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高速大型潜水艦と回天

NRP Tridente (S160) Submarine dry dock in Kiel

1922年、ワシントン会議で締結されたワシントン海軍軍縮条約からの脱退により排水量の制限を受けなくなった日本海軍は、新たに巡潜型の開発に着手し、旗艦設備と航空機搭載型の大型潜水艦を建造を始めました。

これが甲型と言われるもので、3隻建造されたうち2隻が昭和12年度海軍補充計画で建造され、甲型は航空機の射出機を艦首に向けて設置し、格納筒も艦橋と一体型となってより迅速な発着艦が可能になりました。

機関も馬力の高い艦本式2号10型ディーゼルを搭載、建造や整備にとても手間のかかる機関でしたが、2基で24,000馬力、23.5ノットの高速力が発揮できました。

当時の世界水準と比べても劣るところのない、大航続力の高速大型潜水艦です。

乙型潜水艦は甲型から旗艦設備を除いた潜水艦で、排水量と乗員が甲型より減少し、航続距離が若干少なくなった以外は基本性能に変わりはありません。

それでも乙型は水中機動性に優れ、解くに急速潜航時間が短いため乗員からとても信頼されている潜水艦で、機関は高出力の艦本式2号ディーゼルでしたが、構造が複雑で量産に適さず、整備も大変だったそうです。

乙型は昭和12年度で6隻、昭和14年度計画で14隻の合計20隻と日本海軍潜水艦の同型艦では最大隻数を誇り、航空機搭載型の潜水艦がこのように大量に建造された例はほかにありません。

その航空機用の兵装である射出機、航空機可格納筒は甲型と同じく前甲板に装備され、旗艦設備がないぶん艦橋がより小さくなり、機銃が1基のみとなった以外は兵装においても甲型と相違点はありません。

昭和12年度海軍補充計画で6隻が建造され、横須賀工廠、三菱神戸造船所で各2隻ずつ、呉工廠と川崎重工で各1隻ずつ建造され、開戦までにすべて竣工し、つづいて昭和14年度海軍軍備充実計画で14隻が建造され、昭和18年4月までに全艦が完成しました。

戦時中の改装としては戦時中に三式探信儀(レーダー)、昭和19年8月には対水上用電探2号2型が装備され、昭和20年には対空用電探が装備されました。

太平洋戦争において隻数、性能ともに中心的潜水艦であったため、対戦中の戦果も顕著なものがありました。

「伊15」は駆逐艦「オブライエン」、「伊17」は魚雷艇、「伊19」が米正規空母「ワスプ」を撃沈、同様に「伊21」が駆逐艦「ポーター」、「伊25」が軽巡「ジュノー」を撃沈、「伊26」が「サラトガ」撃破、商船では「伊27」が15隻を撃沈するなど活躍しています。

ちなみに「伊27」が撃沈した商船15隻は日本海軍の潜水艦の中でトップです。

また、とくに戦争前半では航空機偵察作戦が多用され、「伊17」が1回、「伊19」が2回、「伊21」が6回、「伊25」が最も多く11回、ドイツに派遣された「伊29」が1回、同じくドイツに派遣された「伊30」が3回、「伊31」が4回、「伊32」が2回、「伊39」が4回実施しました。

また「伊25」から発進した水上機は米本土空襲を2回成功させています。

戦局が厳しくなると乙型の一番の特徴である航空機偵察は昭和19年後半から困難になりましたが、かわりに母潜任務に活用されるようになりました。

「伊27」「伊28」はシドニー港湾襲撃の特殊潜航艇母艦として使われました。

戦争末期の特攻作戦では「伊36」「伊37」の2隻が使用され、昭和19年には艦尾の備砲を撤去して「回天(太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷)」を2~4基装備し、昭和20年には前甲板の航空機格納筒まで撤去して「回天」を搭載するなどの改造が行われました。

以後、本来の乙型の特徴を活かす機会は二度と来ることはありませんでした。

日本海軍潜水艦の中で最大の同型艦数を誇る乙型でしたが、過酷な戦局を開戦から終戦まで戦った結果、終戦まで残存できたのは「伊36」1隻のみでした。

丙型潜水艦は乙型の航空兵装を廃止し、魚雷発射管を甲乙型の6門から8門に強化した艦で、同型艦は全部で8隻建造され、昭和12年度海軍補充計画の5隻はすべて開戦前に竣工しました。

