったのは実機訓練です。

実際に訓練用の燃料も不足する状態の中、時間と燃料が十分にないため、指揮所に基地の立体模型を作って夜間の進入経路を覚えさせ、図上演習を繰り返し実施した。

薄暮・夜間飛行訓練を行うときは可能な限り見学させ、「飛ばない飛行訓練」に努めて練度向上を図ったのです。

座学も重視して、飛行作業の合間に講義が頻繁に行われるなど、できる限り搭乗員の資質を高める取り組みがされたのも事実です。

ここまでの努力をしても、芙蓉部隊が犠牲を伴ったのは確かです。

それでも、すぐに搭乗員を補充して攻撃を継続できたのは、後方基地で訓練を継続して、随時要員を交代させるシステムを確立していたからこそであったのです。

効率を第一にして実用的なことのみ徹底して教えたことにより、訓練時間を約1/3にまで短縮することに成功した芙蓉部隊は、機材の稼働率も90%程度の出動可能態勢を維持することができたのです。

芙蓉部隊の機体

芙蓉部隊は使う機体も厳選していました。といっても、当時の最新鋭機を使うことはあえて避けていたのです。

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最新鋭機は確かに戦力としては、かなりの能力を持つとされていましたが、それを使いこなす搭乗員の養成、それに加えて常時飛べる機体として維持するための整備員を養成することが難しかったこともあり、芙蓉舞台が選定したのは、当時持て余されていた、急降下爆撃機、彗星の初期型である一二型でした。

彗星一二型は、ダイムラー・ベンツ社製水冷エンジンDB601Aをライセンス生産した当時最新鋭のエンジン「アツタ32型」を採用していたのですが、このエンジンは生産や運用の面で手に余る代物であったことで、量産化の目処が立たずに放置されていた機種でもありました。

特にエンジンが水冷エンジンであったことも、不慣れな整備員の経験不足と重なって、続出するエンジントラブルを解消できなかったことで稼働率は著しく低かったのです。

そんな彗星一二型は、艦上爆撃機部隊の運用から外され余っていたところを、芙蓉部隊の機種として採用されたのです。

芙蓉部隊としては、彗星一二型の基本性能のうち、高速での夜間飛行も難なくこなする部分に着目したことで、より戦果を挙げようと必死の努力を行ったわけです。

あらゆる機体トラブルの解消を図るために、彗星十二型を製造した愛知航空機へ整備員を派遣するなどの努力も功を奏しました。

美濃部少佐

あわせて取り組んだのが武装の研究で、当時は最新鋭の兵器であった対地・対空用の三式一番二八号爆弾や、空中で爆発して爆風や破片で周囲に被害を与える三一号光電管爆弾など、特殊爆弾を積極的に採用したことで、より多くの戦果を実際に上げることができたのです。

危険が伴う最新鋭の兵器を使うことは、ある意味「特攻」よりはましだ、と捉えられていたこともあり、これらの努力を積み重ねて、通常戦法による航空攻撃を可能とする芙蓉部隊の実力は、日増しに高まっていったのです。

これらの取り組みが行われたのは、指揮官である美濃部少佐の考え方がありました。

特効は、所詮その場で必要な期待や人員を消耗してしまう戦法であり、通常戦法でいくらかでも戦果を上げる確率があるのであれば、まずはそのための努力を実施するという方針があったのです。

特攻やむなし、という気運がどこの航空隊でも高まる中、戦果を挙げ、通常戦法でも十分戦いうることを立証したことで、芙蓉部隊の方針は軍上層部へも受け入れられていったのです。

実際、芙蓉部隊が所属していた第三航空艦隊で行われた作戦会議の際に、指揮官として会議に出席した美濃部少佐は「第三航空艦隊の作戦方針は全軍特攻」という方針を告げられたとき、反対の声を上げています。

「特攻の掛け声ばかり大きくてもどうしようもない。ここにいる人は司令官・参謀ばかりで実際に特攻するわけでは無い。練習機まで投入したところで、戦果を期待できるはずがない。失礼ながら私はココにいる誰よりも多く突入してきました。もし練習機まで投入しても戦果が上がるというならあなた方が突入したらいい。私が零戦一機で全機撃墜して見せます」

これだけの発言をして、美濃部少佐は激しい非難にさらされます。

しかし、前述した戦術、整備、さまざまな努力に裏付けられた戦果を立証することで、芙蓉部隊は終戦まで特攻を命ぜられることはなかったのです。

夜間攻撃

アメリカ軍の沖縄上陸が迫る中、芙蓉部隊には、任務が課せられ、関東地方配備であった芙蓉部隊は九州・鹿屋基地に一部部隊を移動を命ぜられたのです。

その任務とは、芙蓉部隊が目指す「夜間攻撃」。

制空権がアメリカ軍に握られている状況下で、日中に航空機で沖縄を攻撃するのは非常に困難であったことから、敵戦闘機の少ない夜間に単独または集団で爆撃を行い、戦果を挙げようとしたのです。

芙蓉部隊はもともと、開戦以来のベテランが多く残る水上偵察機出身者が多かったのも、任務の遂行をスムーズにしました。

もともと彼等の多くは夜間飛行ができる腕前の搭乗員ばかりであり、若手の学生出身者とコンビを組ませて、アメリカ軍が待ち構える沖縄の空に出撃し、駆逐艦や巡洋艦を沈め、空母や戦艦にて痛い一撃を加えることにも成功しています。

でも、芙蓉部隊が努力しても戦況が好転することはありません。

芙蓉部隊は終戦を九州の岩川基地にて迎えます。

徹底的に秘匿されたこの基地は、終戦までアメリカ軍の攻撃を受けることのなかった唯一の基地になりました。

美濃部少佐が行った隠蔽策は、日中に牛を放しておくなど徹底しており、見方でも見間違うほどの偽装であったとされています。

こうして、さまざまな努力の元、特攻という「統率の外道」ともいえる作戦を乗り切り、多くの搭乗員の命を無駄死ににしなかったことは、後世において評価されることになるのです。

さまざまな努力をして、日本という国を守ろうとした気持ちは誰しも一緒であるけれど、さまざまな方法があったことは、私たち後世の人間も理解しておく必要があると思います。

3 COMMENTS

森永 國昭

 先日、鹿屋海上自衛隊資料館に行きました。資料がそろっていて戦跡としての価値がありました。もちろん岩川も行きたいのですが、機会がなく訪問できないままです。
 特攻が鹿屋からも行われていて、しかも知覧より犠牲者が多いのははじめてしりました。知覧のほうが知名度が高いのです。鹿屋の慰霊塔も訪ねたいと思っています。

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空手家

写真が彗星ではなく、特攻専用機と呼ばれた「剣」になっています。内容にそぐわないので彗星に差し替えていただいたほうがよいと思います。

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