その後の計画では昭和16年度戦時建造計画で6隻、昭和16年度戦時建造追加計画で6隻、さらに昭和17年度艦船建造補充計画でじつに40隻の建造を予定していましたが、昭和16年度戦時建造計画の3隻と丙型改と言われる改良型を昭和16年度戦時建造追加計画で3隻建造下のみでほかは建造取り止めとなりました。

建造場所では呉工廠で1隻、佐世保工廠で5隻、三菱神戸造船所で1隻、川崎重工で1隻建造されました。

丙型の最大の特徴である雷装においては、魚雷搭載数20本となっていて、これは丙型が交通破壊戦用ではなく、艦隊攻撃用高速潜水艦として構想されていたことを示しています。

基本設計は早期完成を目指すため、巡潜3型を流用していますが、同型で指摘されていた潜航性能の改善がほどこされています。

さらに、タンクの配置や形状が異なり、注排水装置も改善されるなど実質、船型は同じでも巡潜3型とは異なった形式と言えるでしょう。

ただし、船型が同じであるだけに魚雷発射管を2門増やすことは本来容易ではありませんが、幸いにして巡潜3型の上部発射管室の上にある予備魚雷格納用の魚雷格納筒を発射管に変更することにより解決しました。

機関は高出力の艦本式2号10型ディーゼルが搭載され、甲型、乙型と同じで、備砲は巡潜3型が14センチ連装砲であったのを14センチ単装砲に変更し、対空機銃は13.2mmから25mm連装機銃に変更されました。

丙型は実戦での評判がとても高い潜水艦で、徳に凌波性が高く、急速潜航の速度も速く、電池の充電時間も短く、艦内の居住性も良かったと言われています。

開戦時には広い後甲板に「甲標的」を搭載し、甲標的母艦として真珠湾では「伊16,18,20,22,24」が母潜として参加しています。

次の第2次特別攻撃隊でもシドニーでは「伊16,20」が、ディゴスワレスでは「伊22,24」が母潜として参加しています。

引き続きガタルカナル島でも甲標的母艦として使われ、「伊16,20」は3回、「伊24」が2回使われています。

丙型は雷装強化型として、交通破壊戦というより敵主力艦襲撃に重点を置かれるべき潜水艦ですが、太平洋戦争前半では甲標的母艦としての活躍が目立ち、太平洋戦争後半では「回天」の母艦として「伊47」が5回の出撃を果たしました。

内訳は菊水隊、金剛隊、天武隊で「回天」4基ずつ、多聞隊は発進せずで、「回天」12基の出撃を見送りました。

様々な作戦に使われた丙型でしたが、ますます過酷な状態になる潜水艦戦の中で昭和17年に「伊22」、昭和18年に「伊18,20,24」昭和19年には「伊16,46」、昭和20年には「伊48」が沈没してしまいました。

丙型8隻のうち回天母潜任務から5回の生還を果たした「伊47」が唯一生き残りました

海大7型は、昭和13年竣工を最後にしばらく途絶えていた昭和9年度計画の海大6型b以降、久しぶりの海大型の建造で新海大型と呼ばれました。

しかし、新巡洋艦である甲乙丙型が順調に建造されている中、この時期に性能的にはむしろ後退した海大型をなぜ大量に建造したのかは判然としません。

それでも実戦における水上および水中運動性能は良好でこれまでの海大型で指摘されていた急速潜航の性能も改善されています。

また、無気泡発射管を最初に装備した潜水艦でもあったため、全体的に艦隊での評価は高いものでした。

しかし、戦局的に海大7型にとって厳しい状況での就役ということもあり、本型全体としては活躍の場は少なく、わずかに豪州東岸での交通破壊で「伊177,178,180」が6隻を撃沈した以外、特に目立った戦果はなく、訓練中に事故沈没した「伊179」を含め昭和19年9月までに全艦が失われました。

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